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岸和田のむかし話6 轟川・天の川周辺の話・(8)西福寺の鎌上人(春木)

印刷用ページを表示する 2009年3月3日掲載
 春木の西福寺(さいふくじ)は浄土宗の本山寺(ほんざんでら)で、扁照山摂取院(へんしょうざんせっしゅいん)と号し、阿弥陀仏(あみだぶつ)を本尊(ほんぞん)とする由緒(ゆいしょ)あるお寺です。
 後奈良天皇は、この西福寺を勅願所(ちょくがんしょ)と定め、足利(あしかが)将軍義晴(よしはる)は下馬止車(げばししゃ)の制札(せいさつ)を寄せましたから、門番はたいへん繁栄しました。
 当時、このお寺は2町余(6,000坪)の境内を持ち、寺領1万石、檀家(だんか)は48か村・48か寺に及ぶ本山寺で、寺内には、近隣の子弟を教育するための学問所が設けられていました。
 また、庭先には、天にも届くかと思われる松の巨木があり、沿岸で漁をする船頭たちの目印となって、長く花立松(はなたてまつ)の名が残りました。
 この西福寺の中興(ちゅうこう)の祖(そ)、灯誉上人(とうよしょうにん)は、伊勢の国山田の人で、鎌上人(かましょうにん)と呼ばれています。
 上人のお母さんは、上人がまだお腹(なか)の中にいる間に亡(な)くなりましたが、
 「私は、もはや生きて我が子の顔を見ることはかのうまい。
 子どもは生まれる前に私が死んだら、ためらうことなく私の腹を裂(さ)いて、子どもだけは必ず助けて下されや」
 という遺言(ゆいごん)どおり、その腹を鎌(かま)で断(た)ち割(わ)り、赤子(あかご)を取り出したのだそうです。
 お母さんの命かけた願いが通じたのでしょう。赤子は立派なお坊さんになり、泉南・泉北の村々に多くのご利益(りやく)を施(ほどこ)しました。
 当時、上人への謝恩(しゃおん)のために近郊の村々は、毎年薪1わを西福寺に納めたということです。
 上人は伽藍(がらん)整備の途上、法灯(ほうとう)を才誉(さいよ)上人に譲(ゆず)り、ご自身は大沢谷(おおさわだに)の転法輪寺(てんぽうりんじ)に入られました。
 西福寺は、今も諸人の厚い尊崇(そんすう)を集めています。

※ この「岸和田のむかし話」は市制70周年を記念して平成4年11月に刊行された本をWeb化したもので、岸和田に伝わる昔話や、発刊時に創作された話を収録しています。
あくまでも昔話ですので、必ずしも史実に基づいているものではありません。

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