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岸和田市内の主要な遺跡

印刷用ページを表示する 2009年3月3日掲載
  • 縄文時代
     春木八幡遺跡
  • 弥生時代
     下池田遺跡、土生遺跡、畑遺跡、尾生遺跡、箕土路遺跡
  • 古墳時代
     摩湯山古墳、馬子塚古墳、三田古墳、久米田古墳群、貝吹山古墳、風吹山古墳、持ノ木古墳、天神山古墳群、田治米宮内遺跡
  • 奈良・平安時代
     久米田池、久米田寺、山直北遺跡、山直中遺跡
  • 鎌倉・室町時代
     岸和田古城跡、岡山御坊跡
  • 江戸時代
     岸和田城跡 

縄文時代

春木八幡山遺跡(はるきはちまんやまいせき)

春木八幡山遺跡(昭和36年当時)

 八幡町にある縄文時代から古墳時代の遺跡です。海岸砂丘の上にあり、岸和田市内では昭和36(1961)年に本格的な発掘調査が行われた遺跡として、学史的にも有名な遺跡です。またその立地は縄文時代の海岸線を考える上で重要な遺跡です。 調査では縄文土器片や弥生土器が見つかっています。現在のところ、岸和田市内で最も古い弥生時代の遺跡でもあります。また、竪穴式小石室も数基確認され、古墳時代には小規模な古墳が築かれていたこともわかっています。

弥生時代

下池田遺跡(しもいけだいせき)

下池田遺跡 溝 

下池田遺跡 溝出土 土器

 弥生時代の中ごろから古墳時代にかけての集落跡です。竪穴住居、溝、井戸、川の跡などが発見されています。たくさんの壷や甕のなかには、岡山県や和歌山県など遠くから運ばれてきた土器もあります。斧、やじり、穂積み具(石包丁)など石の道具のほかにも、どんぐり、うり、ももの種やひょうたんも見つかっています。現在は、岸和田市立八木北小学校が建っていますが、岸和田の代表的な弥生時代の遺跡です。また、平成19(2007)年に大阪府営住宅の建て替え工事に伴い発掘調査が行われ、集落をとりまく大きな溝が検出されています。

土生遺跡(はぶいせき)

 岸和田市と隣接する貝塚市にまたがる集落跡です。昭和48(1973)年、大阪府教育委員会によって現国道26号線建設に先立つ分布調査で発見されました。昭和49(1974)年から発掘調査が行われました。その結果、住居跡などの遺構とともに多量の製塩土器が確認され注目を集めた遺跡です。

畑遺跡(はたいせき)

 畑遺跡は岸和田市域の南西部、津田川右岸の標高約30mから45mに位置します。岸和田市内の周知の埋蔵文化財包蔵地のなかで最大規模の面積をもつ集落跡で、弥生時代から中世にかけての複合遺跡です。しかし、面積は最大規模ですが、全面的に遺構が分布するわけではなく、いくつかの微高地や尾根上に集落が存在したと考えられ、複数の集落が組み合わさって一つの遺跡となっているのが実状です。

 畑遺跡の中心地の一つと考えられている岸和田市立太田小学校周辺では、過去の調査において竪穴住居、方形周溝墓、土坑、掘立柱建物などとともに、多量の弥生土器や石器、さらには埴輪、土師器、須恵器、黒色土器(こくしょくどき)、瓦器(がき)などが確認されています。また遺跡の全体的な遺構、遺物の検出状況から、弥生時代から鎌倉時代の各時代にかけての遺構、遺物が確認されており、非常に長期にわたってこの地域に人々が居住したことがわかっています。また、近年の調査では溝の中から円筒埴輪片を検出し、周辺に古墳の存在がうかがわれる地点もあります。

尾生遺跡(おぶいせき)

尾生遺跡 五角形住居 

 尾生遺跡は久米田池の南側に位置します。遺跡の中央部を現在の轟川が流れ、それと同じような方向で、蛇行しながらいくつもの自然流路が久米田池の方向に向かって流れていました。久米田池が築造される以前の様相がよくわかります。

 発掘調査で発見された弥生時代後期の集落跡から、平面形態が正五角形状の竪穴住居が検出されています。住居は、一辺が4mから5mを測り、住居の中央部で炉を、その周囲に5つの柱穴が確認できました。この平面形態が五角形をした竪穴住居は大変珍しいものです。当時の竪穴住居の平面形態は円形か隅の丸い方形をしているのが一般的で、他に少数ながら多角形を呈する例もありますが、通常六角形か八角形をしていることが多いものです。現在のところ、滋賀県下に比較的多く五角形住居の類例が認められますが、この尾生遺跡で見つかった五角形住居とのつながりは不明です。

箕土路遺跡(みどろいせき)

 箕土路遺跡は、箕土路町から中井町にかけて所在する縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。遺跡の立地から見て最も標高の低い国道26号線付近にのみ縄文時代中期の遺物包含層が認めらます。また、それ以外に弥生時代後期の遺物は広範囲に認められますが、住居跡などの明確な遺構の存在は明らかではなく、旧河道やその氾濫原の堆積土中のものが多く出土しているようです。

 そのほかにも平安時代後期以降、瓦器(がき)や羽釜(はがま)、瓦などの遺物を伴った遺構が多く、この時期に集落の形成が行われたようです。なかでも現在犬飼堂廃寺として周知されている地点では、ロストル式瓦窯が2基確認されており、周辺に中世寺院の存在が推定されています。標高の高い遺跡の南東部では、住居跡は顕著ではありませんが鎌倉時代後期から室町時代にかけての集落が最盛期を迎えたと考えられ、多種多様な井戸が多数検出されています。

古墳時代

摩湯山古墳(まゆやまこふん)

摩湯山古墳 横から

摩湯山古墳 航空写真

 摩湯町にある大型の前方後円墳です。全長約200m、前方部幅約100m、後円部径約127mで岸和田市内では最も大きく、国の史跡に指定されています。発掘調査は行われていませんが、墳丘は20cm前後の川原石で覆われ、わずかですが埴輪や土器が出土しています。また、後円部の南西に隣接して、陪塚(ばいちょう)といわれている馬子塚古墳(まごづかこふん)があります。

馬子塚古墳(まごづかこふん)

馬子塚古墳

馬子塚古墳 葺石検出状況

 昭和33(1958)年に土取りで、埋葬施設主体部が露出し、青銅鏡と、碧玉製の管玉が出土しています。

 平成17(2005)年度より発掘調査が行われ、ほとんどが土取りで削られていると考えられていた墳丘で、古墳斜面の葺石と古墳周囲を廻ったと推測される円筒埴輪列、それらが設置されたテラス状平坦面を一部で確認しました。特筆的なことは、さらにその外側に小さな葺石斜面が作られていることがわかりました。これらの成果より、この古墳は一辺が約23mの方墳で、周囲には約80cm間隔で埴輪が立てられ、上下2段の墳丘に加えて、周囲を小さな葺石斜面を持つ段で囲っていたことがわかりました。

三田古墳(みたこふん)

 江戸時代以来、この地に古墳が存在したことは知られていましたが、明治時代にはすでに墳丘部が削平されており、もとの墳形などは長らく不明で、ただ周辺から採取された埴輪片や須恵器片などから6世紀代の古墳とみられていました。平成5(1993)年、道路建設に伴う発掘調査が実施され、三田古墳は直径18mの円墳で、墳頂部に木棺直葬の埋葬施設と、三葉環頭太刀・須恵器・ガラス玉などの副葬品が確認されました。さらに、それとは別に横穴式石室も発見され、二つの異なった埋葬施設をもつ珍しい古墳として、埋葬形態が木棺直葬から横穴式石室へと移行する過程を示す貴重な発見となった古墳です。泉州地域で横穴式石室が築かれるのは6世紀中葉以後であり、これらの副葬品や古墳の構造から6世紀中・後期に築造されたものであることが判明しています。

久米田古墳群(くめだこふんぐん) 貝吹山古墳(かいぶきやまこふん)

貝吹山航空写真 

貝吹山古墳

池尻町の久米田公園の中にある貝吹山古墳を中心に、風吹山古墳や無名塚古墳など7つの古墳が残っていますが、昔はもっとたくさんの古墳があったようです。貝吹山古墳は摩湯山古墳より小さな前方後円墳ですが、それでも全長約130mあります。発掘調査が実施されましたが、残念ながら埋葬施設は中世に盗掘を受け、破壊されていましたが、香川県の火山(ひやま)石製の石棺破片や、碧玉製腕飾(わんしょく)類や銅鏃(どうぞく)などが出土しています。また最近の研究では、埴輪などの年代観からは、摩湯山古墳に先行して築造されたと考える研究者もいます。

風吹山古墳(かぜふきやまこふん)

風吹山主体部 全景

 風吹山古墳は全長71m、古墳の形を上から見ると帆立貝の形に似ているため、帆立貝形古墳と呼ばれる形の古墳です。形状などから円墳部の南東側に方形の造出部をつけた帆立貝形古墳であることが確認されていましたが、さらに平成5年(1993)年の第2次調査の際に円墳部の南西側にもう一つ小さな造出部をもつ特異な形の古墳であることが確認さました。最初は小型の造出部をもつ円墳として築かれましたが、後に大型の造出部分をもつ帆立貝形に改築されたことがわかる珍しい例です。古墳の規模や形状は被葬者の地位を表していますから、墳墓の築造期間中に被葬者の地位の上昇がうかがえる点でも貴重な事例といえます。

風吹山古墳 画紋帯神獣鏡出土状況

風吹山 出土品(玉類)

 墳頂部で2基の埋葬施設が検出され、北棺から青銅鏡、鉄刀、鉄剣、ヒスイ製勾玉(まがたま)、碧玉(へきぎょく)製勾玉、管玉、数千点におよぶガラス製の玉類、銀製の玉、漆塗りの櫛などたくさんの副葬品が見つかっています。南棺はほとんど失われていましたが、鉄製の甲冑、鉄刀などが見つかっています。これらの副葬品等から風吹山古墳は5世紀前半のごく早い時期の築造と推定されています。被葬者は、4世紀後半頃の摩湯山古墳(摩湯町)、貝吹山古墳(池尻町)の被葬者に続いて、和泉中部地域を支配した豪族であると推測できます。

持ノ木古墳(もちのきこふん)

持ノ木古墳 検出状況

持ノ木古墳 須恵器

 平成4(1992)年の発掘調査によって新たに発見された古墳です。付近には風吹山古墳・無名塚古墳・貝吹山古墳などが存在し、久米田古墳群の一画を占めます。昭和初期の記録に無名塚の周辺に小さな古墳が存在したことが記述されていますが、墳丘は削平されてしまっておりその実態は長らく不明でした。

 調査の結果、一辺約12mの方墳であることが確認されました。古墳の周濠部から壷・高坏・器台など多くの須恵器が発見されましたが、5世紀前半のごく古い段階の須恵器であり、その形態や文様から朝鮮半島との深いかかわりがうかがえる貴重な発見です。

天神山古墳群(てんじんやまこふんぐん)

大山大塚古墳

捕鳥部萬の墓

 天神山古墳群は天神山地域に存在するいくつかの古墳の総称です。現在、周辺は住宅に囲まれていますが、団地内には3基の古墳が残されています。大山大塚古墳はその形状から前方後円墳と指摘されていましたが、平成17(2005)年に行った本市の発掘調査の結果、主体部などは不明ですが、前方後円墳ではなく、直径30m程度の円墳だと考えられます。

 その墳丘上には日本書紀に見える「捕鳥部萬(ととりべのよろず)」の墓と伝えられる墓があります。また付近には萬の飼い犬だった犬の墓が営まれたとされる「義犬塚古墳」も存在し、両墓とも、地元ではよく知られており、現在でもお供え物が絶えません。

義犬塚古墳

田治米宮内遺跡(たじめみやうちいせき)

 田治米宮内遺跡は、田治米町に所在します。牛滝川右岸に形成された河岸段丘低位面に立地し、標高は約30mあり、山直北遺跡の西側に隣接しています。かつては弥生土器が散布する遺跡として知られていましたが、岸和田市立山直北小学校の体育館建設や府道三林・岡山線の拡幅工事で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構が検出されました。

 また平成9(1997)年の土地区画整理事業に伴う発掘調査では、弥生時代から中世にかけての遺構を多数検出しました。古墳時代の遺構では、竪穴住居を5棟以上、掘立柱建物を9棟以上が検出されています。また溝が方形に巡り、一辺が約20mの方墳と推測される遺構も検出しました。埴輪や葺石は検出できませんでしたが、周りより多量の須恵器や土師器が出土し、古墳時代中期に築造されたものと考えられます。

 古墳時代後期に流れていた河川も検出しました。現在の牛滝川のもとの姿と考えられます。川岸には杭が何列にも打ち込まれ、多量の須恵器片が堆積していました。メノウ製の勾玉や石製飾りも出土したことから、何らかの祭祀が行われていたと考えられます。この他に奈良時代から平安時代にかけての瓦も多数出土したことから、近くに古代寺院が存在した可能性が指摘できます。

奈良・平安時代

久米田池(くめだいけ)

久米田池 全景

 大阪府指定史跡・名勝の指定をうけている久米田池は、池尻町、岡山町にまたがる広さ約45.6ha、周囲約2.6kmの大阪府下最大の水面面積をほこるため池です。久米田池は、『行基年譜』によると天平6(734)年に僧行基によって造られたとされています。現在の池の堤の高さは約8mありますが、行基が当初築いた堤はもっと低く、時代とともに盛土が繰り返され現在の高さに至ったと考えられます。また、行基は同年、同所に物部田池(ものべたいけ)も造ったとされています。現在の久米田池は、行基の造った久米多(田)池と物部田池を近世になって併合させたものだとの見解も出されています。

木樋管検出状況

 平成19(2007)年に一番樋に該当する部分が道路築造に伴い発掘調査され、木製の樋管が2本検出されています。その年代が池の築造年代を追及する上で、注目を集めています。また、堤の造成には敷葉工法状に、粘質土と植物の葉のようなものを交互に敷いた様子が確認できています。古代の土木工法に迫る良好な事例です。

久米田池 堤 土層断面

 隣接して大阪府指定史跡久米田寺があり、こちらも行基建立の寺院とされ、久米田池とあわせて、良好な歴史的景観を残しています。

久米田寺(くめだでら)

和泉名所図会 久米田寺

 久米田寺は、池尻町に所在します。山号を竜臥山、院号を隆池院といいます。久米田寺は、『行基年譜』によると天平6(734)年に僧行基によって建立されたと伝えています。当初は久米田池を管理するための施設であったと考えられています。これまでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての瓦が出土していますが、創建時の遺構、遺物とも未だ確認できていません。

山直北遺跡(やまだいきたいせき)

 山直北遺跡は過去の調査では古墳時代の竪穴住居・掘立柱建物・古墳・土坑墓、奈良・平安時代の掘立柱建物群や井戸などの遺構を検出、硯や緑釉(りょくゆう)の香炉・皿・土馬などが出土しています。そのなかでもこの遺跡を特徴付けているのが、奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物群で9棟以上の建物跡が確認されています。これらの建物は、南北方向を基軸として配置され、付近の現在の地割にもその姿を残しています。これらの遺構の形態や出土品などから山直郷(やまだいごう)における官衙(かんが)に付随する建物、あるいは地方豪族の館の遺構ではないかと考えられています。 

 平成7(1995)年から実施した調査では5基の削平された古墳が検出されました。特に規模が大きく、遺存状態の良かった山直北遺跡4号墳では、周溝内から鶏形、馬形の形象埴輪片が出土しています。この他にも、隣接する三田遺跡や山ノ内遺跡でも削平された古墳が検出されていて、その総数は10基以上にのぼります。周辺にはさらに多くの削平された古墳が存在すると考えられ、5世紀末から6世紀にかけて小規模な群集墳を形成していたと考えられます。

山直中遺跡(やまだいなかいせき)

 山直中遺跡は、過去に府道磯上山直線建設予定地内で数度の発掘調査が行われている遺跡です。それらの調査の結果、多くの遺物とともに奈良時代から中世にかけての集落跡が発見されています。とくに平安時代初頭から中頃にかけての大規模な掘立柱建物群が確認されています。また付近には明治時代まで存在したと言われる蓮華光寺跡があります。

 平成6(1994)年の調査においても、平安時代の掘立柱建物群とあわせて黒色土器碗や土師器の皿類が多数出土しました。また、当時としては高級品である近江産の緑釉陶器(りょくゆうとうき)も出土しており、山直中遺跡周辺が古代のこの地において重要な位置づけにあったことを示しています。

鎌倉・室町時代

岸和田古城跡(きしわだこじょうあと)

和田氏居城跡 石柱

岸和田古城1

 岸和田の名の起こりであるという伝承のある中世の城跡です。平成18(2006)年、19(2007)年に発掘調査が行われ、舌状にのびる尾根の南西側斜面を掘りくぼめ、長径35m程度の五角形の段を削りだして一部に土塁(どるい)を構築していたことがわかりました。土塁内から発見された土器などからはおよそ15世紀末から16世紀初頭に利用されていたことがうかがえます。したがって、この部分に関しては伝承として伝えられる和田氏居城ではないと判断できるものです。ただ、この城を描いたと考えられる「古城図」には、他にも大きな郭(くるわ)が描かれており、岸和田古城の平面規模や居住性などからも恒常的な居館であるとは考えにくいことから、この絵図に見える郭が、岸和田古城とどういう関係にあるのか定かではなく、まだまだ謎の多い城跡であるといえます。

岡山御坊跡(おかやまごぼうあと)

岡山御坊跡 

 岡山御坊は、文亀3(1530)年頃、当地を訪れた本願寺実如(じつにょ)によって創建され、泉南地域での浄土真宗勢力拡大の一拠点となった寺院です。しかし、天正8(1580)年、織田信長の軍勢の配下によって焼かれ、当時の建造物は何も残されていません。

 発掘調査では幅約3.2m、深さ約1.2mの大溝が見つかりました。出土遺物は瓦器椀(がきわん)、羽釜(はがま)などが出土しています。さらに平行して別の溝1本を検出しており、あわせて御坊の北面を区画するような状態を示します。どちらも開削の時期は不明ですが、概ね鎌倉時代から室町時代にかけて存在したものと思われるものです。またこの溝は、区画の溝にしては規模が大きく、二重であるため、防衛施設としての堀跡と考えられます。これらからは岡山御坊建立以前に、城郭や寺院のような防衛設備をそなえた建造物がこの地に存在したことが推測でき、本願寺実如は旧来の施設を利用して岡山御坊を建立した可能性があることが明らかとなりました。

江戸時代

岸和田城跡(きしわだじょうあと)

岸和田城

 岸和田城がいつ築かれたのかはまだわかっていません。本格的な築城は16世紀末、小出秀政によって行われました。その後、寛永17(1640)年には、岡部宣勝が入城し、この時期に、ほぼ現在の岸和田城跡の範囲まで城郭・町屋が形成されているようです。岸和田城跡は室町時代後期から江戸時代末期、近代までの歴史をもち、その性格も城郭から町屋まで多岐にわたり、近世城下町における生活の一端を知ることができる遺跡です。

 発掘調査では市立 きしわだ自然資料館建設工事や市役所第2別館建設工事に伴う調査において、唐津焼や初期伊万里を含む多数の近世陶磁器、かまど、井戸、水琴窟(すいきんくつ)などが検出されています。さらに、大阪府立岸和田高校校舎建設に伴う発掘調査では、堀跡が検出され、多くの木製遺物が出土しています。


岸和田市内にはまだまだたくさんの遺跡があります。周知の遺跡でその数は200件以上にのぼります。未調査である遺跡、すでに削られてしまっている可能性のある遺跡などなど、その性格はなかなかわかっていません。郷土文化室では年間を通じて発掘調査を行っています。面白いもの、特徴的なものがわかりましたら、順次簡単に紹介していきたいと思います。