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岸和田のむかし話6 轟川・天の川周辺の話・(1)作才の夜泣き石(作才)

印刷用ページを表示する 2009年3月3日掲載

 -ざくざえ(作才)のう……と、石は哭(な)いた-
 泉州に限らず、随所(ずいしょ)に「泣き伝承」が残る。中世末や、近世の寺院や農村での出来事とされるものが多い。
 貝塚市堤(つつみ)の「泣くな石」も、その一つ。
 近世中期、堤(つつみ)の釈迦堂(しゃかどう)前に置かれた飾り石を沢(さわ)の百姓たちが無理やり持ち帰って、溝(みぞ)の渡し石にしたところ、石はその夜から、
 「往(い)にたやな、堤-堤-」
 と、ひとしきりむせび泣いたという。
 堺の妙国(みょうこく)寺では、石ではなく樹が泣いた。信長に持ち去られ安土(あづち)の城に移植された大蘇鉄(そてつ)が、これまた故地(こち)をしのんで哭(な)きつづけた。壇信徒の心意を踏みにじった不条理な強権への抵抗(あらがい)-為政者(いせいしゃ)への怨念(おんねん)がこめられた「泣き伝承」の一つなのである。

 作才町の旦那寺-慈光(じこう)寺の寺域に、古色蒼然(こしょくそうぜん)とした「夜泣き石」が一つ、ボツネンと佇(たたず)んでいる。
 釈迦堂の石や妙国寺の蘇鉄と同じように、一旦(たん)城内へ運び去られたこの飾り石も、夜泣き故に同寺へ還(かえ)されたと伝えられる。
 現作才町が、まだ「ざくざえ」と呼ばれていた頃-近世初頭の話である。
 岸和田藩主岡部宣勝(おかべのぶかつ)が、長子行隆に世をゆずる前年の万治(まんじ)3年(1660)冬。作才村の庄屋与兵衛とその子庄兵衛が、苛酷(かこく)な年貢(ねんぐ)の取り立てに耐えかねて、一村の百姓ともども一夜のうちに何処(いずこ)ともなく逃散(ちょうさん)するという事件が起きた。わずかな居残りの者を置き、寺まで焼いて逃げたのだ。
 三好の家人(けにん)で豪の者として名を知られた侍大将=大蔵兵衛(おおくらひょうえ)と、その郎党の手によって開かれた作才の村は見るかげもなく荒れ果て、わずかな居残りの人数と近在から駆り集められた入り百姓たちの手で、その再建があわただしく始められた。
 明けて寛文元年(1661)、宣勝(のぶかつ)のあとを継いだ内膳正(ないぜんのかみ)行隆は、その襲封(しゅうほう)を機に城内の改修工事を起こし、近在からの巨石・銘石の搬入を命じた。

作才の夜泣き石の挿絵

 逃げ去った与兵衛の屋敷跡に残された件(くだん)の飾り石は、新しく庄屋となった忠兵衛たちの手で、二の丸藩侯御殿(はんこうごてん)の庭に据えられた。その夜の事だ。
 「あれは何だ?あの声が聞こえぬか……?」
 子(ね)の刻(こく)(午前0時)を過ぎた夜半に行隆はふと目ざめ、宿直(とのい)の者たちとともに耳をすました。
 「ざくざえのう……ざくざえのう……」
 漆黒(しっこく)の闇(やみ)を這(は)って、切々(せつせつ)とすすり哭(な)く声が流れて来る。
 「ざくざえのう……」
 声は、まさしく昼方運びこまれた作才村の与兵衛の石からだった。行隆の目に怖(おそ)れの色が浮いた。
 岡部家中(かちゅう)の苛政(かせい)を呪(のろ)い、食野(めしの)・唐金(からかね)の廻船の底に身をひそめて九州の五島へ逃れたとも、野末に果てたともいわれる与兵衛一統の怨念(おんねん)を、まざまざと耳にする心地(ここち)だった。
 石は早々に作才へ還(かえ)され、忠兵衛は慈光寺の境内にこれを祀(まつ)った。
 このあと、作才のこの伝承から不条理への抵抗(あらがい)が、次第に影をひそめたのはどうした訳だろう。
 歳時とともにこの石屑(くず)の煎(せん)じ汁が、夜泣きの幼子(おさなご)に利(き)くとかいう、らちもない霊験譚(れいげんたん)に姿を変えて語り継がれ、しょうしょうと野面(のづら)を渡る寒風(さむかぜ)とともに素知(そし)らぬ顔で、今に残された。

「広報きしわだ」掲載


※ この「岸和田のむかし話」は市制70周年を記念して平成4年11月に刊行された本をWeb化したもので、岸和田に伝わる昔話や、発刊時に創作された話を収録しています。
あくまでも昔話ですので、必ずしも史実に基づいているものではありません。

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