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『岸和田市史史料第11輯 熊沢友雄日記(6)』刊行しました

印刷用ページを表示する 2014年3月31日掲載

『熊沢友雄日記』とは? 

 熊沢友雄日記原本の写真

 『熊沢友雄日記』は、幕末期の岸和田藩士であり、維新後は堺県会議員、同副議長、大阪府会議員、南・日根郡長などを歴任した熊沢友雄の日記で、嘉永5(1852)年から明治28(1895)年まで、一時期を除いてほぼ全期間にわたって記述されています。江戸から明治へと大きく時代が移り変わる中で、岸和田に生きた人物の生の証言にあふれたきわめて貴重な史料ですので、このたび、『岸和田市史史料第11輯』として、明治23年から明治25年までの日記を翻刻し、刊行しました。

熊沢日記6表紙の写真

熊沢日記6組見本

『熊沢友雄日記』から何がわかるのか?

『熊沢友雄日記』には、明治前期の政治・制度の変革や社会の変化の様子、それに対する熊沢の感懐などの他、日常生活の食事、娯楽、親類・友人等との交流など些細な出来事も多く記され、当時のくらしぶりがよく伝えられています。本書記載期間は、熊沢はすでに公務を退いた後ですが、地域の名望家として地域社会と関わり続けており、当時の地域社会の動向をよく伝える好史料と言えます。日記の主な内容は次の通りです。

1 第1回総選挙と国会開会

「十二時板垣伯及び随行人五、六人共到着に付き出迎い、及び饗応等の手伝いを致し、間々時勢・政党上等の質問等をなす」(明治23年3月9日条)

明治23年7月の第1回総選挙に向けて、同年3月頃から熊沢は自由党系の演説会や地元の候補者選び等に関わっていました。同年3月には板垣退助が貝塚の願泉寺へ演説に来ており、その盛況ぶりなども記されています。また、国会が開会した同年11月29日には岸和田でその祝賀会が開かれ、熊沢はその祝文を朗読しましたが、そこでは、民権運動に積極的に関わり、ようやく国会開会に到った感慨などが述べられています。

2 大津事件

「露国皇太子負傷一条に付き、上は我天皇陛下の御憂慮と、当局者の心痛を察し、彼の怒りを宥め、幾分か折合いを都合になるべしとの精神より、我修誼会員の名を以て御見舞のため三名を派遣することに議決し・・・」(明治24年5月13日条)

明治24年5月、滋賀県大津で来日中のロシア皇太子が巡査に襲われた、いわゆる大津事件の記事が載せられています。日本の外交上の重大事件に対し、熊沢たち岸和田の士族たちで結成した修誼会は、ロシア皇太子の宿舎に見舞の使者を送り、ロシア側の怒りを少しでも宥めようとしたと記されています。一民間人にすぎない熊沢たちが、国家の外交上の問題に対して多少とも貢献しようとする姿は、現代の感覚では理解しにくいですが、国会が開設されたばかりの当時の国民の、国政に対する考え方が伺えます。

3 濃尾地震

「本日午前七時頃、去る安政年間以来かつてこれ無き地震これ有りたり、家屋等を損する迄にはこれ無きも、一時余程強かりし為、それらをも気遣い、近所いずれも屋外に避けたるばかりなりし、若しくは他所に大震ありてその余響ならずやと案じられたり」」(明治24年10月28日条)

これは、岐阜県本巣郡根尾谷を震源地とした濃尾地震に関する記事です。同地震は岐阜県・愛知県を中心に大きな人的・物的被害を出しましたが、岸和田でも大きく揺れたようで、「安政年間以来かつてこれ無き地震」と熊沢は記しています。熊沢は次第に新聞報道などで地震の詳細を知り、被災地への義捐活動なども積極的に行っていました。

4 盆踊り

「浜町踊場に到り盆踊りを一見するの処、踊りの手は旧株を変じ、貝塚風に変ずると云うも全く貝塚風ならず、新旧混合甚だ風流ならず、音頭なるものも音調鄙野にして又聞くにたえず」(明治24年8月20日条)

現在の岸和田(旧城下町とその周辺地区)では古来の盆踊りは行われていないと言われていますが、熊沢日記では明治20年代頃までは盆踊りが行われていたことがわかります。24年8月に岸和田浜町の盆踊りを見た熊沢は、踊りは旧来と異なって新旧混ざった風流とは言えない踊りで、音頭も野卑で聞くに耐えない、などとその感想を記しています。江戸時代以来の盆踊りの形態が次第に変容してゆく様子が伺えます。

 規格と購入方法

  • B5判 266頁 1600円   送料350円
  • 郷土文化室にて有償頒布いたします。郵送による頒布もいたします。
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