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木綿栽培と綿織物業

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2012年10月3日掲載

図書館のアイドル「くまたくん」は、前回に引き続き「岸和田再発見の旅」に出かけることになりました。旅先は「繊維産業」です。さて、どんな発見に出会うでしょうか。

戦国時代に全国に広がった日本の木綿栽培

【くまた】 繊維産業については、「岸和田再発見」の第4弾~第6弾の「大正・昭和時代の岸和田」で詳しく紹介していたので一通り読んだよ。第2弾の「農業・漁業」では、江戸時代には木綿栽培が盛んだったことも書いてあったけど、そもそも木綿の栽培はいつ頃から始まったのかな。

《図書館》 さすが、くまた君。準備はばっちりだね。木綿については『新・木綿以前のこと』(永原慶二著 中公新書)に詳しく書いてあるよ。この本では、全国各地の史料をもとに、「戦国期のうちに、木綿栽培は、東北地方を除いて、ほとんど全国的に展開した」と書いている。

木綿布はそれ以前から中国や朝鮮から伝わっていたようだけど、その中国でも本格的に綿花栽培が広がるのは、それほど昔ではないらしい。「中国木綿栽培、木綿織布は、元末明初、すなわち14世紀を中心に発展し、その動きの中で、ややおくれて、朝鮮にも導入され、日本国内への導入は…それから1世紀近くおくれる…」と書いている。日本国内の木綿生産は16世紀に大きく広がったようだね。

【くまた】 大阪や泉州地域もこの時期なの?

《図書館》 多分、そうだろうね。「畿内については…大和・摂津・河内・和泉が江戸時代に最も高度な綿作地帯になっており、その前提は戦国時代にまでさかのぼるとみられる」と指摘している。「和泉」というのが現在の泉州地域のこと。だから「和泉木綿」と呼ばれていたんだ。

【くまた】 なるほどね。でも、なぜ戦国時代に一挙に広がったのかな。

《図書館》 それは、戦国時代という特殊性が大きく影響したらしい。ここを読んでごらん。

室町時代、貴族や僧侶に珍重され、貴重品なみの扱いを受けていた朝鮮・中国からの輸入木綿も、戦国時代に入ると、国内木綿栽培の開始によって、兵衣・帆布・火縄・陣幕・馬具・などの軍需品の分野にその用途をひろげていった

【くまた】 そうか。まず、侍の軍需用品として真価を発揮したので、全国各地の戦国大名が競って木綿栽培を始めたんだね。

《図書館》 例えば、当時の鉄砲は火縄銃。その火縄に木綿も使われたらしいよ。火縄は、点火しやすく、もちがよく、簡単に消えないものが必要だ。木綿は耐水性もあるので雨天でも使えたようだ。この本では「長篠合戦の信長・家康連合軍の鉄砲隊も木綿火縄を使って、折しも梅雨時の迎撃戦に見事な勝利を得たと思われてくる」と書いている。それが事実かどうかはわからないけど、家康の本拠地は木綿栽培の先進地である三河だったから、その可能性はあるよね。

【くまた】 帆布というのは、船に張る帆のことだね。それまではムシロでも使っていたのかな。

《図書館》 ここを読んでごらん。

戦乱の時代にはいかに大量のものをいかに早く輸送するか、ということが軍事上とくに強く要求される。その点で木綿帆は船足をスピードアップさえるうえできわめて有効だった。わら帆・むしろ帆にくらべて、木綿帆の方が、船足をあげるのに適していたというのは、木綿地の方が風が抜けず、よく風をはらんだからである。また雨や海水によってぬれた場合にも、木綿の方がおそらくわらより乾きやすいとか、そのほかにも操作しやすいとか、いくつかの利点があったと思われる。

【くまた】 なるほど、木綿栽培が進んだ地域ほど有利に戦えた面もあったようだね。一般の庶民の日常衣料に広く使われるようになるのは、江戸時代になってからかな。

江戸時代には庶民の衣服も豊かになり、女性も美しくなった…

《図書館》 この本の冒頭に『おあむ物語』という、戦国時代から江戸時代の初めに生きた一人の女性の昔語りが紹介されている。その一節を読めば当時の時代の変化がわかるよ。

「さて、衣類もなく、おれが十三の時、手作りのはなぞめの帷子(かたびら)一つあるよりほかには、なかりし。そのひとつのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ、ほしやと、おもふた。此様にむかしは、物事ふ自由なことでおじゃった。・・・今時の若衆は、衣類ものずき、こころをつくし、金(こがね)をつひやし・・・沙汰の限りなこと」

【くまた】 現在でも年配の人は「今の若者はぜいたくだ」と言うよ。いつの世も同じだね。13歳から17歳まで一つの「かたびら」しかなかったと言ってるけど、「かたびら」って何?

《図書館》 帷子(かたびら)というのは、裏をつけないひとえの着物のこと。ゆかたみたいなものだよ。夏冬通して、ひとえの麻の着物一枚で過ごしたことになるね。つまり、おあむの少女時代は、日本人の衣料の中心が麻であった時代の最後の段階。その後、木綿の時代に入ると衣生活は一変し、衣服も一挙に豊かになったということだね。

柳田国男さんは『木綿以前の事』(創元社)で、麻から木綿への変化の意味を、感性あふれる文章で描き出している。木綿が「第1には肌ざわり…第2は色々の染めが容易なこと…」などで広がり、衣生活を変化させたことを指摘して、次のように書いている。

木綿の衣服が作り出す女たちの輪郭は、絹とも麻とも又ちがった特徴があった。其上に袷(あわせ)の重ね着が追々と無くなって、中綿がたっぷり入れられるやうになれば、又別様の肩腰の丸みができて来る。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前よりは明らかに外に現れた。・・・一方には今まで眼に見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て人の身に属するものとなった。心の動きはすぐに形に表れて、歌うてもないても人は昔より一段と美しくなった。

※ 袷(あわせ)…裏地つきの着物

【くまた】 へー、木綿によって女性が美しくなった…。何となくわかる気がするなあ。木綿は、量だけでなく質の面でも、民衆の生活文化に豊かさをもたらしたんだね。日本のファッション文化にも大きな影響を与えた訳だ。

木綿は、自給経済から商品経済へ大きく転換させた

《図書館》 でも、永原慶二さんが『新・木綿以前のこと』で特に強調しているのは、もう一つ別の側面なんだ。「木綿の登場がもたらしたものは、麻では得られなかった肌ざわり・保温性・染色性のよさばかりでなく、日本経済の性格を全体的に自給経済から商品経済へという形で大きく転換させるほどの巨大な役割を演じることになると思われる」と書いている。

【くまた】 どういう意味か、よくわからないなあ。

《図書館》 米は自分たちで食べる分以外の多くは、年貢として領主に取り立てられ、大坂や江戸で商品として売り出される。だけど、農民の手で直接、商品生産・販売が行われることは少ないよね。それに対して木綿は、当初から商品作物(換金作物)としての性格を備えていた訳だ。

木綿を衣類に仕上げるまでには様々な工程があるんだ。「わた繰り」という種を取り除く作業、「綿打ち」という綿をときほぐし繊維の方向を揃える作業、そして糸を紡ぎ、機織りをする…。それらの間に社会的分業が急速に展開し、綿繰り・綿打ちなどを専業にする者も生まれる。

木綿を栽培し、実綿を売ったり、紡糸・織布までを手掛けて売るようになると生産意欲も高まるよね。すると、収量を上げるために干鰯(ほしか)のような購入肥料もどんどん使うようになり、干鰯が大型商品になる。染色としての藍(あい)業も盛んになる。そのように、木綿生産は次々に商品経済の波及効果を生み出した。それに応じて、流通の分野でも廻船業が大きく発展し、泉州地域でも食野(めしの)や唐金(からかね)などの大きな廻船問屋が生まれた…。

【くまた】 木綿栽培が広がる中でいろんな製造業が生まれ、流通業や金融業も発展したという訳だね。干鰯(ほしか)については、「岸和田再発見」の第2弾「農業・漁業」でも書いてあった。漁業の発展も促した訳だ。農業・漁業・製造業・流通業・金融業が結びつき波及効果を与え合いながら発展した…。こういうのを「地域経済循環」って言うんだね。

《図書館》 くまたくんは、むつかしい言葉を知っているね。泉州地域の木綿栽培の様子については、泉南歴史研究会が編集した『わがまちの繊維産業と働く人々』の中に、泉南の新家村での明和4年(1767)の綿栽培の日記が紹介されているよ。現代文にしてくれているから読みやすい。そして、明治から昭和戦前、戦後の復興期のことも掲載されているから、参考になるよ。

図書館には、こんな古い調査研究書もあります

【くまた】 その後泉州地域では、繊維産業が地場産業として盛んになったことは、「大正・昭和時代の岸和田」でも詳しく書いてあったけど、図書館には他に参考になる本があるのかな。

《図書館》 古いものでは、昭和13年に相澤正彦氏が編集した『泉南織布発達史』や、谷口行男氏が昭和18年に大阪商科大学の卒業論文として書いた『泉南郡綿織物発達史』がある。谷口氏は卒業後民間会社に就職したが、半年後に入隊。猛烈な軍隊訓練の過労から発病し、敗戦後まもない20年10月に27歳という短い生涯を終えたらしい。「息子の遺志を遂げさせてやりたい」と、行男氏のお父さんが25年に発行されたんだ。

岸和田市立産業高校も昭和27年に『泉州産業概観』、28年には『研究報告書―泉州産業調査報告』をまとめている。この当時、泉州経営者協会が、岸和田産業高校、貝塚高校、佐野工業高校の3年生を対象に「郷土産業教育講座」を開き、その中の繊維部門をまとめて『泉州の産業』という冊子を発行している。寺田元之助氏(帝国産業(株)社長)をはじめ、各社役員等が講義しているので興味深いよ。

産業高校の校長だった中澤米太郎氏(元岸和田市長)がまとめた『泉州産業史』も明治・大正時代の産業を学ぶ上で参考になるよ。また、岸和田商工会議所は、昭和40年に『岸和田市綿スフ織物業―実態分析と今後の課題』を発行している。泉州織物工業協同組合が平成5年に発行した『組合概史』の中でも「泉州織物の変遷」が簡単にまとめられている。これらは貴重な史料なので、貸出ができないものも多いけどね。図書館でじっくり読んでほしいな。

岸和田の繊維産業は、現在もがんばっています

【くまた】 いろんな調査研究が行われていたんだね。でも、現在はどうなっているの。岸和田の繊維産業は衰退してしまったのかな?

《図書館》 そんなことはないよ。岸和田市が平成16年に発行した『岸和田市製造業実態調査報告書』を見てごらん。この調査は、調査員が直接全事業所に出向き対面・聞き取りしたのをまとめている。この結果を見ると、事業所数では「繊維工業製品」が193件(16.8%)、「衣服その他繊維製品」が217件(18.9%)で、繊維関連業種が製造業全体の35.7%を占めている。次いで多いのが「金属製品」167件(14.5%)、「一般機械器具」121件(10.5%)であり、市内の製造業者の約7割が繊維関連か金属・機械関連企業ということになる。

【くまた】 へー、知らなかったな。かなり以前から繊維産業は衰退したと思っていた。

《図書館》 その報告書の繊維関連のデータを基本に詳細に分析した『岸和田市製造業実態調査 繊維産業編』も平成17年に発行されている。市内事業所への聞き取り調査や大阪市の繊維産業の分析、今治タオル産地の調査なども掲載されているから興味深く読めるよ。

報告書では「岸和田市の繊維関連産業は…減少したとはいえ、まだ厚みをもって存在している。後進国などには見られない技術力やノウハウを持った企業も存在している」と指摘している。

【くまた】 他にも繊維産業の新しい調査資料があるの?

《図書館》 大阪府立産業開発研究所が平成22年に発行した繊維産業の調査報告書『大阪繊維産業の活性化に向けて― 繊維産業集積実態調査報告書―』もあるよ。この中では「全国の繊維産業における大阪府の地位は、繊維工業、衣服、その他繊維製品製造業のいずれにおいても、事業所数、従業者数、製造品出荷額等の各シェアはトップレベルにあり、素材から製品までの一貫生産を行う産地として、現在においても国内有数の規模となっている」と指摘している。

そうだ。その執筆者の一人、松下隆さんは岸和田市が進めているいろんな取組みにも参加・協力してくれているから、直接会って聞いてみたらどうかな。連絡してあげようか。

【くまた】 それはうれしいな。お願いします。

― ということで、今回は、大阪府商工労働部・大阪産業経済リサーチセンターの主任研究員の松下隆さんにも協力をお願いすることになりました。

岸和田市の繊維産業は、綿織物業が中心

【松下】 やあ、くまたくん。大阪産業経済リサーチセンターの松下です。よろしく。

【くまた】 わざわざ図書館まで来てくれてありがとう。いろいろ聞きたいけど…。泉州と言えば、泉佐野のタオル、泉大津の毛布が有名だけど、岸和田では主に何をつくっているの?

【松下】 岸和田市は主に綿織物業が中心で、多くの企業が集積してきたんだ。織物業も2種類あって、織物の幅が45cmを超えるものを広幅、それより幅の狭いものを小幅というんだ。

【くまた】 なぜ2つの種類があるの?

【松下】 それは機械の歴史、衣服の歴史にも関連している。江戸時代までの織機(織物を作る機械)は木製で、主に小幅織物が多かった。明治になってからも日常着は和服中心だったよね。伝統的な着物や浴衣、手ぬぐいなどに使用する布は、主に小幅織物だ。それが大正・昭和になると洋服が増えてきて、広幅織物の需要が多くなり、広幅織機を導入する企業が増えてきたんだ。

小幅織物の織機 写真広幅織物の織機

小幅織物の織機               広幅織物の織機

【くまた】 和服から洋服への変化は、『カーネーション』を見てたからよくわかるよ。

【松下】 広幅織機は小幅織機よりも織るスピードが格段に速い。機械も革新織機の導入などで、生産性が高く高品質な製品をつくることができる。洋服生地やワイシャツ生地などだけでなく、最近は浴衣も広幅のものが増えてきて、小幅織物の生産規模は大幅に縮小している。でも、和服は日本の伝統であり、そうした趣のある織物が好まれる風潮もある。加えて少量生産にも適しているから、産地になくてはならないものと思うよ。

【くまた】 戦後、どのように復興してきたのかな?

【松下】 1951年(昭和26年)には大阪市立大学経済研究所が府内63企業に実態調査をしている。この辺りを読んでごらん。戦後間もない時期の様子がわかるよ。

「戦後の綿業は、昭和21年6月に始まる米綿輸入を基底として、再建されていった。この米の綿輸入は・・・戦後の世界的な綿製品不足に対処するため、日本の残存綿業設備を利用するというのであった。したがって最初から製品の国内消費は最低限までおしさげ、あくまで輸出第一の方針ですすまれた。・・・輸出製品生産については国有棉方式がとられ、政府棉を紡績、織布業者等に賃紡、賃織することとなった。」

「泉州の零細農家の子女がもっぱら、泉州中小機業における労働供給源となる。このことは、泉州中小機業が家計補助を必要とする零細農=貧農層に緊密に結合しながら、そこに低賃金労働の根源を求め、それによって、存在を維持してきたことを意味する」

【松下】 戦後復興のために、輸出第一で進められたこと。低コストをめざし、地域の農家と強く結びついていたことなどがわかるよね。

1969年(昭和44年)には、大阪府立商工経済研究所が広幅生地織物の製織企業で岸和田市(泉州織物工業組合)25社、貝塚市(南部織物工業組合)28社、その他合計59社にアンケート調査をしている。その頃が繊維産業の最盛期だね。

昭和30年代からの労働力不足に対応するため、それまで手作業で行っていた経糸(たていと)準備の自動化機器を積極的に導入した。それにより、労働力の不足、賃金上昇抑制、効率化へと常に原価低減を目指して突き進んでいたんだ。

【くまた】 経糸(たていと)準備の自動化機器ってどんな機械なの。

【松下】 織物は、経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を組み合わせて作るんだ。経糸・緯糸という表現は、地球の緯度・経度を思い浮かべればわかるよね。織物をするとき、緯糸を通すのは機械で早くできるけど、経糸を通すのは最も大変な工程なんだ。経通し(へとうし)といって、熟練と技術が求められる作業だよ。それを自動化した機械が「リーチングマシン」。人がすると一日かかる作業も、機械なら数時間でできる画期的なものなんだ。

【くまた】 最近は買い物に行っても、中国や東南アジア製のものが多くて、日本製の製品が少なくなってきた。このままだと日本の繊維産業がどんどん衰退してしまいそうだけど、地元の業者は、勝ち残るためにどのような取組みをしているのかな。

【松下】 そうだね、一口に繊維産業と言っても非常に多くの工程があり、それぞれ専門化した業者が営業し、分担して仕事を流している。それを「分業体制」って言うんだよ。その工程の一部でもなくなると「産地」として成り立たなくなるんだ。

【くまた】 わかる、わかる。木綿から衣服になる間に社会的分業が広がったという話を聞いたよ。

【松下】 よく知ってるね。現在はもっと高度な分業体制になっている。例えば、織物業者にとって、製織の前工程となるサイジング(のり付け工程)は必要不可欠なんだ。「経糸をのり付けし、ビームに巻く」→「緯糸をセットする」→「製織する」。この工程が工場近辺でできないと本業である製織にとりかかれない。のりを付けて大きなリールに巻いたビーム(幅1メートル以上の大きな鉄にのりを付けた経糸を播いたもの)を遠くに運ぶには、運賃が高くつくよね。そのサイジングができる業者がなくなってきた。そこで、岸和田のある業者は、倒産しかけていたサイジング業者に資本参加して関連企業にし、倒産を回避したんだ。自社のためだけでなく同業者の補完もしたことになる。産地を存続させるためだね。

【くまた】 産地としての機能を守ることが大切なんだね。個別企業の営業努力だけではだめなことがよくわかった。他にはどんな取組みをしてるの?

【松下】 外国の展示会などに生地を展示して営業活動を行う企業もみられるよ。例えば、世界的に有名なフランスのテキスタイル(織物)展「プルミエールビジョン」の時期に、その近くで数社が費用を出し合って自主企画の展示会を開催し、来場者に対するPrを行っているんだ。

というのも、その展示会に出展するには、欧州で100軒以上のバイヤーとの取引をしていないとダメ。出展費用も高額で、中小の織物業では出店するのは困難だからね。そうした営業活動によって、ヨーロッパの有名ブランドからも高い評価を得ることで、交渉段階で有利な営業条件を結べるようにしている。「ブランド化」も狙っているんだよ。

【くまた】 へー、ヨーロッパにも進出してるの?「高額なヨーロッパの有名ブランドの服を買ったら、実はその服地は岸和田で製造したものだった」ということもあるだろうね。

【松下】 そうだね。日本の織布技術は世界でもトップレベルなんだよ。最近は見直されて、高級織物として諸外国への輸出も徐々に増えている。その他にも各分野で様々な取組みが行われている。でも、厳しい状況に変わりはない。このままズルズル行って「産地機能」が失われるのが心配だね。そうなると技術まで消滅し「再生」はより困難になるから…。

「全国コットンサミット」や「東北木綿プロジェクト」~新たに広がる日本の木綿栽培

【くまた】 衣類まで日本で製造できなくなったら大変だね。食料の自給率も低いしなあ…。生活の基本である「衣・食・住」を外国に依存していたら「豊かな国」とは言えないよね…。そうだ。昨年5月、岸和田の浪切ホールで「全国コットンサミット」が開催された。その「報告集」は図書館にもあるんだよ。松下さんも参加したの?

【松下】 準備段階から参加させてもらったよ。この数年、全国各地で本格的な木綿栽培が広がってきたので「一度集まって交流しよう」と、開催したんだ。加えて、『「2011全国コットンサミットin岸和田」事業報告書』の作成も手伝うことになったんだ。

【くまた】 日本のどんなところで綿花栽培がおこなわれているの?

【松下】 北は北海道から、南は九州まで広い範囲だよ。サミットでは、全国で綿花栽培を行う個人や団体・企業が集まって、各地の取組みを報告しあったんだ。以前から市民団体などが中心に綿花を栽培し糸紡ぎや機織りをする取組みはあったけど、最近の特徴は、繊維関係企業がかなり大規模な綿花栽培を始めたことだ。その背景には「国民の環境問題への意識の高まり」、そして、くまたくんが言うような「国内の繊維産業への危機意識」が背景にあると思うよ。

最近、「日本製」にこだわる企業や消費者が増えてきた。それをさらに徹底させて「原材料の綿花まで国産にこだわってみよう」という動きかな。コスト面など課題も多いけど、消費者にも「夢」を与え共感が広がっていることは確かだね。その先鞭をつけたのが岸和田なんだ。

【くまた】 岸和田でも木綿栽培をしているの?

【松下】 1996年から「きしわたの会」という市民団体が、「地域の歴史や産業を見つめ直そう」という思いで木綿栽培を始めた。2000年からは、収穫した綿で靴下やTシャツ、手ぬぐいなどの繊維製品もつくり始めた。阪南市の大正紡績(株)にお願いして紡績してもらい、その糸で地域の繊維業者にいろんな製品をつくってもらったらしい。その内容は『地域を見つめ夢を育てる』という冊子にまとめているよ。

2004年からは(財)岸和田市中小企業振興会が「木綿物語プロジェクト」を発足させた。広く市民に綿の栽培を呼び掛け、一方で「夢つむぎ会」という繊維関係の業者グループをつくり、市民が育てた綿を生かした製品づくりを進めているんだ。発足当時の様子は、『都市政策きしわだ』(Vol.10~12)にも載っているよ。その当時、国内産の綿で工業製品を製造するようなことは、ほとんど誰も考えなかったから、先駆的な取組みと言えるだろうね。

今回の「全国コットンサミット」も、その「夢つむぎ会」と大正紡績(株)が全国に呼び掛けて開催したんだ。非常に大きな反響があって、今年は鳥取県の境港市で、来年は奈良県広陵町で、再来年は香川県観音寺市で開催することまで決まっている。

【くまた】 それはすごいね。テレビで東北でも綿の栽培をしてるって報道してたけど…。

【松下】 そのきっかけをつくったのが「全国コットンサミット」なんだ。報告者の一人が「東北を綿花で支援しよう!」と呼び掛け、「宣言」にも盛り込まれて「東北コットンプロジェクト」として発足することになったんだ。

東北の田畑は大震災による津波で海水に浸かり、灌漑設備も壊されてしまった。塩分濃度が高いと稲などの作物も育たないから、塩分に強い綿花栽培で除塩し、稲作もできる田畑に戻そうという取組みだった。ところが、東北農家の人は「これを機会に、稲作だけでなく多角的な農業にも取り組みたい。綿にも夢を託したい」と、新たに生産者組合も設立した。その中で、非常に多くの企業や団体も積極的に参加し、今では大プロジェクトになっている。私も、昨年と今年、「夢つむぎ会」の人々などとボランティアの綿の種まき作業に参加したんだよ。

【くまた】 一体、どれくらいの面積で栽培しているの?

【松下】 宮城県の名取市と仙台市の荒浜地区で、今年は約10ヘクタール栽培している。最近は全国各地で1ヘクタール以上も栽培している所が数多く出てきたから、全国的にはかなりの面積になるだろうね。

ところが、農業統計上は全く把握されていないんだ。日本の綿花栽培は、明治29年に綿花の輸入関税が撤廃されてから急速に衰退し、昭和40年代半ば以降はなくなったことになっているんだ。『工芸作物学』(西川五郎著 農業図書(株)1960発行)には、次のように書いている。

日本における綿作は、明治29年4月の輸入綿花関税撤廃までは、約10万ヘクタール作られていたが、その後この措置によって急激に綿花生産は減少し、昭和10年にはわずかに632ヘクタールを作付けるに過ぎなくなった。昭和15年ころから綿作面積は幾分増加し、昭和18年には7,364ヘクタールに達し、昭和20年は4,850ヘクタールであった。昭和31年の全国作付け面積1,262、1ヘクタール当たりの繰綿収量は、244kg程度、主要生産地は、茨城、鳥取、埼玉、佐賀、山梨、愛知、静岡、新潟などである。・・・日本における生産綿の大部分は布団の中入り綿に用いられている。

【くまた】 戦中と戦後復興の時期、自給生産が求められた頃には増えたんだね。そうだ、「大正・昭和時代の岸和田」(戦時下の岸和田)には、座布団綿も供出の対象になったと書いてあった。「家庭の綿を火薬に捧げましょう」という回覧板のことも紹介されていたな…。いろいろつながってきたぞ。

【松下】 明治になってからも、大阪府域は綿花栽培が盛んだったらしい。『大阪府の百年』(小山仁示・芝村篤樹著 山川出版社)には、「明治10年前後、現在の大阪府域の実綿生産量は全国総生産量の20%におよび、13%程度の愛知県をぬいて、全国第1位だった」と書いている。しかし「明治期に関するかぎり、泉州の綿作は河内にはるかおよばない。総耕地に対する綿作地比率は、だいたいにおいて10%以下」だったらしい。

【くまた】 じゃあ、綿花栽培が盛んな河内じゃなくて、なぜ泉州地域で繊維産業が発展したの?

【松下】 いろんな要因があると思うよ。同書では「河内は綿作の適地であったがゆえに、長いあいだ原綿の生産地としてとどまってしまった」と指摘している。それも一因だろうね。

同時に、河内では手織りや藍型染めなどの手工業的な技術も高度に発展した。手工業が発展したからこそ、機械工業化の流れに取り残されたのかもしれないね。でも、河内木綿の研究は早くから取り組まれたようだ。江戸から明治にかけての作品も多数残されているよ。

NPO法人河内木綿藍染保存会の村西徳子さんは、30数年の歳月をかけて江戸時代から明治初期の作品を復元復刻し『河内木綿~文様と藍染の美』という本にまとめられた。また、辻合喜代太郎・武部善人氏らによって河内木綿の研究も進んでいる。

一方、泉州地域は白木綿織りが中心だったので機械工業化しやすく、産業革命の推進役になれたのかもしれないね。でも、前へ前へと進んでいたから、過去の史料や作品はあまり保存されていない。「和泉木綿」の研究も充分進んでいないから、確かなことはわからないけどね。

【くまた】 何となくわかるような気がする。でも、最近の動きは戦後の一時期以来の「木綿栽培の復活」だね。このまま進めば、昨年は「木綿再生元年」になるかもしれないね?

【松下】 今後どのようになるかは、まだわからないよ。コスト面など課題はたくさんあるからね。だけど、多くの企業が「国産木綿100%」の製品づくりに挑戦し始めたことは注目されるよね。きっと、何かの勝算を見込んで動いているはずだよ。

【くまた】 日本の「モノづくり」を根底から見直す動きが水面下で広がっているのかな?

【松下】 そうであってほしいと思うよね…。最近、大規模な綿花栽培が広がったのは、綿の種を取除く機械(ローラージン)をタイから取寄せることができたからなんだ。種を取らないと紡績で糸をつくることはできないよね。でも、日本には大量に綿繰りできる機械がほとんどなかった。そのために、みんな苦労していたんだよ。

ところが、タイで発見したその古い機械は「日本製」だったので驚いたよ。戦後の一時期まで、日本で製造して輸出していたんだね。一方、日本の繊維機械の製造会社は次々になくなってきている。このまま進めば、繊維機械のメンテナンスにも支障をきたし、綿繰り機だけでなく国産の織機もなくなるかもしれない。そうなってから「国内繊維産業の再生」と叫んでも遅いよね。日本の「モノづくり」を真剣に考える時期だと思うよ。

【くまた】 本当に考えさせられるなあ…。もっと聞きたいことがあるんだけど…。今年の図書館まつり(10月28日)では、岸和田女性会議の「おはりこサロン」の人たちが、ファッションショーをやってくれるらしいよ。繊維産業や衣服・ファッションを考える機会になればいいね。