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熊野詣小栗街道

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2009年3月3日掲載

 小栗街道

小栗街道の写真
小栗街道(左)と府道大阪和泉泉南線(作才町)

 有名な小栗街道も昔の場所から大きくそれたりし、これが昔の街道だと指摘しなかったら、気づかれない程になってしまいました。
 この道は昔から大事な道で、ずっと古い頃は熊野街道と呼ばれ、京都に住んでいる人ならだれでも知っているという程有名で、紀伊の熊野に行く道でした。
 喜七年(907)花山天皇が病気平療の御祈願に名高い寺々をまわった。その最初に参ったのが熊野でした。その後、「ありの熊野詣」といわれるほどの上皇や貴族、武士や庶民、大勢の人々が熊野を目指しこの道を歩きました。
 熊野詣の道は京都から淀川を下り、窪津(天満橋付近)からは陸を歩き熊野本道へ、更に那智大社・速玉大社をまわります。この険しい道のりを人々はさまざまな思い・願いを込め、また奇跡を祈りながら歩き続けたのでした。

池田王子

 熊野へ参る人が多くなり賑やかになってくると、熊野の神様をお迎えした若王子という社が約百もたてられました。これを熊野九十九王子と呼び、岸和田市にも池田王子(積川王子ともよばれた)がありました。
 残念ながら現在は家が建ち当時の面影はありません。しかし、地元の人はこの付近を「おおじみや」と呼び、その言葉だけが当時のなごりを残しています。
 なお、この御祭神は現在は夜疑神社に合わせ祭られています。

小栗街道にまつわる昔話

 額町には白河上皇・後鳥羽院遥拝地跡があり、白河上皇が熊野御幸の際舞楽を奏された時、鳥居の額の字が拙いのを見、自ら筆をとり「正一位積川神社」と書かれたという扁額が掲げられています。(当時の額は文化財に指定され、積川神社に保存されている。)
 このことから、周辺一帯を現在も「額」と呼んでおり、額町だんじりの枡合に白河上皇積川神社遥拝の彫物が彫られています。
遥拝鳥居の写真積川神社遥拝鳥居(小松里町)
遥拝鳥居の額の写真遥拝鳥居の額

 白河上皇が碁をかこまれたといわれている碁石山浄行寺もこの付近にあります。
 また、額原町だんじりの枡合に白河上皇碁打の彫物が彫られています。

碁石山の写真碁石山

 沿道にはほかにもさまざまな昔話が残っています。