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岸和田のむかし話8 地名などにかかわる伝承

印刷用ページを表示する 2009年3月3日掲載

文 玉谷哲

摩湯(まゆ)

 昔、摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子(まご)が馬をひいて来て、馬蹄(ばてい)を浸(ひた)したので、湯が汚(よご)れて有馬へ飛び去ったと伝わる。

へっつい片(がた)

 神於山(こうのやま)の東南の裾(すそ)にへっつい片がある。ここは、むかし、岸和田城を築いたとき、石を切り出した所で、大勢の人夫の湯茶の接待のため大竈(かまど)(へっつい)を設けたあとという。
また久米田池を築いたときのものともいう。

諸井堰(もろいぜき)

 河合町の雨降りの滝の上流にある。阿間河(あまか)と土生(はぶ)の両岸、諸手(もろて)に分水している井堰(いぜき)である。橘諸兄(たちばなのもろえ)が造ったとする伝承もある。

田治米(たじめ)の古名

 仁徳天皇の王子、タジヒノミズハワケノミコトが淡路の宮でお生まれになったとき、その湯沐(ゆあみ)に奉仕したのが丹比部(たじひべ)で、田治米氏の祖先である。またそのとき水の上にタジヒの花が浮かんだという。のち湯沐邑(ゆあみのむら)として丹比部を置かれたところで、丹比部里(たじひべのさと)から丹治米里(たじめのさと)になったといわれる。

島田の森

 池の尻から塔原(とのはら)街道に出、城下池(じょうがいけ)の横を通り、伊勢講の灯籠(とうろう)を過ぎると、土生(はぶ)との境界の手前右側に森があり、赤い鳥居が見えてくる。島田稲荷ともいわれ、土生側からは烏(からす)の森ともよんでいた。

こなから坂

 紀州街道から北大手門を入ると左手へ折れて、坂を上ると北口門があった。その坂をいつからか「こなから坂」といった。大阪では半分の半分(4分の1)のことを「小半(こなから)」というから、90度の4分の1、22.5度位いの勾配の急な坂であった。今に残るかむろ坂・西大手坂も急勾配の坂である。

袖取坂

 「泉州畑村袖取坂で、小判千両後(のち)の世のため」と謡われる。畑町から津田川を渡って紙須屋(こうずや)へと出るみちにあり、河岸段丘につきあたってS字状に曲がる坂道である。そこで躓(つまず)いたり、ころんだりするとげんがわるいのでむかしは着ている着物の袖をちぎって坂に手向(たむ)け、はやく通りすぎるならわしがあった名残りである。

和泉式部ゆかりの地名

 土生町(はぶちょう)から作才町・上松町(かんまつちょう)・下松町(しもまつちょう)にかけて和泉式部にゆかりの地名が分布する。恋の渕・恋ざめの渕・蛙(かわず)泣かずのどんび渕など、泉、水にかかわる地名と、式部塚・式部川・式部墓・式部の湯殿石(夜啼石(よなきいし))と、式部の硯塚(すずりづか)・筆塚など式部を冠(かん)する地名に分けられる。また、轟(とどろき)川について和泉式部が詠んだとする歌がある。
「轟(とどろき)の川の瀬に棲(す)む鮎(あゆ)にこそうるかといえるわたはありけり」(拾遺泉州志)
また、「轟やあの綿ばかりうるかなりこのわたばかりうるかではなし」(泉州記)
との2首があり、歌が詠まれてから轟川に鮎がいなくなったと結んでいる。

行遇堂(ゆきあいどう)

 むかし阿間河(あまか)の村は、上字(あざ)(八田(はつた)・神須屋(こうずや))と下字(畑・極楽寺(ごくらくじ)・流木(ながれき))とに分かれていた。祭礼などの行事には、この行遇堂でおち合ってから、一の宮に参詣したという。
一説には神於寺(こうのでら)の盗まれたほら貝が、阪南市の貝掛からもどされたとき、寺からの迎えの者と出合ったところとも伝えられている。

八木の村名を続けた俚謡(りよう)

 「今木(いまき)の川原で手ぇ切って、大路(おおち)・箕土路(みどろ)で中井(なかい)でも吉井(よしい)々々」

久米田付近の村名をよんだ俚謡

 「今木(いまき)はずして池尻(いけじり)見せて、田治米(たじめ)・新在家(しんざいけ)(岡山)は三田(みた)という」

昔山

 内畑の西堂の村はずれ、山の斜面に亜炭が露出していて、植物の根や茎・葉などの炭化したものが散らばっている。そのま下の牛滝川には、鳥地獄といわれる炭酸泉の噴出も見られ、戦争中には川岸から昔山へかけて炭坑が掘られていた。昔の形のまま、亜炭となった植物が出てくるので名づけられたらしい。

松村

 歌集「夫木(ふぼく)集」に「春秋(しゅんじゅう)は多く積(つも)れど年を經て常盤(ときわ)に見ゆる松村の里」と載せている。「多武峰略記(とうのみねりゃくき)」「粉河寺旧記(こかわじきゆうき)」など平安時代の文書に、松村郷として現れる。
近世には「松村編笠(あみがさ)が名産として知られる。現在分かれて上松(かんまつ)村・下松(しもまつ)村となり、その中に八坂・山下・門前がある。

包近名(かねちかみょう)

 国衙(こくが)の費用にあてるため予(あらかじ)め設けられた名(みょう)で、別名ともいわれる。
 山直(やまだい)郷を中心に、八木郷・加守郷・今泉庄などに分布し、山直郷には上方・下方包近名があり、上方には山直里・山垂井(やまたるい)里・椿井(つばい)里が含まれていた。兼親(かねちか)名・兼近名とも書かれ、現在の包近町がその名残りである。

地名の挿絵


※ この「岸和田のむかし話」は市制70周年を記念して平成4年11月に刊行された本をWeb化したもので、岸和田に伝わる昔話や、発刊時に創作された話を収録しています。
あくまでも昔話ですので、必ずしも史実に基づいているものではありません。

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