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明治時代から大正へ~「八重の桜」から「カーネーション」の時代へ(その2)

印刷用ページを表示する 2013年6月30日掲載

【くまた】 『八重の桜』が始まって5ヵ月もたつけど、新島襄はちょこっと顔を出すだけ。配役のオダギリジョーの出番が少なくなるよ。もっと新島襄のことも同時進行で紹介していけばおもしろいと思うけどなあ。

《図書館》 それは仕方ないよ。ドラマの主人公は新島襄ではなくて八重だからね。それに、東北の人たちを励ますためにも、会津のことをしっかり描かないとね。それにしても、この「再発見」は先へ先へと進みすぎたかな。しばらく休憩しようか。

【くまた】 そんなことはないよ。事前に勉強しておけばドラマも楽しく見れるよ。ここで紹介された本もじっくり読んで、予備知識を蓄えておかなきゃ…。そうだ。「カーネーション」のモデルになった小篠綾子さんは、子供の頃「なぜ男の人だけが好き勝手にできるんや」と嘆いていたらしいね。それに、大正から昭和の時代に入っても、女性が洋服を着るのは勇気がいったそうだ。明治時代はもっと大変だっただろうね。そのあたりの話から始めてよ。

《図書館》 そうだね。その前に男性のことも紹介しよう。江戸時代はみんな「ちょんまげ」を結っていたけど、それがなくなるのも大変だったらしいよ。『その時、歴史が動いた(31)』(NHK取材班編)の中に、「グッドバイちょんまげ」という話がある。

くまたくんは、明治4年に明治政府が欧米に岩倉使節団を派遣した話を覚えているかな。その使節団の全権大使である岩倉具視(ともみ)も、ちょんまげにこだわっていたそうだ。岩倉は伝統的な和装とまげ姿で旅立った。「行く先々の町で、日本の使節団は歓迎された。なかでも和装に髷(まげ)を結った全権大使、岩倉はアメリカ人の注目を一身に集めた」が、アメリカに留学させていた息子から「使節団が歓迎されているのは、父上のまげと和装が珍しいからにすぎません。日本では誇るべき文化でも、アメリカ人は内心、未開の国の珍しい風俗を見世物として喜んでいるだけです」と聞かされ、ついにちょんまげを切り落した。

「明治5年2月3日、いよいよ、不平等条約改正交渉がはじまった。会議場には、断髪洋装の全権大使、岩倉具視の姿があった」と書いている。その後岩倉は、まげを落とした自身の写真を同封し、西洋文明の衝撃を日本に書き送る。そして、明治6年3月20日、明治天皇が自ら断髪を宣言。やがて、ちょんまげを切り落す動きが全国に広まったということらしい。

【くまた】 岩倉具視が、ちょんまげにこだわっていたのも意外だけど、明治天皇が断髪したのが明治6年だなんて知らなかったなあ。断髪後の写真しか見たことがないからね。

《図書館》 『新島八重の維新』(安藤優一郎著 青春出版社)には「まだ明治も10年ほどしか経過していない段階では、着衣にしても大半の日本人は和服であり、履物にしても草履や草鞋(わらじ)だった。ところが、八重は着衣こそ和服だったものの、頭には西洋帽子を被り、靴を履くという姿で外出するのが常だった。…一言で言うと、襄と八重は浮いた存在だった。というよりも気味悪がられていた。…身なりだけではない。行動も問題視された。何と言っても、八重が人前で夫の名を『ジョー』と呼び捨てたことは驚天動地の出来事だった」と書いている。

『新島八重 おんなの戦い』(福本武久著 角川書店)にも「もちろんレディファーストだから、人力車に乗る時も、降りるときも、襄が手をさしのべる。『やえさん』と、襄は妻の八重のことを呼び、『車におのりになりますか』とたずねるのをみて、街の人ばかりでなく生徒たちも、自分の妻に対して、なぜ、それほどまで、ていねいなことば遣いをするのか、と誰もが仰天した」と紹介している。

【くまた】 そりゃ驚いただろうね。当時の人から見れば完全に「男女逆転」だね。現在でもそんな男性は少ないよ。自分だけ先に乗って「おい、はよ乗れよ」ってね…。

《図書館》 そんな八重に対して、同志社の学生たちも憤慨していたらしい。その急先鋒は徳富猪一郎(蘇峰)だ。蘇峰の自伝では、「新島先生婦人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、いわゆる鵺(ぬえ)のごとき形をなしており、かつ我々が敬愛している先生に対して、我々の面前において、余りに馴々しき事をして、これもまた癪(しゃく)にさわった」と回顧している。八重にしてみれば、襄が理想とする欧米社会の女性を身を持って表現したいと思ったんだろうけどね。

【くまた】 鵺(ぬえ)って、どういう意味?

《図書館》 「鵺とは、平安時代に源頼政が討ち取ったと伝えられる伝説上の怪物のこと。頭は猿で、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似た動物。それが転じて、鵺は正体不明の人物を指す言葉にもなっていく。」(『新島八重の維新』)

【くまた】 まるで化けもの扱いだね。でも、何事も初めにするのは勇気がいる。八重さんは悪評にもめげずにがんばったんだろうな。

同志社女学校の第1期卒業生、山岡登茂(とも)と田代初(はつ)

《図書館》 新島襄は、女学校も設立すべきだと考え、米国伝道会社に女性の宣教師派遣を要請。スタークウエザ―が来日し、八重といっしょに4~5名の女子学生に英語教育を開始する。「当初は、同志社分校女紅場と称したが、(明治)10年4月に京都府から女学校として認可され、9月に同志社女学校が開校する。…校長を務めたのは襄。八重も小笠原流の礼法を教える教員として勤務した。…2階が寄宿舎となっており、八重の母佐久が舎監を務めた。」(『新島八重の維新』)

その女学校に、元岸和田藩士・山岡尹方(ただかた)の娘たちも行ったんだ。今年3月発行の『同志社談叢』第33号(同志社社史資料センター)に、「初期同志社の岸和田伝道の初穂―同志社女学校第1回卒業生、山岡登茂と田代初の場合―」(坂本清音著)という論文が掲載されているよ。

【くまた】 へー、また新しい情報だね。

《図書館》 新島襄が明治11年に岸和田に初めて出向き、7日間連続(7月21日~28日)で説教を行った様子も書いている。「聴衆は日を追うごとに20人から40人、さらに100人へと増えて行ったが、何日たっても聴衆が全て男性であることに新島は驚いた。そこで『私は男子の皆さんに対してと同様、女子の皆さんにも福音を説きたいのです』との希望を述べ、その結果、最後の2晩は、女性のための特別集会が持たれた。そこでも毎回百名を超える聴衆があった。」

また、「男女席を一つにせず」の意識で、婦人は聴聞に来てもふすまの影に坐って顔を見せなかったが、女教師になるとふすまを取り外して顔を見せたことなども紹介している。八重が女性宣教師グールディと共に岸和田を訪れたのも、そのような効果を期待したからだと思うよ。

【くまた】 当時は、女性が男性といっしょに学ぶということに抵抗があったんだね。

山岡登茂写真

      山岡 登茂 

《図書館》 新島襄の後は山崎為徳(ためのり)が引き継ぐことになった。「8月31日に山崎が帰京して1週間も経たない9月6日には、岸和田から7名の生徒(そのうち一人は女子)が同志社で学ぶために来るという信仰の盛り上がりであった」と書いている。その女性は、山岡尹方・左居夫妻の長女、山岡登茂だ。「他に妹2人(京と満寿)がいて、次女の京も姉の後を追ってすぐに同志社女学校に入学した」。その後、元岸和田藩士・田代環の娘である初とつぎも入学している。『同志社談叢』では、「登茂と初は、在学期間中ずっとスタークウエザ―から寮生活を通して、キリスト教の価値観を学び、讃美歌も日・英語で上手に歌えるようになっていた」ことや、宣教師が本国に学校の様子を伝えた次のような手紙も紹介している。(2人の少女とは、山岡登茂と京)

新島夫人は今日の午前中に、2人の少女を連れて、彼女たちの郷里、岸和田へ行かれました。(中略)そこでは、夏休み以来、2週間ごとに説教が行われています。

新島夫人は、休暇になったので帰郷する女性と2人に付き添って、岸和田に行かれました。(中略)夫人は当地の人々に説明したり話しかけたりするのに、2人の少女が助けになると大変喜んでおられました。…2人のうちの1人[山岡京]は僅か10歳で、身体つきも小さく華奢(きゃしゃ)ですが、心の中には神様への愛がしっかり根付いており、その愛の力で生来のはにかみ癖を乗り越えてキリストのために働いています。

【くまた】 八重さんが登茂と京を連れて岸和田まで来る様子が眼に浮かぶよ。当時は道中も長かったから、いろんな話をしただろうね。小さな娘を寄宿舎住まいで学ばせるのは、山岡家の両親も心配だったと思うよ。だから、八重さんと山岡家とは長いつき合いがあったんだ。

《図書館》 そして、山岡登茂と田代初は同志社女学校第1回卒業生となった。山岡登茂が卒業式で読んだエッセー「責任」には、「そもそも責任には2種類ある。一つは、人に対する(直接人に尽くす)責任、他は、人のためにする責任(他人の幸福を保護増進する)責任である」と、教育を受けた女性として、日本の女性全体に対する責任について論じている。

【くまた】 その後、山岡登茂や田代初はどうなったの?

《図書館》 登茂は卒業後岸和田に戻り、明治17年9月に上原方立と結婚(登茂は19歳)した。結婚式は、新島八重に導かれて挙行されたらしい。しかし、「新婚生活1ヵ月も満たない10月15日、泉州および河内の伝道旅行中に、方立は腸チフスに感染し、病臥数日で他界した。余りにも痛ましい早死に、新島襄は登茂に歌を添えてお悔み状を送っている。」

悲しみを乗り越えた登茂は、自活の道を選んだ。最初は岡山県高梨の順正女学校で、英語・音楽を教え、その後は大阪の梅花女学校で教鞭をとっている。

明治25年には、新潟の新発田教会に赴任していた原忠美牧師と結婚。再び牧師夫人の道を選んだが、「新潟は仏教の盛んなところで、原夫妻は様々な迫害を受けた上に、新発田に居る間に忠美の母と第一子(生後40日)を失った。さらに忠美は7年に及ぶ新潟の寒気のため健康を害し、ついに明治28年明石組合教会に転任した」ということだ。その後、忠美は肺患にかかり明治40年に他界。同書では「結核の夫の看病に加えて、病気を子供にうつしてはならないという用心と覚悟はさぞかし大変なものだったろう。登茂の母親としての底力と揺るがない信仰の証である」と書いている。再び寡婦となった登茂には、14歳を筆頭に2男1女がいたため、神戸女子神学校に舎監として入居し生徒指導にあたった。

田代初は、眼科医の小林春召と結婚した。『同志社女学校期報』(同窓会と学校の共編) 29号(明治43年12月)の近況報告で「子供は数人出産致し候へども、三人のみ成長致し、内長女は一昨年17歳にて死去致し只今17歳の男子と15歳の女子は岸和田中学校と梅花女学校に入学致し居候」と書かれているらしい。また、初は同志社女学校同窓会の大阪部会が発足した時、初代の支部会長に選出されている。

【くまた】 2人ともよく勉強して、その後も苦労しながらがんばったんだね。でも、昔は「女に学問は必要ない」という人が多かったと聞いているけど…。

女子教育と良妻賢母主義

《図書館》 くまたくんの言う通りだよ。『近代日本のキリスト者研究』(萩原俊彦著 耕文社)は、「キリスト教主義女学校教育の展開について」述べながら、明治初期の女子教育を論じている。参考になることも多いから、少し紹介するね。

江戸時代、松平定信は「女はすべて文盲なるをよしとす。女の才あるは大に害をなす。決して学問などいらぬものにて…」(『修身録』)と語っていたが、幕末になると寺子屋などで女子も男子とともに学ぶ所が増えてくる。武士の息女を対象に、藩女学を設置し女子教育に着手した諸藩も生まれた。長州藩の吉田松陰も「幼児に与える母親の影響力を配慮して、賢母の育成をめざす女学校の設立を提唱していた」らしい。しかし、その吉田松陰ですら「あまり高度な学問は女子には与えず、むしろ、知育は最低限に止めて、女徳の涵養にこそ、主力を注ぐべきだとのべている」という状況だ。

明治政府は、明治5年に近代的学制を発布したが、女子の就学率は低かった。男子就学率が80%に達した明治30年(1897)でも、女子就学率は50%だったらしい。中等教育になると男女格差はもっと広がる。明治20年(1887)に高等女学校と称していたものは、わずか18校(生徒数2,363名)。一方、男子中学校数は48校(生徒数10,177名)だった。著者の萩原氏は「しかも、男子中学校の多くが公立校として設立されたのに比し、女子中等教育機関の大半は、私学依存の状態にあった」と指摘している。

【くまた】 当時、女学校に行けたのは、経済的にも恵まれた家庭だろうね。

《図書館》 萩原氏は同書で、森有礼(ありのり)、中村正直(まさなお)などの「女子教育論」を紹介しながら、いわゆる「良妻賢母主義」についても論じている。

森有礼は「教育の根本は女子教育にあり」と主張し、「ときには、男子教育よりも、女子教育を重視すべきだという意見さえのべていた」らしいよ。萩原氏は、「当時の森は欧米の文化、思想、キリスト教の影響を受けた啓蒙主義者であり、徹底した男女平等論者であった。それだけに、彼は、アジア社会に支配的な女性蔑視の伝統を痛烈に批難し、アジア文明が停滞的なるものの原因をも、女性蔑視にあるとさえ主張していた」と書いている。近代化のためにこそ、女子教育が必要だということだね。

中村正直は、「維新後でも守旧的な日本人の性質を一新するためには、善母の育成をめざす女子教育が必要だ」とし、女子も男子と同じ水準の教育、道徳を身につけるよう望んでいた。同書では「それに、あらゆる道徳のなかで最高のものは愛であり、本性的に愛情豊かなものは婦人、とくに母親であるから、賢く、しかも愛に満ちた善き母によってこそ、『人民ノ性質ノ改造』が可能であると考え、女子教育に多大な期待を寄せたのである」と書いている。このような女子教育観を、「善母主義または、賢母主義の教育」と言うらしい。

【くまた】 へー、現代からみても評価できる内容だけど、「良妻賢母主義」って「女に学問はいらない」として、女性を家にしばりつける封建的な女性観のことじゃなかったかなあ…。

《図書館》 確かにそうだね。萩原氏は「1877年以降、家または家庭を重視するための良妻論が登場した結果、これ以降一般に女子教育といえば、良妻賢母主義となっていく。…文部行政の権限は、儒学派官僚の手中に収められ、政府の教育方針は、漸次保守的な色彩を強め、指導理念としては、儒学が採用される。しかも、1890年の教育勅語発布と、その前後より、次第に台頭する日本主義の風潮は、かかる傾向を、ますます強くおし進めていく。」「以来、女学校の教育で、普通とかれる良妻とは、夫とその家族を敬愛し、祖先のよき後継者をつくることであり、賢母といえば、『従順、温和、貞淑、忍耐、奉公』の語句に表わされるような美徳あふれる母となり、…」などと書いている。良妻賢母主義教育には、対立した2つの教育理念が存在していたんだね。

森有礼(ありのり)と中村正直(まさなお)

【くまた】 なるほどね…。でも、森有礼や中村正直ってどんな人かな?聞いたことないなあ。

《図書館》 『森有礼』(犬塚孝明著 吉川弘文館)という本があるよ。森は、慶応元年(1865)、17歳の時に薩摩藩の内命でロンドンに留学、さらにアメリカへ渡って西洋の文化や風土に深く触れている。明治維新で帰国したが、明治3年には初代駐米公使(当時は少弁務士といっていた)として渡米した。同書では、「森は在米日本人留学生たちの世話にあたり、彼らの一人一人に対して職務をこえた懇切な指導を施し、彼らの能力を向上させることに一方ならぬ努力を払った。新島襄は、森の斡旋で明治4年5月、政府留学生として公認され、岩倉使節団の教育調査にも参加した」と書いている。

【くまた】 密航した新島襄が政府留学生として公認されたのは、森有礼のお陰だったんだね。

《図書館》 明治6年に再び帰国した森は、西村茂樹(しげき)や福沢諭吉らに呼びかけて、当代一流の洋学者10名で学術結社を発足させた。米欧式の学会をつくろうとしたんだ。明治6年発足なので「明六社」と名付け、『明六雑誌』という機関誌も発行した。「雑誌は、毎号平均3,200余部という、当時としては驚異的な売れ行きをみせたという。『明六雑誌』は、以後の多くの学術雑誌、評論雑誌の先駆となるもの」だったらしいね。

中村正直もその「明六社」のメンバーだ。彼は幕臣で秀才だったらしい。1866年に幕府の命で英国に留学したが、倒幕の知らせを聞いて急遽帰国し静岡に移る。そこで、スマイルズの『自助論』を翻訳して『西国立志編』を出版しベストセラーになった。福沢諭吉の『西洋事情』をしのぐほどだったらしいよ。

【くまた】 「学会」までつくろうとしていたのか。幕末や明治初期に留学した人たちが、西洋の思想や文化、政治制度を日本に伝え、近代化に貢献していたんだね。

《図書館》 森が『明六雑誌』に寄せた論文の中に「妻妾論」がある。そこでは「わが国の実状は、、夫は妻を奴隷のように使役し、妻は理非を弁ぜずそれを当然のこととして甘受している。しかも、犬豚牛馬の如く一夫が多妻を犯し、妾(めかけ)をかこうのみならず妻妾同居も良しとし、はなはだしきに至っては、妾腹の子を養嗣子として家を嗣がしむるの悪習も平然と行われている。これは妻の人格も権利義務も、全く無視した虚偽の夫婦関係であり、…」など、妾を囲うのが当然という当時の状況を告発している。また、彼の結婚観を示すために、新郎新婦の合意で作成した「婚姻契約書」に両者及び証人が自署するという結婚式も行い、世間を驚かせたらしい。証人になったのは福沢諭吉だよ。

岩倉使節団に日本初の女子留学生が同行

【くまた】 思ったことをズバズバ発言し実行する人みたいだな…。留学生の多くが活躍したのは少しわかったけど、男子ばかりだ。女性は留学させてもらえなかったのかな。

《図書館》 明治4年の岩倉使節団に、女子留学生5名が同行している。最年少の津田梅子は8歳だった。女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立した人だ。また、のちに「鹿鳴館の花」と言われた山川(大山)捨松(当時12歳)もその一人だ。その曾孫である久野明子氏が、克明な調査に基づいて『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松~日本初の女子留学生』(中央公論社)に捨松の生涯を描いている。

大河ドラマ「八重の桜」の中で、山川大蔵が会津伝統の「彼岸獅子」を舞いながら敵の包囲を抜けて鶴ヶ城に入場する場面があっただろ。捨松(すてまつ)はその大蔵の妹だ。9歳のときに鶴ヶ城に籠城して、八重といっしょに戦ったんだ。そして、明治4年から15年までの11年間、アメリカに留学して暮らすことになった。

【くまた】 なぜ、そんなに若い女性を10年間もアメリカに留学させたの。

《図書館》 明治新政府は「箱館戊辰戦争」に勝利してから、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた地を北海道と改め開発に乗りだした。その時、開拓使次官に任命された薩摩藩の黒田清隆は、広大な未開地を開拓するには、「西部開拓」を成功させたアメリカに学ぶのが手っ取り早いと考え、明治4年1月にアメリカへ開拓事業調査に出かけた。そこで、アメリカの女性が明るく生き生きと、男性と対等に意見をかわし、男性と同じ仕事をしている女性もいることなどに驚いたようだよ。

「この時ワシントンにあって、同じ薩摩藩出身の黒田をなにくれとなく世話をしたのが、弱冠25歳の米国弁務公使森有礼であった。…黒田は森と毎晩のように議論をかわし、2人は日本の女性も男性と同じように教育を受けさせることが日本の近代化への近道であり、開拓使で早急にそれを実行に移す必要があるという結論に達したのである。…帰国した黒田は、北海道開拓の人材作りのために今すぐにでも幼い女子をアメリカに留学させるべきである。…次の世代を担う子を産む女子を教育すれば、賢い母親からは必ず賢い子が生まれるからという気の遠くなるような意見書を政府に提出した」(『鹿鳴館の貴婦人』)らしい。それが認められて、使節団に同行する男子留学生といっしょに女子も連れて行くことになったんだ。

【くまた】 へー、壮大な計画だけど、うまくいったのかな。でも、捨松って変な名前だね。

《図書館》 女子留学生の募集を行ったが、応募者はなかった。岩倉使節団の出発の時期が間近に迫る中、第2次募集を行い、やっと5名が集まった。見知らぬ異国に10年間も女子を留学させるなど、親にとっても覚悟がいるからね。それで「捨てたつもりで待つ」ということで、咲子という名前を捨松と改名したんだ。

ただし、女子留学生の派遣はこの1回で立ち消えになり、北海道開拓使も明治15年に廃止された。そして、男子留学生には相応な仕事が与えられたが、女子である捨松や津田梅子に対しては、政府は何らの計画も持っていなかった。「国に帰ったらアメリカで学んだことを生かして、お国のために働こう」と大きな夢を抱いていた捨松は、政府のいい加減な態度に失望し、焦燥の日々をおくる…。

【くまた】 政府は無責任だなあ。ということは、この11年間で明治政府の政策も変わってきたということかな…。

《図書館》 『はじめて出会う女性史』(加美芳子著 はるか書房)には、「新政府は特に教育に力を入れた。1872(明治5)年『学制』を発布し、『どんな田舎の村でも、みんな字が書けるようにしよう』と村々に小学校をつくった。『人間としての道を学ぶのに男女の差はない』と男女とも6歳で入学し、教育の内容も共通だった。…ところが、この理想に燃えた方針は数年しか続かなかった。『前に出した法律は行きすぎていた』と、1879年法律を改正し、中学の共学を禁止。小学校も、門を入るまでは一緒だが、教室は『男組』と『女組』に分け、授業の内容も違うものにしてしまった」と書いている。明治12年(1879)に「学制」が廃止され「教育令」が制定されたんだ。

【くまた】 何となく逆戻りのような気がするなあ…。それで、捨松はどうなったの?

鹿鳴館時代と大山捨松

《図書館》 明治16年11月に陸軍卿の大山巌と結婚した。大山巌は18歳も年上で、前妻と死別したばかり、7歳を頭に3人の娘がいる。しかも会津にとっては「宿敵・裏切り者」の薩摩藩出身の軍人だ。山川家は大山からの結婚の申し出を断ったが、結局は、捨松の判断にゆだねられた。

「結婚式の1ヵ月後、新装なった『鹿鳴館』で大山巌(いわお)は結婚披露の晩餐会を開いた。この席で捨松は集まった千人近い招待客を相手に、アメリカじこみの見事なホステスぶりを発揮し、早くも社交界の花形として注目を浴びた。…『鹿鳴館』ではほとんど毎夜のようにきらびやかに着飾った紳士淑女たちを集め、晩餐会や舞踏会が開かれた。そのたびに捨松の美しさ、洗練された立ち居振る舞いは社交界の評判となり、プリマドンナの地位はますますゆるぎないものとなっていった。」(『鹿鳴館の貴婦人』)

【くまた】 鹿鳴館が文明開化の象徴だった時代があったことは聞いたことがあるけど、一体、何のためにつくったの?

《図書館》 『鹿鳴館の貴婦人』には、「時の外務卿井上馨は、明治11年に2年間のイギリス留学から帰国してから東京に外国人のための接待所と宿泊設備を作る必要性を痛感していた。…明治政府の長年の懸案である条約改正の交渉が難航しているのは、日本がまだ西欧諸国から文明国とみなされていないからではなかろうか。もし、我が国にも西洋並の外国人接待所を作り、外国からのお客を十分にもてなせば、彼らは好印象を持って帰国し、日本という国は立派な文明国だったと本国政府に報告するだろう。そして、条約改正も一挙に解決するに違いないと考えたのである」と書いている。捨松は、「外国人たちの相手をすることで日本の欧化政策のお役にたつならば」という思いで、こうした夜会に出ていたんだろうね。

【くまた】 わかる気もするけど…。確かに外国人を接待する場所は必要だし、西欧文化を身につけることも大事だ。だけど、日本にもいいところがいっぱいある。そんなことよりも、憲法も国会もないことの方が問題じゃないかな。そんな国は信用してもらえないからね。

《図書館》 くまたくんは、するどいね。「鹿鳴館時代」がピークを迎えていた明治20年(1887)4月、伊藤博文首相主催の仮装舞踏会が開かれたが、余りの乱痴気騒ぎぶりは、日頃行き過ぎた欧化政策に批判的だった人々を刺激し、ジャーナリズムの絶好の攻撃材料になった。そして、条約改正に失敗した井上外相の辞任により「鹿鳴館時代」はフィナーレを迎える…。その中でも捨松は、有志共立東京病院に看護婦養成所をつくるために「鹿鳴館慈善バザー」を成功させ、下田歌子とともに華族女学校(のちの女子学習院)の設立にも関わった。また、津田梅子の女子英学塾を全面的に支援するなど、彼女なりに精いっぱい女子教育の発展に力を注いだんだ。

大日本帝国憲法の制定と国会開設

【くまた】 そう言えば、前回(その1)は、憲法や国会の話が途中で終わっているよ。「明治14年の政変」で大隈参議を辞職させ、10年後に国会を開くことを約束した。それがきっかけで、各地の自由民権派が「私擬憲法案」を次々につくった、という話までは聞いたけど…。

《図書館》 良く覚えているね。それでは、『よくわかる高校日本史の基本と流れ』(松井秀行著 秀和システム 以下『高校日本史』)で調べてみようか。

「明治14年の政変の後に政府の主導者となった伊藤博文は…500日余の間、渡欧し…ドイツ流の憲法理論を学びます。帰国した伊藤は…将来の下院(衆議員)に対抗できる上院(貴族院)の基盤をつくるため、華族令を制定します。これは、従来の華族(旧大名、旧公家)に加えて、伊藤ら維新の功労者も華族に列し、公・侯・伯・子・男の爵位を与えるものでした」と書いている。

【くまた】 伯爵とか子爵、男爵はこの時につくられたのか…。明治維新で四民平等になったと思ったのに、また新たに華族を増やすのは、ちょっと矛盾を感じるなあ。

《図書館》 明治18年(1885)には、太政官制度を廃止して内閣制度を新設。伊藤博文は初代の総理大臣に就任した。『高校日本史』には、「憲法草案づくりは、国民にはその経過も一切公表されずに進められます。伊藤、伊東巳代治(みよじ)、井上毅(こわし)、金子堅太郎らは、ドイツ・バイエルンの法学者ロエスレルの教示・指導を受けながら神奈川県の夏島などで草案を仕上げ、…88年新設の枢密院(すうみついん)で審議が重ねられた末、翌89年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました」と書いている。その翌年の明治23年(1890)7月に、初めての衆議院選挙が行われたんだ。選挙権は「直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子」に制限されていたから、「有資格者は人口の実に1%」だったらしいけどね。

【くまた】 あれ、憲法は国会を開いて決めたんじゃなかったの?それに「枢密院」って何かな?

《図書館》 君主によって制定された憲法のことを「欽定(きんてい)憲法」っていうんだ。明治政府はそれにこだわっていたらしい。一方、国民が直接に、または国民から選挙された議会を通じて制定される憲法のことを「民定憲法」というんだ。制定の主体によって区別されている。

「この憲法の特徴は、神聖不可侵の天皇が主権を持ち、『天皇大権』という絶大な権限を有するところにあった。天皇は統治権の総攬(そうらん)者であり、軍隊の統帥(とうすい)権を握り、かつ内閣の任免権を有するとされた。」(『早わかり日本史』河合敦著 日本実業出版社))

枢密院というのは天皇の最高諮問機関だ。憲法制定前に設立しその後も「憲法外の機関」として大きな権限を持った。伊藤博文はその初代議長となり、首相の地位は黒田清隆に譲った。

【くまた】 信教や言論、集会、結社の自由など、人権は保障されたのかな?

《図書館》 天皇が臣民に恩恵的に与えるという形で保障された。これが大正デモクラシーを生む力になったと評価する人もいる。しかし『高校日本史』では、「信教の自由も『安寧秩序』による制約を受けます。言論・著作、集会、結社の自由なども『法律の範囲内』と制限され、事実、治安警察法(1900年)、治安維持法(1925年)など、民衆を弾圧する法律の制定を保障することになりました」と指摘している。治安警察法の制定で、女性は政治結社に参加することや集会に参加することも禁じられた。法律を制定さえすれば、いくらでも自由を制限できたということだね。これは、「侵すことのできない永久の権利」として認められた現在の憲法と大きく違う点だ。ただし、制定された時代背景が全く違うから単純に評価できない。大日本帝国憲法についての評価はさまざまだから、くまたくんも勉強してね。

【くまた】 とにかく憲法が制定され、国会が開かれるようになったから、きっと条約改正の交渉も順調に進んだと思うけど、どうなったのかな。

《図書館》 そんなに簡単に事は運ばないよ。司馬遼太郎は『「明治」という国家』の中で「明治年間いっぱい、明治国家は、不平等条約をあらためる―条約改正―のために大変な努力をしました。血みどろというべきものでした。30年かかりました。」と述べている。

その条約改正交渉に、岸和田の最後の藩主・岡部長職(ながもと)も外交官として活躍したんだ。井上馨が外相だった明治19年に公使館参事官に任命されイギリスの日本公使館へ赴任。井上外相辞任後も、大隈重信、青木周蔵という外務大臣のもとで外国と交渉にあたった。だけど、もう時間がないから今回はここまでだ。

【くまた】 久々に岡部長職が登場したのに残念だなあ。それに、まだ「カーネーション」の時代までつながっていないよ。いつかまた続きを頼むよ。

佐藤満寿(ます)と鳩巣園(きゅうそうえん)

《図書館》 今回でこのシリーズは終了しようと思っていたのになあ…。今回は女性問題が中心だったから、子どもたちや地域のために「一生の仕事」として幼児教育に情熱を注いだ岸和田の女性を、最後に紹介しておこう。「カーネーション」の時代につなぐためにもね。

『市民がつづった女性史 きしわだの女たち』(ドメス出版)の中に「佐藤満寿と鳩巣園―幼児教育の先覚」が掲載されている。その中で、満寿が岸和田城の南の一角に開いた鳩巣園という幼稚園が、当時全国の幼稚園関係者から少なからぬ注目を集めていたことが紹介されている。満寿は、山岡尹方・左居夫妻の娘、登茂や京の妹だ。

満寿は岸和田の小学校を卒業後、梅花女学校(予備課)に入学。卒業後、22歳で佐藤直太郎と結婚し女児をもうけるが、26歳の時に夫を亡くした。その後、同志社女学校の舎監として働くが、東京女子師範学校に保育実習科が開設されたことを知り、難関を突破して明治40年に入学する。卒業後は、横浜本町小学校付属幼稚園で1年、神戸幼稚園で8年働いた。この時の研究と実践が彼女を大きく成長させたようだね。

父尹方が亡くなったのを機会に、大正5年(1916)に岸和田に帰るが、保母の仕事を続けるため、当時並松町にあった教会堂を借りて無料幼稚園(「おばさん幼稚園」)を開いた。2年半後、教会堂の移転に伴って新教会堂の隣に「鳩巣園」を開園。同書には、そのすばらしい保育内容や社会的活動も紹介されている。ぜひ読んでほしいね。