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風物百選 62 久米田池

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2009年3月3日掲載

久米田池の油彩油彩 梅影靖子

 一升桝(ます)の炒(い)り豆をボリボリかじりながら、池の堤を歩くと、ひと回りで桝が空になったとか。昔、周囲は一里二丁(約4キロ)、水面は六十三町四反歩(約63ヘクタール)の広さがあった。
 水不足に悩む里の者の苦患(ぐげん)を除こうと、沙門(僧)・行基が勧進(かんじん)し、工を起こした。神亀2年(725年)の春から天平10年(738年)の秋まで、足かけ14年も辛苦してようやく成った当国(和泉)一の大池である。以来、この池の樋(ひ)を抜くたびに、八木・加守郷300町歩の水田を潤してきた。
 好鳥(こうちょう)の飛び交う寺のいらか、あでやかなスイレンが花開く池の水面(みなも)、桃花香る池の堤……ボリボリ妙り豆をかじって歩く百姓の目に、そのたたずまいは、さながら小仏国土のように映ったことだろう。
 だが、この仏国土も、中世以降しばしば戦乱の塵(ちり)に―いや、時には血潮にさえまみれた。永禄五年(1562年)三好実休が畠山政高と戦った時、この池堤が戦場となったし、根来の衆徒(しゅと)どもが雑賀の衆をかたらって和泉の野辺を犯した日にも、堤のあらくさは朱に染まった。
 しょせんこの世は娑婆(しゃば)だがひたすら安楽国土を示現しようとした沙門・行基の祈りだけは、忘れずにいたい。
 近年、桃にかわって、見事な桜が枝を広げはじめた。周囲も一部の埋め立てで、3キロ弱と、いささか小ぶりになったが、閑寂なたたずまいは今に変わらない。

文 中野光風

資料

 僧行基(ぎょうき)によって、神亀二年(725年)から、天平10年(738年)までかかって掘られる。中世、久米田寺の管理をはなれて、久米田池郷を形成し、昭和32年久米田池土地改良区を設立した。周囲約2.8キロメートルの、泉州で一番大きな池である。

交通

 バス停池尻から南200メートル


 この「岸和田風物百選」は、岸和田市の市制60周年記念事業の一つとして昭和58年(1983年)に制作されました。

 そのため、内容が古くなっている部分もありますが、交通手段を除いて、原本に忠実に再現しています。これは、実際に現地を訪れた際に、この間の時の移り変わりを感じていただければとの考えからです。


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