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風物百選 73 稲葉菅原神社

印刷用ページを表示する 2009年3月3日掲載

稲葉菅原神社の日本画日本画 根津智子

 牛滝川に架かる宮橋を渡ると菅原神社がある。「稲庭(いなば)の里」と呼ばれていた遠い昔、産土神(うぶすながみ)として春日社が祀(まつ)られていたが、天神信仰の流行によって、500年前の文明10年に、稲葉元春が稲葉城と同時に京都の北野天満宮より勧請(かんじょう)して稲葉天神として祀(まつ)った。当時、稲葉村は「くず家(や)36軒」といわれ、カヤぶきの粗末な家が点在していたのであろう。当時の京の都はよほどの遠い国と思われていたのか、村の代表3人が旅立つ朝、親族や村人と水杯をして別れを告げて出発したのだという。
 この社の奥に城跡が残っていて、堀に囲まれている。永禄年間に隣村の福田の城主との稲葉合戦があった際、民家が焼き払われた。天正8年に石山本願寺に味方して新在家村で戦い、その後の織田信長の「根来寺攻め」には、紀州に応援に行った留守に織田軍の一隊に攻められて稲葉城が落城し、大光寺・帝釈(たいしゃく)寺・六万体坊などの寺院と民家が多数焼失したが、これらの戦いに村民も駆り出されたのであろう。
 稲葉村36軒の人たちの氏神は春日社で、今も宮座講は南座(なんざ)と呼ばれ古い家系を誇りとしている。天神社を氏神とする新しい村人によって出来た宮座講は本座(ほんざ)と呼ばれている。境内に建っている寺は極楽寺(ごくらくじ)で麻福山大門坊(まぶくさんだいもんぼう)ともいう。昔の民衆が神と仏を区別せずに、その御利益にあずかろうとしていた姿である。仏教が主で神道は従であったが、明治新政府の政策で神仏分離が行われ、廃仏棄釈運動が起こったので極楽寺も廃寺となった。残っていた釣り鐘も太平洋戦争に赤タスキを掛けて参加させられた。近年、極楽寺に僧が入って百余年ぶりによみがえった。
 境内に入って森の木々を眺め、除夜に鳴らされた鐘の音を思い出しながら、稲葉の歴史と共に目まぐるしく変化した社と寺が、数百年後にはどのようになっているのかと考えると感無量だ。

文 桜井勲

資料

 いつ果てるともない大雷雨があったとき、一大音響とともに落雷し、地中深く埋没した。時の社僧が、すぐそこへ大石をふせたと伝えられる雷石という名の大石がある。社叢は、昭和49年4月、市天然記念物に指定されている。

交通

 バス停稲葉から西300メートル


 この「岸和田風物百選」は、岸和田市の市制60周年記念事業の一つとして昭和58年(1983年)に制作されました。

 そのため、内容が古くなっている部分もありますが、交通手段を除いて、原本に忠実に再現しています。これは、実際に現地を訪れた際に、この間の時の移り変わりを感じていただければとの考えからです。