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古写真からみる岸和田の文化財【4】

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2009年7月24日掲載

岸和田市所有・市民提供の古写真からみる岸和田

【岸和田煉瓦(きしわだれんが)編】

岸和田煉瓦 社章

 岸和田煉瓦株式会社とは、元岸和田藩士である山岡尹方(やまおかただかた)が、明治20(1887)年に第一煉瓦製造会社として設立しました。しかしその前身は士族授産(しぞくじゅさん)事業として始められた煉瓦製造会社で、明治5(1872)年の設立と非常に古く、日本の煉瓦産業の先駆的事業として注目されます。また、共同出資者の一人である寺田甚与茂(てらだじんよも)は、煉瓦製造業と並行して金融業、紡績業など幅広い事業を展開し、泉州の地方財閥に成長しました。
 この他にも臨海部には隣接して大阪窯業(おおさかようぎょう)株式会社の煉瓦工場や、紡績会社も林立し、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた大阪の中でも、有数の一大工業地帯となっていました。
 岸煉製の煉瓦建造物は今でも日本各地に残り、旧下関英国領事館や旧山口県庁舎及び県会議事堂(現:重要文化財山口県政資料館)や、同志社女子大学ジェームス館(現:国登録文化財)で使用が確認され、さらに同志社大学の煉瓦建造物群にも使用されている可能性があります。ほかにも旧陸軍第10師団兵器庫(現:国登録文化財姫路市立美術館)、JR山陽本線や、琵琶湖疏水(びわこそすい)の一部でも使用が確認されています。
 こういった明治以降の主要な近代建造物に煉瓦が使われているのは、国内の近代化を急ぐ日本として、欧米諸国さらに国内に向けても目に見える形で近代化を示す必要があったためです。その意味でも煉瓦建造物は近代化を象徴するものであり、その近代化の足元を支えていたのがこの岸和田煉瓦の煉瓦だったといえます。

岸和田煉瓦全景

岸和田要鑑より大正13年刊行 岸和田要鑑より 

 大正13年に刊行された、『岸和田要鑑』という市制記念誌に掲載されている写真です。ありし日の岸和田煉瓦株式会社の全体がうかがえる写真です。

岸和田の浜辺と煉瓦工場群

岸和田の浜辺と煉瓦工場群岸和田市広報公聴課保管、福井英作氏提供写真

 明治35年頃の写真です。写真の原版はガラス乾板です。子供たちのいる海岸は小高い丘のようになっています。同封されていた他の写真を見る限り、撮影場所は旧の岸和田港辺りだと思われます。岸和田の海岸にはこういった海岸砂堆と松林がいくつもありました。産業と自然環境が共存していた頃の写真です。

岸和田の浜と煉瓦工場群岸和田市広報公聴課保管の写真より 

 まだ埋め立てられていない頃の岸和田の浜辺です。昭和初期の写真でしょうか。明治時代からのホフマン窯や紡績工場の煙突が林立しています。ホフマン窯とは、大きな四角形、円形もしくは楕円形の窯を造ることにより、焼成室が順次移動するため、一つの窯で窯詰め、焼成、搬出と連続して火を絶やすことなく作業が行え、大量生産ができるようにした窯のことです。ドイツ人のホフマン(Friedrich Hoffman)が1858年頃に考案して、やがて改良型が日本各地に普及しました。
 

岸和田の浜辺とホフマン窯

浜と岸和田煉瓦 ホフマン窯岸和田市広報公聴課保管の写真より

 昭和30年代の写真でしょうか。砂浜で金型で製作中の消波ブロックを主題とした写真ですが、奥に岸和田煉瓦のホフマン窯が見えます。よく見ると煙突から煙が出ていますので、窯が稼働している頃の貴重な写真です。

岸和田全図にみえる煉瓦工場群

大正13年 岸和田全図 (部分)→→岸和田要鑑 岸和田全図(部分拡大)

 大正13年の『岸和田要鑑』の付図を見ると、地図にこういったホフマン窯の楕円形が5箇所記載されており、その規模がうかがい知れます。地図上側は大阪窯業の煉瓦工場です。地図には岸和田煉瓦の工場から粘土採掘をおこなった場所へ向かうトロッコの軌道も表記されています。先に紹介した子供たちを撮影した場所は2枚目の左下隅の辺りです。

岸和田煉瓦のホフマン窯【その1】

岸和田煉瓦 ホフマン窯米田誠士氏提供、故:松田玉信氏撮影

 岸和田市ではこれまで岸和田煉瓦のホフマン窯本体を写した写真を所有していませんでしたが、このたび米田氏からの提供を受け、掲載させていただきしました。撮影年代は昭和30年代だと推定されます。

岸和田煉瓦のホフマン窯【その2】

岸和田煉瓦 ホフマン窯米田誠士氏提供、故:松田玉信氏撮影

 窯稼動中の写真です。周囲に見える煉瓦は窯の表面の煉瓦とは色が違い白っぽいので、整形後の未焼成品の素地(しらじ)ではないかと思います。

岸和田煉瓦のホフマン窯【その3】

岸和田煉瓦 ホフマン窯米田誠士氏提供、故:松田玉信氏撮影

 想像していたより、巨大な窯です。当時は日本有数の規模の窯だといっても過言ではありません。写真の描写も非常によく、撮影角度のせいでしょうか、煙突が無ければまるで中国の紫禁城の建造物のようです。
 周囲に未焼成の煉瓦が積まれていません。稼働していない窯でしょうか。

岸和田煉瓦のホフマン窯【その4】

岸和田煉瓦 ホフマン窯米田誠士氏提供、故:松田玉信氏撮影

上記の写真と同じ窯だと思います。窯の覆屋が途中から変わるのは、増築されたということかも知れません。

岸和田煉瓦のホフマン窯【その5】

岸和田煉瓦 ホフマン窯米田誠士氏提供、故:松田玉信氏撮影

 周囲に草木が茂っています。すでに稼働していない時の写真でしょうか。昭和30年代といえば、すでに煉瓦生産はピークを超えていますので、休止している窯もあったのかもしれません。ホフマン窯は火を絶やさないので連続した大量生産には向きますが、販売量が減少すると、少ない生産には向かないので、休止させるしかなかったようです。

岸和田煉瓦のホフマン窯【その6】

岸和田煉瓦 ホフマン窯 煙突米田誠士氏提供、故:松田玉信氏撮影

 煙突のアップの写真です。他の写真にも見られるような異様に巨大な煙突は、いわゆる「煙突効果」をより効率的に利用するために設けられました。
 煙突効果とは、それぞれの両端が開いている煙突状の空間内部で、気体(流体)が暖められると、上昇気流が発生し気体(流体:排出ガス)は上昇します。逆に下部には負圧が働き、そこに燃焼室を設けると、開放空間の燃焼よりも空気が加給され、高温化が図れるのです。この一連の作用を俗に「煙突の引き」といいます。これは煙突の断面積が広いほど、そして長いほど、さらに真っ直ぐなほどこの効果は高まります。また、煙突の大きさも、燃焼室の容量と比例し、燃焼室に対し煙突が小さすぎると気体(流体)の「引き」が弱くなります。ホフマン窯で連続焼成させるには安定した「引き」が必要ですから、岸和田煉瓦の巨大な窯にはこのような真っ直ぐの巨大な煙突が築かれました。
 往時の岸和田市民が見上げた、巨大な煙突群は、時代のハイテクノロジー、連続して燃焼するホフマン窯ならではの高効率燃焼のシンボルでもあったわけです。


 これらの写真は、明治建築物の研究家である故:松田玉信氏が撮影されたものです。提供いただいた写真から見ても、岸和田煉瓦のホフマン窯はとても巨大で、機能美ともいえる美しさをもったものだったといえるのではないでしょうか。
 現在、日本の近代化を支えた煉瓦会社はほとんどが操業を行っておらず、ホフマン窯も稼働しているものはありません。しかし、日本国内には現在4基のホフマン窯が現存し、栃木県野木市の旧下野煉化製造会社、埼玉県深谷市の旧日本煉瓦製造のものが国の重要文化財に指定され、京都府舞鶴市の旧神崎窯業と、滋賀県近江八幡市の旧中川窯業のホフマン窯が国の登録文化財に登録されています。歴史に・・・たら、・・・れば、は禁物ですが、この岸和田煉瓦のホフマン窯5基のうち、1基でも現在残っていたら・・・、と考えさせられてしまいます。

 今回まとめた岸和田煉瓦の写真が撮影されたのはおよそ昭和30年代の初め頃だと考えられます。この昭和30年代とは「もはや戦後ではない」(昭和31年(1956)の経済白書)の掛け声とともに、三種の神器と呼ばれる家電製品が一般に普及するなど、高度経済成長期の戦後社会が右肩上がりで成長していった時代です。社会は豊かになりましたが、産業構造の変化から、岸和田の臨海部ではこういった近代産業を支えた“岸和田遺産”とでもいうべき建造物や、白い砂浜、松林がどんどん消えていきました。
 今後、岸和田に残された“岸和田文化遺産”や“岸和田自然遺産”が消えてゆくことの無いように願いたいものです。
  残された製品 


 この「古写真でみる岸和田の文化財」では、昭和30年代の写真を中心に、先にシリーズ【1】【2】【3】で紹介したような、いわゆる文化財に指定されているものだけではなく、こういったちょっと古い岸和田の姿も紹介したいと思います。 



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