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新たに市の有形文化財を指定しました【能面】 

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2015年6月16日掲載

下記の文化財を市の有形文化財(彫刻)に指定しました。

名称および員数

        ()能面 附、紙製面1面 面袋9枚、木箱1合および面袋献納記1通()

所有者

           宗教法人 兵主神社

所在地

    岸和田市西之内町1

時 代

           室町時代

指定年月日

    平成27年6月1日

説 明

 兵主(ひょうす)神社は、平安時代に著された『延喜式』に記されている式内社です。掃守郷(かもりごう)の惣社で、大宮とも呼ばれていました。しかし、天正年間(1573-1592)に社殿が焼失し、現在の本殿(重要文化財)が再建されました。
 境内には、大蛇が棲むと伝える蛇淵(じゃぶち)という小池があり、地域の雨乞い祈祷の場でもありました。

 能面は、翁(おきな)・翁または父尉(ちちのじょう)・黒色尉(こくしきじょう)・延命冠者(えんめいかじゃ)・尉・小尉(こじょう)・小尉・小面(こおもて)又は若い女の計8面があります。面長は17.2cm~21.5cm、材質はヒノキ・キリ・クスで、縦一材から彫成し、おおむね胡粉下地に彩色を施しますが、黒色尉のみ下地がなく直接彩色を施しています。
 このうち、古式の舞で用いられる翁・翁又は父尉・黒色尉・延命冠者の4面、及び尉の計5面は同じ作風で、いずれも定形化する以前の形式にとらわれない自由でのんびりした古風を残し、室町時代の作と見られます。2面の小尉は先の5面とはやや作風を異にするが、やはり古風な作行きは室町時代及び江戸時代初期の作と推定されます。小面又は若い女は形式的には他の面に比べてやや新しく、製作時期は江戸初期まで下る可能性もあります。なお、附とした紙製面は鬼神系の面あるいは神楽面の可能性も指摘されています。

当社に伝わる寛永6(1629)年正月16日付けの古文書には、次のような能面の由来が記されています。「村の子供らが狐を犬に食わせたことが神の怒りを招き、宮年寄らが神前に七日間篭ると、七日目の朝に社殿が振動し、神前に女郎面が現れた。面を神前に立て、奈良・大坂の能役者を招いて毎年正月17日と8月8日の祭礼に能を演じ、村も栄えたが、やがて能も行われなくなった。」
 この文書には、能が行われなくなったのは寛永6年の62年前とあり、永禄10(1567)年頃までは能が演じられていたとしています。

 また、当社所蔵文政6(1823)年「旱魃に付当村氏神え雨乞致し候に付諸事控」には、雨乞いの際には「天降り玉ふ御面」を神前に飾り置いたことが記録されていて、これらの能面が室町時代から雨乞い神事に使用されたかどうかは判然としないが、当社が雨乞いの神として地域住民に信仰されてきた歴史と密接に関連して、能が演じられなくなって以後は、雨乞い神事と関連する神宝として大切に保存されてきた。

岸和田市域のみならず、大阪府内においても現存する室町期に遡る地方芸能史資料は数少なく、特に古式の翁舞(おきなのまい)で用いられる4面が揃って伝えられる事例は貴重です。

なお、寛保3(1743)年6月に岸和田藩士陶国興(すえ くにおき)が記した「面袋献納記」は、当時の岸和田藩主岡部長著(ながあきら)がこの能面を見て錦の袋を献納した記録で、岡部長著が寄進した面袋も伝存しています。

なお、拝観希望の場合は、予め兵主神社(072-427-5610)までご相談ください。


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