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岸和田のむかし話2 神於寺縁起絵巻

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2009年3月3日掲載

文 玉谷哲(岸和田市文化財保護専門委員)

(第1段)

 和泉国(いずみのくに)の神於寺(こうのじ)は天武天皇(てんむてんのう)のご願(がん)により役行者(えんのぎょうじゃ)がはじめて開かれた寺である。土地のたたずまいも理(ことわり)にかなった、まことにうるわしい山であった。
 行者が修行のおりふし、なかでも葛城(かつらぎ)山の竜(りゅう)の宿(しゅく)から、この神於(こうの)の峰に通(かよ)ったのが、ことのはじまりである。
 山の南ふもとには、はるかにひらけた野はらがあって、霞(かすみ)がたなびき、桃の花がほころぶところに、白髪のおきなが現(あらわ)れいでて、行者に、
「われこそは当山の地主明神(ちしゅみょうじん)である。この山の南の尾根にひさしく住んでいたから、山をかみのおやまと名づけている。この山に天降(あまくだ)ってから年がたつにしたがい、さびれてしまった。ねがわくば行者よ、当山を仏法修行のところとし、法(のり)の灯(ひ)を高くかかげて世の中を照らしたまえ」
と要請した。
 あたりは白雲(はくうん)が野原をおおい、白人(はくじん)(地主明神)と出あったところであるので、以後この地を「白原(しらはら)」と名づけた。
 このところの水源をたずねると、東の谷に清らかな泉があったから、行者は金剛童子(こんごうどうじ)を勧請(かんじょう)して「あか井」とよんだ。
山頂に小さないおりを結び「如法経(にょほうきょう)」を書いて奉納したので、このところを「如法(にょほう)のみね」といった。
 峰の西山の中腹に岩窟(いわや)があり、その中に行者は金銅(こんどう)の不動尊(ふどうそん)を安置し、呪法(じゅほう)を試(こころ)みると、五大明王(ごだいみょうおう)が雲の上に、八大童子(はちだいどうじ)が庭前(ていぜん)にあらわれた。そのうちに、もろもろの天人(てんにん)たちが日ごとに天降(あまくだ)り、仙人たちも夜々に袖(そで)をつらねた。

神於寺縁起絵巻挿絵1
 
(第2段)

 ついで行者は、如法(にょほう)の峰の南に一つの堂を作り、三宝を興隆(こうりゅう)しようと考えられた。
 これより前、白薙(はくち)4年(653)元興寺(がんごうじ)の道昭和尚(どうしょうおしょう)が入唐求法(にゅうとうぐほう)のとき、500匹の虎(とら)の乞(こ)いによって新羅(しらぎ)山中におもむき、法華経(ほけきょう)を講(こう)じられた。役行者(えんのぎょうじゃ)は多くの虎にまじって日本語で疑問(ぎもん)をただしたという。そのころ新羅(しらぎ)の国に威勢抜群通力自在(いせいばつぐんつうりきじざい)の神人(しんじん)で宝勝化人(ほうしょうけにん)と号するものがいた。
 行者はその霊験(れいげん)に感じ、日本の霊峰神於山(れいほうこうのやま)に降臨(こうりん)されんことを乞(こ)うて、その承諾(しょうだく)を得ていた。

神於寺縁起絵巻挿絵2

(第3段)

 行者は日本にかえって、またかつらぎの峰からこの神於(こうの)の峰にかよい修行を積(つ)んでいた。堂社の建立(こんりゅう)を朝廷(ちょうてい)に乞(こ)うたが、政情(せいじょう)の不安からなかなか実現できず、天武天皇(てんむてんのう)12年(683)になり、勅命(ちょくめい)によってはじめて一寺両院が建てられた。
 千手観音(せんじゅかんのん)を祀(まつ)る金堂(こんどう)、薬師如来(やくしにょらい)を安置(あんち)する講堂(こうどう)をはじめ、宝塔(ほうとう)・食堂(じきどう)などの伽藍(がらん)が整備(せいび)され、左大臣藤原不比等(さだいじんふじわらのふひと)を勅使(ちょくし)として参拝(さんぱい)させ、祈願会(きがんえ)が行われた。

神於寺縁起絵巻挿絵3
 
(第4段)

 このとき、新羅(しらぎ)の神人(しんじん)は、伽藍(がらん)の成功を遥(はる)かに望(のぞ)み、役行者(えんのぎょうじゃ)との誓約(せいやく)を重(おも)んじて日本の地にその姿をあらわされた。まず式神(しきしん)・龍神(りゅうじん)を前後左右(ぜんごさゆう)に召(め)し連(つ)れ、雷神(らいじん)の案内(あんない)にみちびかれて、泉州南(せんしゅうみなみ)の郡(こおり)の麻生(あそう)の北の浦、はもさきの松に降臨(こうりん)したもうた。次に役行者が召使(めしつか)う鬼神(きじん)の案内でこの霊峰(れいほう)に移り、行者と対面(たいめん)した。
 このあと社壇(しゃだん)ができるまで、寺内に神人を据(す)えたてまつったので、寺号を神於寺(じんおじ)にあらためた。

(第5段)

 こうして南北に、上(かみ)の権現(ごんげん)と下(しも)の宝社(ほうしゃ)の社壇(しゃだん)をもうけられた。
 権現所持の宝物のうち、一つは「うかその」に、一つは「如法のみね」に埋められた。
 つきしたがってきた龍神(りゅうじん)のうち、一体を東の尾に祀(まつ)った。
 また当山(とうざん)の西北隅にある滝は、龍神の功徳(くどく)によって旱天(かんてん)に雨を降らせるので、雨降(うこう)の滝と名づけられた。
 雨が降ろうとする前、龍(りゅう)の尾よりこの滝に雲がかならずたなびくさまが、布(ぬの)を引くすがたに似(に)ることから、布引山(ぬのびきのやま)という。
 また雷(かみなり)がなりわたったので、神なりの山とも名づけられた。

(第6段)

 龍神の他の一体は湯屋谷(ゆやたに)の岩屋に祀(まつ)られ、そこからは雨の前に必ず白雲がわき立つという。
 権現に従(したが)う二人の式神を、如法(にょほう)の峰の南北に据(す)えた。一人は北坂(きたさか)のやしろ、つぎの一人は鎮守(ちんじゅ)の社壇(しゃだん)のとなりがそれである。

神於寺縁起絵巻挿絵4

(第7段)

 大化(たいか)5年(649)役行者(えんのぎょうじゃ)が伊豆(いず)の国に流され、大宝元年(701)に許されたが、この国を嫌(きら)って唐(とう)の国に去った。そのため神於寺(こうのじ)は荒廃にまかせることになった。
 神亀(じんき)2年(725)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの山の麓(ふもと)に久米田(くめだ)池を造(つく)ったが、水の便(べん)がわるかったため、神於山(こうのやま)の龍神に祈(いの)ったところ、獅子(しし)が出現(しゅつげん)してしまった。
 その後、寺はますます荒れはてて、堂や塔まで傾いた。宝勝権現(ほうしょうごんげん)は、宝亀(ほうき)3年(772)の冬ごろ、ひそかに霊場(れいじょう)をめぐって、荒れたさまをつぶさにしらべられたという。
 権現は、霊場(れいじょう)の荒廃を人々にさとすため試練(しれん)をあたえ、付近(ふきん)を往来(おうらい)する船(ふね)をくつがえし、通行の旅人(たびびと)を落馬させるなどすさまじい神威(しんい)・霊験(れいげん)をしめされた。
 さらに夜は夢(ゆめ)のお告(つ)げを、昼には託宣(たくせん)を下して、伽藍(がらん)の修復(しゅうふく)をすすめられた。

神於寺縁起絵巻挿絵5

(第8段)

 このとき、たまたま来朝(らいちょう)した異国(いこく)の沙門光忍(しゃもんこうにん)が、霊地を求(もと)めて諸国を修行・巡礼(じゅんれい)するうち、和泉国(いずみのくに)南の郡(こおり)にいたり、そこで神変(しんぺん)による洪水にあい、行手(ゆくて)をはばまれてしまう。やむをえず、熊野街道をさけ、舟に乗るため、かつて神人の降臨(こうりん)した鱒崎(はもさき)にいたった。そこで住人から、宝勝権現の霊験(れいげん)を聞いた光忍は、災厄(さいやく)をしずめるため、川づたいに神於山(こうのやま)に登った。
 道に迷(まよ)っていると、権現の使者である青牛(せいぎゅう)に案内(あんない)されて、ようやく草木に埋(う)もれた社殿(しゃでん)にいたりついた。
 たちまち権現が姿をあらわし、光忍上人(こうにんしょうにん)に神於山再興のことを託(たく)されて、衆生済度(しゅじょうさいど)のため、五種(ごしな)の誓願(せいがん)を発(はっ)せられた。
 上人はここに留(とど)まって、念諦(ねんじゅ)・座禅(ざぜん)を行い、本尊(ほんぞん)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)を金堂(こんどう)に安置した。また、地主(ちしゅ)の神殿に参籠(さんろう)しては、寺院興隆(じいんこうりゅう)の成就(じょうじゅ)を請(こ)い祈(いの)った。

(第9段)

 上人(しょうにん)が権現のお告(つ)げを天皇(てんのう)に申し上げたところ、み心を動かされて寺院再興(じいんさいこう)の勅命(ちょくめい)を下された。

(第10段)

 そこで、藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)が勅宣(ちょくせん)を受けて造営(ぞうえい)に当(あ)たった。光仁(こうにん)天皇の御代(みよ)、宝亀(ほうき)5年(774)に伽藍(がらん)の造営(ぞうえい)が成り、岸(きし)の和田(わだ)の庄(しょう)を寄進(きしん)して、寺の費用(ひよう)にあてた。
 また、権現の位階(いかい)を正四位(しょうしい)に進(すす)められて、鳥居(とりい)を南山の道のかたわらに建てた。
毎年10月に行われる祭祀(まつり)は、和泉(いずみ)四郡が順番(じゅんばん)に頭役(とうやく)をつとめ、一国恒例(いっこくこうれい)の祭(まつ)りであった。そのとき行われる法会(ほうえ)が、「弥勒大会(みろくおおえ)」と名づけられるのは、上人の持経(じきょう)である「弥勒上生下生成佛経(みろくじょうしょうげしょうじょうぶつきょう)」が講(こう)じられたからであった。

神於寺縁起絵巻挿絵6

(第11段)

 そもそも沙門光忍は百済国(くだらのくに)の人であった。渡海来朝(とかいらいちょう)ののち当寺を中興(ちゅうこう)し、寺運繁昌(はんじょう)ののち、宝亀(ほうき)6年(775)夏中(げちゅう)に安居(あんご)のうち、7月14日、口に梅多梨也(バイタリヤ)を誦(しょう)し、手に法界定印(ほうかいじょういん)をむすんで、端座(たんざ)してこうべをたれ、寂然(じゃくねん)として息絶(いきた)えられ、即身成仏(そくしんじょうぶつ)をしめされた。門徒(もんと)・遺弟(ゆいてい)らが、墳墓(ふんぼ)を白原(しらはら)に築(きず)いて追善会(ついぜんえ)を修(しゅう)した。
ここに到ってはじめて世人は、権現(ごんげん)が弥勒(みろく)の化身(けしん)を招(まね)いて
荒廃(こうはい)した寺院(じいん)を復興(ふっこう)され、光忍上人が、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の垂迹(すいじゃく)である獅子に出会って、国土の不安を取り除かれたことに気付いた。

神於寺縁起絵巻挿絵7

(第12段)

 天長(てんちょう)10年(833)ひじりの跡をとむらうために、弘法大師(こうぼうたいし)が当山に登(のぼ)られた。
 昼は、西の谷で金泥(こんでい)の般若経(はんにゃきょう)を書(か)かれ、夜は、東の尾に登って明星天子(みょうじょうてんし)を礼拝(らいはい)された。書写(しょしゃ)の経(きょう)を東の尾に奉納(ほうのう)されたので、このために般若(はんにゃ)の峰(みね)という。その峰の東に高く盛り上がった石があるのは、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)が天(あま)くだって般若経(はんにゃきょう)を礼拝(らいはい)したところで、帝釈寺(たいしゃくじ)という。

(第13段)

 神於山(こうのやま)のさかいに入り、山にのぞむとき、身(み)の毛がよだち、心肝(しんかん)うずくときは、現人神(あらひとがみ)のたたりを恐れて、御手洗川(みたらしがわ)によって身を清め、おはらいする。それゆえ祓川(はらえがわ)と名づけられ、また神人を河合(かわい)とよんだ。

 むかしの神於寺(こうのじ)のはじまりからのおおよそは、まずこのようなものである。

参考資料

光忍上人(こうにんしょうにん)墓

 国道170号線の白原(しらはら)バス停で下り、神於(こうの)山の方へ100メートル程行くと、直径約13メートル、高さ約2メートルの円墳がある。墳丘の南側が瓠(えぐ)られたようになっており、ここに高さ90センチ、幅・厚さ約25センチの「光忍上人御廟(ごびょう)」と陰刻された方碑が南面して建っている、碑石の両側面には、
(西)宝亀六乙卯(きのとう)年
 七月十四日入滅
(東)方今相当一千年之
 忌景(きけい)造立之
 干時安永二歳次癸巳三月十四日
と刻まれ、近世末の造立と知られる。
また、地元では、この墓を経塚と呼んでいる。

光忍上人墓の写真


※ この「岸和田のむかし話」は市制70周年を記念して平成4年11月に刊行された本をWeb化したもので、岸和田に伝わる昔話や、発刊時に創作された話を収録しています。
あくまでも昔話ですので、必ずしも史実に基づいているものではありません。

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