『岸和田市史史料第9輯 熊沢友雄日記(4)』刊行しました
『熊沢友雄日記』とは?
『熊沢友雄日記』は、幕末期の岸和田藩士であり、維新後は堺県会議員、同副議長、大阪府会議員、南・日根郡長などを歴任した熊沢友雄の日記で、嘉永5(1852)年から明治28(1895)年まで、一時期を除いてほぼ全期間にわたって記述されています。江戸から明治へと大きく時代が移り変わる中で、岸和田に生きた人物の生の証言にあふれたきわめて貴重な史料ですので、このたび、『岸和田市史史料第9輯』として、明治15年から明治18年までの日記を翻刻し、刊行しました。


『熊沢友雄日記』から何がわかるのか?
熊沢が生きた時代は日本史を画する一大変革期であり、『熊沢友雄日記』には、幕末・維新期の相次ぐ政治・制度の変革や社会の変化の様子、それに対する熊沢の感懐などが記されています。その他、日常生活の食事、娯楽、親類・友人等との交流など些細な出来事も多く記され、当時のくらしぶりがよく伝えられています。日記からは当時の相次ぐ諸変革に対する同時代人の受け止め方や、社会情勢の変化への対応等が知られ、岸和田の地域史のみならず、日本近代史の研究史料としても重要な史料です。
自由民権運動
「本日午前十一時過ぎ(中略)電報にて、板垣退助君本日彦根発、湖上蒸気船、大津より汽車、午後六時梅田停車場へ着くに付、同志申し合わせ迎えに出候様申し来る、(中略)同氏は去る七日濃州岐阜にて刺客の為負傷せらる処、幸いに五ヶ所の疵も浅手にて死に至らず」(明治15年4月17日条)
明治15年4月、自由党総裁の板垣退助は岐阜で暴漢に襲われ負傷しました。有名な「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだのはこの時です。その後傷がある程度癒えた板垣が大阪へ来るので迎えるようにと、自由党系の民権家から熊沢に連絡があったのが上の記事です。全国的に民権運動が高揚した明治15年、熊沢は大阪に本部を置く近畿自由党(後に立憲政党と改称)と深くかかわり、岸和田で自由党副総理中島信行らを弁士に招いて演説会を開くなど、岸和田地域における民権運動の展開が知られます
玉葱と水なす栽培
「午後一時より土生新田植物試作場の移転に付、新規の場所を調視の為罷越す、(中略)それより新田試験場へ赴く、新旧のケ所を検査し、おわって(坂口)平三郎宅にて茶菓酒飯を出す」(明治15年10月25日条)
これは、泉州名産品となる玉葱栽培を始めた坂口平三郎が自宅近くに設けた土生新田(今の土生町の一部)植物試験場を南・日根郡長であった熊沢が視察した記事です。坂口は明治12年頃に神戸の西洋料理店で初めて玉葱を食べ、米国人から玉葱を分けてもらって土生新田で栽培を始めました。日記には玉葱のことは出てきませんが、熊沢が訪れた時には玉葱栽培が始まっていました。また、水なす栽培は明治初期に上之郷(泉佐野市)で始まったといわれていますが、本書明治17年8月2日条に熊沢が親類から水なすを贈られたという記事は、水なすの文献上の初見の可能性があります。
郡長としての活動
「非常の大雨なりしにより所々小破損少なからず、人家の如きも全きは稀なり、近来如何なる時運なるか、年々天災打ち続き、人民の疲弊ただならざるの上、かく臨時の災害を加うは実に慨嘆すべき事也」(明治18年7月2日条)
熊沢は明治15年7月から19年8月まで南・日根郡長を勤めましたが、彼の郡長在任中は天災続きでした。明治16年は旱害に悩まされ、17年と18年は大雨による水害で大きな被害がありました。その他、和歌山県との漁場紛争に関しての和歌山県や農商務省との交渉、士族授産事業の推進、管内小学校の定期的な巡視、徴兵検査の状況、コレラ病流行の状況など郡長の公務にかかわる様々な記事がみられます。
民間習俗
「住吉戻り湯と唱え海浜賑わう、近在より来るもの多し」(明治17年8月4日条)
これは「住吉戻り湯」(住吉大社の神輿を洗った海水が潮流によって岸和田に着き、それに手足をつければご利益があるとされました)で海浜部が賑わったことを記しています。他に8月末から9月初旬の盆踊りの記事では、男は女装、女は男装して夜を徹して岸和田城下各地で行われていたことなど、現在では行われなくなったり、あるいは様相が異なっている民間習俗についても記されています。
規格と購入方法
- B5判 230頁 1600円 送料290円
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