ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

図書館で郷土資料企画展示「土屋鳳洲と岸和田ゆかりの友人、門下生の著作展」を開催しています(12月1日~平成31年2月28日まで)

印刷用ページを表示する 2018年12月8日掲載

岸和田市立図書館の2階ガラス展示コーナーで、12月1日(土曜日)~平成31年2月28日(木曜日)まで、「土屋鳳洲と岸和田ゆかりの友人、門下生の著作展」を開催します。

展示の様子

岸和田出身の土屋鳳洲は、明治から大正期にかけて活躍し、漢学者・教育者として知られ、また堺県の教育官僚として女性の初等教育普及に尽力しました。

土屋鳳洲 画像 土屋鳳洲 『岸和田要艦』

地域資料研究家の下村欣司氏による企画展示は、図書館、岸和田高校所蔵の資料だけではなく、個人宅所蔵の手紙や書画まで展示されており、鳳洲の人となりを知る興味深いものとなっています。

展示期間 

 平成30年12月1日(土曜日)~平成31年2月28日(木曜日) ※月曜・祝日休館

土屋 鳳洲(弘) (つちや ほうしゅう)(ひろし)天保12(1841)~大正15(1926)

  岸和田藩士土屋半吾の長男。漢学を相馬九方、池田草庵、森田節斎に学ぶ一方、長沼流の兵学も学んだ。幕末、尊攘派として藩政に活動したが、内紛に関連して、師九方とともに投獄された。維新後、堺県の教育官僚、堺・吉野・奈良師範学校長を勤め、その後、華族女学校・東洋大学教授を勤めた。漢詩人、書家としても知られていた。

富岡 鉄斎 (とみおか てっさい)天保7年(1837)~大正13年(1924)

  明治・大正時代の代表的日本画家。書にも優れていた。大鳥神社の神職時代に、堺県職員であった土屋鳳洲と親交があり、晩年には奥喜太郎と親交があった。百鏡は名前であり、鉄崖は別号である。

奥 喜太郎 (おく きたろう)

    岸和田市野村(下野町)に住み、先代からの広い地所を所有して、諸紙商活版印刷業を営み、足踏み式綿糸製造機やガンの薬の製造などもてがける一方、泉南郡歌を創り、捕鳥部萬碑建設の首唱者に名を連ねるなど、文化方面にも活動した。煎茶にも造詣が深く、富岡鉄斎との交流の始まりは煎茶にあったと思われる。

本多 榮 (ほんだ さかえ) 

  安政2年(1855)年に熊取町七山の浄見寺住職、義幢(ぎどう)の嫡男として生まれる。僧名は義端。父義幢は爽神堂という、当時としては珍しい薬を用いて精神障害者を治療する施設も運営していて、貫名菘翁(ぬきなすうおう)や相馬九方とも交流があり、そのことから榮を相馬の弟子である土屋鳳洲の晩晴書院に入塾させたと思われる。義幢は先見の明ある人で、西洋医学を学ばせるべく榮を大阪医学校に入学させている。榮は晩年まで鳳洲と親交があり、鳳洲の人間性に影響を受けていた。

福井 豫章(楠喜)(ふくい よしょう)(くすき)

  安政3(1856)年に岸和田藩士福井興堂の子として生まれる。土屋鳳洲、阪田警軒に学び、大阪で私塾・豫章館を開いた。この時の教え子が、本市とも縁の深い、後の考古学者濱田耕作(青陵)である。その後岸和田中学の教師を勤め、師鳳洲に学んだ漢学と書で、泉南各地に碑文や額を残している。