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岸和田のむかし話6 轟川・天の川周辺の話・(2)久米田の古戦場(額原)

印刷用ページを表示する 2009年3月3日掲載

 永禄(えいろく)4年7月、畠山高政と紀州の根来衆(ねごろしゅう)が岸和田城を攻め、和泉平野はかつてない修羅(しゅら)の巷(ちまた)と化してしまいました。当時城は三好(みよし)3兄弟のひとり安宅冬康(あたげふゆやす)が守っていましたが、兄長慶(ちょうけい)は弟三好実休(じっきゅう)を堺に上陸させ、冬康を助けたので、形勢互角(けいせいごかく)のうちに年を越しました。
 翌永禄5年、畠山高政は、紀泉(きせん)の軍兵(ぐんぴょう)二万余を率(ひき)いて再び岸和田城を襲い、決戦を迫りました。
 「敵は大群、野戦ではとうてい勝ち味(み)はございませぬ」
 重臣たちの多くは籠城(ろうじょう)をすすめましたが、
 「座(ざ)して死を待てというか、たわけめ! 今、我らが意気地(いきじ)示さねば、後々(のちのち)の世までの笑い者となろう。いざ、撃って出て、敵に目にもの見せてくれようぞ」
 かくて、三好実休は自ら久米田の野に出て畠山勢と相対しました。現在、久米田公園内にある通称諸兄塚(もろえづか)なる前方後円墳(ふん)が実休の本陣だったといわれ、法螺貝(ほらがい)吹き鳴らして全軍の士気(しき)を鼓舞(こぶ)した貝吹山(かいぶきやま)の名を留めています。世にいう久米田の合戦ですが、実休は奮戦(ふんせん)空(むな)しく流れ矢に当たって討ち死にし、その首塚(くびづか)が、今も額町に残っています。
 この戦いで岸和田城も、ついに落城の憂(う)き目に遭(あ)い、冬康は四国の阿波(あわ)へ落ち延(の)びました。その後、畠山高政は三好長慶に敗れ、かわって長慶が畿内(きだい)を平定しました。
 今、合戦の跡(あと)を偲(しの)ばせる公園内に立ち並ぶ老松の下、夕日を背にそぞろ歩くと、功名(こうみょう)を夢見た兵(つわもの)どもの雄叫(おたけ)びにも似た松風が蕭々(しょうしょう)と空に鳴り、合戦の哀(あわ)れを語っています。


※ この「岸和田のむかし話」は市制70周年を記念して平成4年11月に刊行された本をWeb化したもので、岸和田に伝わる昔話や、発刊時に創作された話を収録しています。
あくまでも昔話ですので、必ずしも史実に基づいているものではありません。

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