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風物百選 52 泉光寺と岡部氏累代の墓
油彩 丸谷嘉徳
岸和田城を南東に、細い裏街道を上町に出る。塔原岸城線を左に見て旧道を通り、国鉄阪和線の踏切を越え、再び土生町の町中の道を蛇行するように通り抜ける。家並みがはずれた所、前方に丘陵地がパッと開ける。さらに進むと孟正寺池、中島池が並ぶ堤。この道はすっかり雑草におおわれ、足もとも見失いがちだが、そのまま泉光寺へとつらなる。
三百年の昔、岡部の殿様が、「下に~、下に~」とかごに乗って、月に一度、先祖の墓参をしたのがこの道である。「おかご道「お成り道」と呼ばれているが、今はこの草道を通る人はほとんどいない。
泉光寺の門前の舟山には、300年の年輪を誇る十数本の古松が高くそびえ、道行く人びとの一刻の憩いの場になった。また遠くからの道標でもあった。が、現在は松食い虫とかで、すっかり枯れて、その面影はない。
山門をくぐって生け垣を右に折れ、岡部家菩提所の参道へつづく。クリの木で作った小門をくぐると、何万個の頭大の自然石を幾何学模様に参道を敷き詰め、石畳の透き間に生える青苔が、整然と並んだ岡部家歴代一三基の五輪塔とよく調和し、いっそうの静寂を漂わせている。
寛文元年(1661年)岸和田城主初代岡部美濃守宣勝が老いて辞任、二代行隆に封をゆずってより、この土生の地に別荘を構え、隠居屋敷としたが、遺言によりここに葬られた。また屋敷を寺となし、岡部家代々の菩提所とした。寛文8年(1668年)のことである。その後、宣勝の法号、泉光院殿鉄外可堅大居士の二字をとって、泉光寺と呼ぶようになった。
この宣勝公の墓は正面右端に位置する。無言の歴代の廟は、この菩提所を訪れる人びとに、あたかも昔を語りかけているかのようである。
文 岸田正昭
交通
バス停神須屋から北東300メートル
この「岸和田風物百選」は、岸和田市の市制60周年記念事業の一つとして昭和58年(1983年)に制作されました。
そのため、内容が古くなっている部分もありますが、交通手段を除いて、原本に忠実に再現しています。これは、実際に現地を訪れた際に、この間の時の移り変わりを感じていただければとの考えからです。