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岸和田の幕末・維新もおもしろい~大河ドラマ「八重の桜」と岸和田(その1)(岸和田再発見第9弾)

印刷用ページを表示する 2013年1月1日掲載

【くまた】 今年の大河ドラマは『八重の桜』だね。八重さんは、会津戊辰(あいづぼしん)戦争の時、自ら鉄砲を持って鶴ヶ城にこもって戦い、「幕末のジャンヌダルク」と言われているらしいね。また、同志社を創設した新島襄と結婚して岸和田にも来たことがある。山岡家とも深い交流があったと、「大正・昭和時代の岸和田」(その1)に書いてあった。その辺りのことをもっと知りたいな。幕末・維新の時代は、大河ドラマでも何回もテーマになっているね。

新島八重 新島襄肖像画

新島襄肖像画(湯浅一郎筆)と新島八重 同志社社史資料室蔵

 《図書館》 そうだね。幕末・維新は、最も人気のある時代かな。最近の大河ドラマでも『篤姫』や『竜馬伝』『新選組』など何回も取り上げられている。だけど、新島襄・八重夫妻のことはあまり知られてなかった。会津藩の「白虎隊」の悲劇は有名だけど、山本(新島)八重のことは、地元の福島でもあまり知られてなかったらしいね。でも、最近はいろんな本が出ているよ。

【くまた】 そう言えば、岸和田の人でも、竜馬や新選組のことは詳しいけど、岸和田の幕末・維新の時代のことは知らない人が多いよ。そうだ、今回は「幕末・維新の時代の岸和田」の再発見の旅にしようよ。新島襄や八重さんの生涯もたどりながらね。

《図書館》 大河ドラマを見ながら「あの頃、岸和田ではこんなことがあった」と、家庭でも想像を巡らせば話もはずむだろうね。NHKが八重さんを取り上げたのは、東日本大震災と関連して「新しい時代に一歩踏み出し、日本人の勇気を後押しすること」らしい。また、明治維新を敗者となった会津の視点から、さらに女性の視点から、そして岸和田という地域の視点も加えればおもしろいかもしれないね。

ところで、くまたくんは幕末・維新のことはよく知っているの?

【くまた】 うん、武市半平太や桂小五郎、坂本竜馬などの志士が新選組と戦って徳川幕府を倒し、新しい政府をつくる。それで、「鎖国」の時代も終わって「文明開化」の時代になり、「近代日本」に生まれかわるんだ。そうだ、西郷隆盛とか勝海舟、高杉晋作などもいた。確か吉田松陰という偉い人が岸和田に来たという話もきいたことがあるな…。

《図書館》 いろいろ名前は知ってるけど、わかってないようだね。実は、私もあまり詳しくないんだ。激動の時代だから、めまぐるしく変わってややこしいね。昨年の夏に『新島八重 おんなの戦い』(福本武久著 角川書店) や『新島八重の維新』(安藤雄一郎著 青春出版社)が発刊された。会津戦争のことやその時代背景も書かれているので、この2冊の本を中心に、幕末から維新にかけての歴史を簡単に振り返ってみようか。

ペリーの来航で日本中が騒然と…

《図書館》 1853年6月にアメリカの使節ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に現れたことは知っているよね。『新島八重 おんなの戦い』には、「時代のうねりに幕末の日本が翻弄され地殻変動をもたらすきっかけになったのは江戸湾にとどろいた数十発の砲声だった」と書いている。

その時ペリーは、浦賀奉行に修好通商を求める大統領の親書を受け取らせて帰るけど、翌年1月に再びやってきて幕府に圧力をかける。開国か攘夷(じょうい)かをめぐって意見が大きく分かれる中、幕府は3月に日米和親条約に調印してしまう。それがきっかけで、イギリス、オランダ、フランス、ロシアと、相次いで和親条約を結び、下田と箱館も開港を強いられた。その後も、貿易の開始を意味する通商条約の締結が大きな課題になって、国内が揺れ動くんだ。

【くまた】 岸和田にも外国の船が来たの?

《図書館》 日米和親条約を結んだ後、1854年の9月18日にロシア使節プチャーチンが率いる艦船ディアナ号が大坂湾(天保山沖に投錨)に入る。その様子は『岸和田市史』(第3巻)に書いているよ。結局、「大坂は外交交渉の場でない」と、10月3日に伊豆下田港へ向かい、12月には日露和親条約を締結した。その間、大坂湾岸一帯に諸藩の警備網が張り巡らされ、岸和田藩では役人30人、足軽780人、大筒7挺、鉄砲65挺を繰り出したらしい。また、「10月1日には、ロシア艦のバッテイラ(短艇)2艘が大坂湾を南に漕ぎ下り、岸和田浦北方海岸の御茶屋浜の1里ばかりのところに停泊した。…藩儒相馬九方と砲術師範吉岡準之助が藩命により小舟に乗ってロシア艦の偵察に赴いた」ことも書いてあるよ。

【くまた】 相馬九方と言えば、確か吉田松陰が岸和田に訪ねて来て激論を交わし合った人だね。

《図書館》 そのとおりだよ。相馬九方は、1851年に元藩主岡部長慎(ながちか)に招かれ、藩校「講習館」の初代館長になる。幕末の岸和田を語る上で重要な人物だ。『渦潮の譜~岸和田藩儒・相馬九方と幕末の学者群像』(梅谷卓司著 朱鷺書房) は、九方の生涯を小説風に描いている。吉田松陰は、大和の著名な儒学者・森田節斉と共に、1853年2月23日に相馬九方を訪ねて来た。その日3人は、講習館の一室で夜を徹して熱く語り合ったそうだ。ペリーが浦賀に来る4ヵ月前のことだね。これは岸和田藩にも大きな影響を与えたようだよ。

相馬九方 画像

相馬九方像(中林竹渓筆) 相馬辰雄氏蔵

【くまた】 吉田松陰は、ペリーが2回目に訪れた時、小舟を漕いでアメリカの艦船に乗り込んだけど、拒否されて幕府に捕らえられたんだね。

《図書館》 吉田松陰が密航に失敗して約半年後、新島襄は箱館からアメリカの商船に乗り込んで日本脱出を決行した。松陰は失敗したけど、幸い新島襄は船長にも見込まれ、アメリカのボストンまで連れて行ってもらった。

【くまた】 新島襄も密航したのか…。知らなかったな。ということは、もしかして吉田松陰が国外脱出に成功していたら、新島襄と同じように学校を設立したかも知れないね。山口県の萩に大学をつくって、岸和田にも講演に来て…。

《図書館》 さあ、どうかな?想像するのは自由だけどね…。話を元に戻すよ。ロシアの艦船が去って間もなく、その後の岸和田藩を騒然とさせる出来事が起こるんだ。11月16日に、後に岸和田藩最後の藩主となる岡部長職(ながもと)が産まれた。その後3か月も満たない1855年2月14日、父長発(ながゆき)がわずか満20歳で病死するんだ。残された乳飲み子を抱えた妻はまだ16歳だった。

【くまた】 16歳で母子家庭になってしまうなんて、かわいそうだなあ。でも、3ヵ月の赤ちゃんでは、家督を継いで藩主という訳にいかないよね。激動の時期だし…。

《図書館》 そこで岡部家では、長発の兄の長寛(ながひろ)を呼び戻して家督を託すことになる。2月25日に幕府の承認がおり長寛が藩主に、翌年6月には長職が次の藩主として予定されることがきまった。

【くまた】 長寛には子どもがいなかったの?男の子がいたら後継問題でややこしくならない?

《図書館》 実は、長職と同年代の男の子がいたんだ。くまたくんが言うとおり、後に家督相続争いになる。それが、当時の「佐幕」対「勤皇」両派の対立ともあいまって、複雑・深刻な様相になっていく…。

【くまた】 へー、興味があるなあ。どうなっていくの?

岡部長発像 泉光寺蔵

岡部長発像 泉光寺蔵

尊皇攘夷と公武合体

《図書館》 それは、もう少しあとで話すよ。その頃、徳川幕府でも13代将軍家定の後継争いが起こるんだ。家定は病弱で子がなかったからね。薩摩藩など有力外様大名らは一橋慶喜(水戸藩主徳川斉昭の子)を推していたが、大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、譜代大名らの支持を得て、紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ)を跡継ぎに決めた。1858年、家定が死去し、慶福は名を家茂(いえもち)と改め、14代将軍に就任した。

重要課題だった通商条約については、朝廷(天皇)の承認つまり勅許(ちょっきょ)を得た形を取ろうとしたが、朝廷は認めなかった。幕府の権威が低下し、朝廷の権威が高まる中で、諸藩は朝廷を介して幕政に影響力を行使しようと活発に動き出していた。

そこで、井伊大老は、時の孝明天皇の許しを得ることなく通商条約を締結した。そして、水戸藩など一橋派の公家・大名・藩士、そして攘夷派を厳しく処罰したんだ。いわゆる「安政の大獄」だね。この時に、吉田松陰や橋本左内も死罪にされてしまった。

反幕勢力は、「朝廷の勅許を得ないで勝手に条約に調印するとは、けしからん」と怒る。さらに攘夷の気運が高まってくる…。

1860年1月には、勝海舟を艦長とし、福沢諭吉らを乗せた咸臨丸(かんりんまる)が、太平洋を横断しアメリカに渡った。しかし同年3月、攘夷派を弾圧した井伊大老も江戸城の桜田門外で暗殺される…。

【くまた】 ちょっと聞いてもいいかな。「攘夷」ってどういう意味なの?

《図書館》 諸外国を外敵とみて「国内に入れるな、撃退してしまえ」という考えだよ。朝廷を尊ぶという考え方と結びついて、尊王攘夷を叫ぶ志士や浪人たちがどんどん京都に集まるようになるんだ。長州藩は尊王攘夷を藩論とし、朝廷内でも条約を破棄して攘夷を実行せよと唱える公家たちが台頭してくる。志士たちによる暗殺事件も多発し、京都の治安が悪化。その対象は、攘夷に反対し、幕府よりとみなされた公家やその家臣にも及ぶ…。

【くまた】 ちょっと待って。尊王攘夷を叫んだ勢力が新政府をつくったから何となく進歩的な人たちだと思っていたけど、それじゃ「鎖国を続けろ」ということかな。時代に逆行しているような気がするよ。新政府は、開国して積極的に西洋文化を取り入れるよね。幕府の方こそ、開国派や洋学者などを弾圧したことがあったよね。立場が逆のような気もするけど…。

《図書館》 それが歴史のおもしろいところだよ。『幕末の会津藩』(星亮一著 中公新書)には「考えてみれば攘夷はもともと幕府の思想だった。外国は夷狄(いてき)である。それが鎖国の論理であり、日本は神国ゆえ、何者にも犯されないという思想が日本を覆っていた。身内の水戸藩は攘夷論の牙城であり、テロにはいつも水戸藩の影があった」と書いている。外国艦隊の力を目の当たりにした幕府は「攘夷なんてできない」と思っているのに、それまでの「国是」にしばられて右往左往する。逆に、自分がまいた種によって追い詰められていくということかな。

尊王攘夷派の中でも、その後「攘夷などできない」「まず国家の統一を実現し主権を確立して、世界各国と向き合わなければ」と考える者が増えてくるんだ。

【くまた】 何となくわかったような気がする。だけど、世の中の動きがわからず、ムードに流されて「攘夷」を叫び行動し続けた人たちもいただろうね。

《図書館》 多分、いただろうね。確かに「幕府は弱腰だ。我々がやっつけてやる」と言えば、勇ましくカッコ良く聞こえるからね。外国人殺傷事件もしばしば起こったようだ。

尊王攘夷派の力が増して困った幕府は、朝廷と一体化して権威の回復を図ろうとする。いわゆる公武合体路線だね。孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)と将軍・家茂(いえもち)との縁組を進めるんだ。

【くまた】 テレビで「皇女・和宮のロイヤルウエディング」という番組をやっていたよ。和宮には婚約者がいたし、京を離れて江戸に行くのは嫌がったんだ。朝廷も初めは断ったけど、幕府側は必死に懇願したらしいね。政略結婚だと言っていたよ。

《図書館》 朝廷側は、幕府に攘夷の断行を約束させて婚姻を承諾する。そのことで朝廷の権威を示そうと言う訳だ。幕府の側も朝廷と縁組することで権威を回復したいと必死だった。家茂16歳、和宮15歳だった。まさに政略結婚だね。

会津藩が京都守護職に

さらに幕府は体制強化を図る。新しく設けた将軍後見職に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、政事総裁職に松平春嶽(まつだいらしゅんがく)をつけた。そして京都には、朝廷の監視を任務とする京都所司代に加えて、京都守護職という軍事職を新設した。そこで白羽の矢が立てられたのが会津藩なんだ。

【くまた】 やっと会津藩が出てきた。一橋慶喜って、最後の将軍になる徳川慶喜のことだね。

《図書館》 そうだよ。井伊大老によって水戸前藩主の徳川斉昭(なりあき)が永蟄居、実子である慶喜は隠居にされていた。井伊大老が殺害されたことによって復権したんだね。

【くまた】 会津藩は京都守護職の任務を引き受けたの?大変だと思うけどなあ。

《図書館》 会津藩主の松平容保(かたもり)は、当初「そんな大任は引き受けられない」と断ったらしいよ。過激化する尊王攘夷派と向き合うのは大変だし、多勢の藩兵を京都に滞在させるのは莫大な費用がかかる。藩財政も火の車だから、それどころではないということだ。でも、結局は引き受けざるを得なくなった。会津藩の宿命と言うべきかな…。

【くまた】 何か特別な事情でもあるの?

《図書館》 『新島八重の維新』には、会津藩の初代藩主、保科正之(ほしなまさゆき)が定めた家訓を紹介している。「将軍には一心を持って忠勤を励むこと。他藩の動向に関係なく、忠節を尽くさなければならない。もし将軍に二心を抱く藩主があれば、もはや自分の子孫ではない。そんな主君には、家臣たちも従う必要はない」という将軍への絶対的忠誠を求めるものだ。会津藩はその家訓を守り続けてきたんだ。くまたくんは、「江(ごう)」という人を知っているかな?

【くまた】 大河ドラマ「江」を見ていたから、知ってるよ。織田信長の姪で、茶々・初との3人姉妹。徳川2代将軍秀忠と結婚するんだ。気の強そうな女の人だったな。

《図書館》 秀忠は、徳川将軍の中で唯一「側室」を置かなかった将軍だけど、別の女性に産ませた子がいた。その男の子の名前が幸松丸(こうしょうまる)。後の保科正之なんだ。正之は、異母兄である家光の信任を得て幕政に参与し、甥に当たる4代家綱の治世では将軍補佐役も務めた。

【くまた】 へー、だから忠誠心が強いんだ。「徳川直系だということを忘れるな」ということかな。藩祖の話まで持ち出されて説得されると断りにくいね。

《図書館》 京都守護職に任命された松平容保は、1862年12月に京都に入った。当初、容保は尊攘派の公家や志士たちとの融和をめざし、孝明天皇からの信頼も厚かったらしい。しかし、尊攘派の動きが激しくなる中で強硬手段に出る。

『新島八重 おんなの戦い』には、「孝明天皇はもともと攘夷論者だったが、『天誅』と称して反対派を暗殺・脅迫するなど過激派の横暴ぶりに眉をひそめ、朝廷内でも三条実美(さねとみ)や姉小路公知(あねのこうじきんとも)ら急進派が主導権をにぎるのを快く思っていなかった。そんななかで会津藩、薩摩藩の公武合体派は、朝廷における尊攘派を一掃するクーデターをもくろみ、長州藩と長州藩に心をよせている7人の公卿をまんまと朝廷から追放してしまった」と書いている。「8月18日の政変」(1863年)と呼ばれている。

【くまた】 長州藩は怒っただろうね。

《図書館》 「薩賊会奸(さつぞくあいかん)を討つべし…」と、過激派浪士もまきこんで、幕府側に敵意を募らせ、京都はますます不穏になったらしい。そのような情勢の中、翌1864年2月に八重の兄・山本覚馬(かくま)が京都守護職勤番を命じられて京都に入る。

【くまた】 やっと八重さんに近い人が登場した。覚馬ってどんな人かな。京都でも活躍するの?

《図書館》 八重より17歳も年上なんだ。山本家は八重の祖父の代から会津藩の銃術・砲術の指南役をつとめている。兄の覚馬も砲術を学び、軍事取調役兼大砲頭取にもなった。ペリーが来た頃、江戸に行き洋学や西洋式砲術も学んだ。八重も覚馬から銃や大砲の操作法を学んでいたらしい。京都へ呼ばれたのは、守護職の軍兵を洋式銃砲による精鋭部隊に再編成しようとしたからなんだ。覚馬は、後に新島襄や八重の生涯にも大きな影響を与えることになる。覚馬が京都に来て4か月後の6月5日、新選組の隊士30数人が、池田屋に集結している尊攘倒幕派の志士や浪人を襲った。

【くまた】 「池田屋事件」だね。有名だから知っているよ。

《図書館》 そして7月には、池田屋事件の報復のために長州藩は軍兵を進め、京都は戦場となった。「禁門の変」あるいは「蛤(はまぐり)御門の変」と呼ばれている。覚馬が率いる銃砲隊も活躍し、長州藩は撃退された。そして、御所に向けて発砲したとして、朝廷は幕府に長州藩追討の勅命を下す。そこから第1次長州征伐の戦いが始まり、この時は幕府軍が勝利した。

【くまた】 そうか。この時は、会津藩こそが「官軍」であり、長州藩が「賊軍」だったんだね。

《図書館》 ところが、3年半後にはその立場が入れ替わってしまうんだ。1866年6月に幕府が第2次長州征伐に踏み切った時には、薩摩は出兵を拒否。諸藩の多くも批判的であまり協力しなかったらしい。長州藩は薩摩藩と和解していた。いわゆる「薩長同盟」だね。結局、幕府の第2次長州征伐は失敗に終わった。7月には、将軍家茂が陣中の大阪城で病死する…。

第1次長州征伐の時は、長州藩はイギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国連合艦隊との戦争で打撃を受けた直後で、保守派が政権を握っていた。しかし、その翌年には高杉晋作らが挙兵して、倒幕派の政権になり、村田蔵六(大村益次郎)が中心になって藩軍政の近代化も進めていた。この時期には、薩摩や長州も「開国・勤皇」の立場になっていたんだ。

【くまた】 幕府は開国を進めようとしていたし、朝廷とも仲良くしようとしていたよね。それじゃ、薩摩・長州と幕府の主張はあまり変わらないような気もするけど…。

《図書館》 もう「開国か攘夷か」ではなく、焦点は「どのような統一国家を築くか」に変わっている。公武合体の政権か、幕府を倒して新政府をつくるのかの争いだね。そして、どちらが朝廷の支持を得るかが重要になる。1866年12月5日に慶喜が第15代将軍になるけど、25日には公武合体論者の孝明天皇が崩御し、容保は後ろ盾を失った。そこで倒幕派が勢いを増す…。

【くまた】 それは会津藩にとっては大変だね。容保に信頼を寄せてくれていた天皇がいなくなったら、会津へ戻った方がいいと思うな。それに、和宮もかわいそうだね。まだ若いのに、夫も兄も続いて亡くなるなんて…。もう帰りたくならないかな?

《図書館》 『幕末の会津藩』(星亮一著 中公新書)には、その時、容保は京都守護職の辞意を重ねて表明したと書いている。でも結局、京都に留まり幕府と運命を共にすることになる。和宮も複雑な心境だっただろうね…。八重さんが川崎尚之助と結婚したのはそのような時期。会津藩がまだ「官軍」だった1865年頃だと言われている。

【くまた】 えっ?それじゃ新島襄とは再婚だったの?

《図書館》 そうだよ。実は、その川崎尚之助のことは謎に包まれていたんだ。それが、最近になってようやくわかってきた。『ハンサムウーマン新島八重』(鈴木由紀子著 NHK出版)には、「大河ドラマ『八重の桜』のヒロインに新島八重が決定したのを機に、にわかに八重への関心が高まり、埋もれていた史料が次々と発掘され、川崎尚之助の存在が歴史の闇のなかから浮上してきた」として、最新情報を紹介している。ドラマでどのように描かれるかも見ものだね。

大政奉還から戊辰戦争へ

さて、最後の将軍・慶喜は、就任後1年もたたず1867年10月14日に朝廷に大政奉還を申し出た。この時、慶喜は朝廷の権威のもとに自分たちも参加した新政権を考えていたらしい。しかし、薩摩藩や公家の岩倉具視らによって、同年12月9日に「王政復古の大号令」が下され、容保も守護職の任を解かれることになる。

幕府側と薩長との対立は深まり、慶喜は幕府軍を京都から大坂まで撤退させたが、翌1868年1月3日、鳥羽伏見の戊辰戦争が始まる。その時、幕府・会津・桑名討伐の勅が出された。薩長連合軍の念願の「錦の御旗」だね。幕府軍の敗色が濃くなった1月6日、慶喜は容保といっしょに大坂城を抜け出し、江戸へ帰ってしまう。総大将の逃亡で、戦いはあっけなく終わった…。

【くまた】 この時、完全に「官軍」と「賊軍」が入れ替わったんだね。だけど、戊辰戦争って「会津の戦い」のことじゃなかったの?どういう意味かな?

《図書館》 1868年から1869年にかけて、明治政府をつくった薩摩藩、長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府勢力が繰り広げた戦い(鳥羽伏見の戦い、上野戦争、会津などの奥羽越戦争、箱館戦争)を指している。戦いが始まった慶応4年(明治元年)の干支が戊辰であることから、戊辰戦争って呼ばれているんだ。

鳥羽伏見の戦いには、八重さんの弟・三郎も参戦していた。銃弾を浴び江戸へ戻ったが亡くなったらしい。兄の覚馬は京都に留まっていたが、薩摩藩に捕われてしまった。

岸和田藩のお家騒動

【くまた】 八重さんの一家は、悲惨なことになってしまったね。ところで、その時期の岸和田藩はどう対応していたの?譜代大名だから、幕府側でがんばったのかな?藩主の後継争いのことも気になるなあ。

《図書館》 『評伝 岡部長職』(小川原正道著 慶應義塾大学出版会)には、「岸和田藩はほぼ一貫して『消極的幕府派』ともいうべき態度を取った」と書いている。多くの藩と同様、「幕府の命令には従うけれども、積極的に幕末政局には関与しない」という「日和見」だったらしい。

長発の死後、家督を継いだ長寛には、長職と同年代の実子がいたことは話したね。名前は三郎長美(ながよし)、その母は長寛の側室で染浦(そめうら)という人だ。このお母さんが「家督を我が子に継がせたい」と願っていた。長職を毒殺しようという動きもあったらしいよ。長職の母・鍾子(まさこ)の気苦労は大変なもので、子どもを守るために自分で炊事をして、疑わしいものはすべて捨てたので、幼少の長職は2日もご飯を食べないことがあったらしいよ。

【くまた】 母の愛をめぐる壮絶な争いだね。これだけでもドラマになりそうだな。

《図書館》 そこへ、「勤皇」と「佐幕」の争いがからんで複雑になる。『評伝 岡部長職』には、「あくまで旧幕府を支えていくのか、薩長が主導する勤皇派につくのか。家督相続において長職を推していた降屋宗兵衛(ふるやそうべえ)ら(義党派と呼ばれた)は佐幕を、一方、重臣岡部結城(ゆうき)や相馬九方は長美を支持、政治的には勤皇を主張した」と書いている。

岸和田藩は、幕府の信頼も厚かったようだね。長寛は、大政奉還後も徳川家に対する忠誠を示そうとしていたらしい。しかし、藩内では勤皇派の勢いが強まる。

1867年12月9日の王政復古の大号令の後、大坂に兵を結集させていた旧幕府側は、長寛にも京都への派兵を求めたが、朝廷も諸侯に上京を求めた。結局、長寛が江戸にいたまま、名代として国家老の岡部結城が上京し、勤皇の意志を示したと言われている。

【くまた】 大坂で警備に当たっていた藩士は大変だね。かなり動揺しただろうね。

《図書館》 翌年、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗退するときも、岸和田藩兵は幕府の命で堺の警護に当たっていたらしいから戸惑っただろうね。そして、1月12日には新政府側に協力することを藩の方針として決定した。しかし、佐幕派は納得せず、勤皇派批判を展開する。岡部結城の暗殺まで企てたらしい。そこで、藩主・長寛が急遽江戸から帰国することになる。

長寛は、降屋側の意見を容れて結城の罷免を決断した。一方、結城側はこれに対して、新政府に直接訴える手段に出た。相馬九方がひそかに京都へ脱出し、降屋らを新政府の刑法官に密告したんだ。これに対して降屋側も結城の非を訴え、一時は両者とも身柄を拘束された。

岡部長職 山岡家蔵 画像

岡部長職 山岡家蔵

【くまた】 へー、長寛は自分の子(長実)を支持する勤皇派でなく、長職を推す佐幕派の意見を取り入れたんだね。でも、新政府に訴えたら、きっと勤皇派が勝つことになるよね。

《図書館》 ところが、逆なんだ。新政府は義党派の主張に基づき、結城や九方らを拘引した。これによって、藩内では長職を推す義党派が復権するんだ。

【くまた】 結局、義党派(佐幕派)が勝ったのか。何だか複雑だなあ。

《図書館》 家督争いが決着した後、藩主・長寛は1868年9月に隠居を申請し、太政官がこれを許可したのは、1868年(明治元年)の12月28日だった。その翌日、長職は家督を相続した。その頃には、すでに会津戦争も会津藩の降伏により終結していた。

【くまた】 あれっ、いつの間に終わったの?会津戦争のことを聞きたかったのに…。

《図書館》 じゃあ、話を戻すね。鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍は江戸城総攻撃に向けて動き出していた。会津藩も討伐の対象になっていた。江戸に戻った慶喜はひたすら恭順につとめ、朝廷への敵意がないことを示した。会津の藩士も江戸を去り会津へ帰国するよう命じられた。容保は2月4日には隠居して藩主の座を養子の喜徳(よしのり)に譲り、16日には会津へ向かった。江戸城総攻撃は、勝海舟と西郷隆盛の会談によって中止されたが、ここから会津藩の悲劇が始まり、八重さんの波乱万丈の生涯が展開されることになる…。

【くまた】 いよいよだね。会津藩も岸和田藩も、どんな展開が待っているのか楽しみだな。

《図書館》 でも、もう時間がないので、今回はここまでにしておこう。大河ドラマは1年間続くから、ゆっくり勉強したらどうかな。『新島八重 おんなの戦い』の著者・福本武久氏が以前に書いた小説も、改めて『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説・新島八重 新島襄とその妻』として、新潮社が文庫本で発行している。『明治の兄妹 新島八重と山本覚馬』(早乙女貢著 新人物往来社)という本も発行された。星亮一氏は、『幕末の会津藩』だけでなく、『奥羽越列藩同盟』『会津落城』(いずれも中公新書)も書いている。手っ取り早く八重さんの生涯を知りたい人には、『日本の元気印・新島八重』(本井康博著 思文閣出版)の巻末の「はじめての八重(つぼみ編)」がお薦めだ。10頁にまとめてあるから、すぐに読めるよ。

【くまた】 それらの本にも、新島襄の岸和田でのキリスト教伝道のことは書いてないだろ。もっと聞きたかったのに残念だなあ。

《図書館》 新島襄の岸和田での伝道のことは、『新島襄と山岡家の人々』(岸和田市立郷土資料館)をじっくり読んでほしいな。『評伝 岡部長職』にも書いてあるよ。また、『渦潮の譜』には、相馬九方だけでなく、幕末の多くの学者も登場するからおもしろいよ。

【くまた】 幕末には偉い人がたくさんいたんだね。そして、若い人たちが歴史の表舞台で活躍する。すごいなあ。吉田松陰だって若いよね。岸和田にもそんな人がいたのかな…。

土屋弘(鳳洲) 市制記念岸和田要覧 画像

土屋 弘(鳳洲) 『市制記念岸和田要覧』

《図書館》 吉田松陰ほどじゃないけど、岸和田にも土屋弘という人がいた。少し長くなるけど『評伝 岡部長職』から紹介するよ。「江戸で生まれた長職はそのまま藩邸で育ち、9歳で初めて藩地岸和田に入国。藩校『講習館』で土屋弘の教えを受けることになった。幼少時から神童として知られた土屋は当時23歳、藩校の『若先生』として知られており、後には軍事奉行として幕末の混乱期を支え、維新後は各県の師範学校の校長や東洋大学教授、学習院教授などを務める人物である。この頃、土屋の視線は海外に向けられていた。吉田松陰が岸和田藩儒相馬九方のもとを訪ね、徹夜の議論を交わしたとき、13歳の土屋少年は同席して、松陰が海外事情や海防論を熱っぽく論じるのに、耳を傾けたことがある。…そして、文久3(1863)年、土屋は、かつて松陰がそうしたように、自ら異国へと飛び出すことを決意する。…」

土屋は、上海に渡って文明開化の実態を見るため、九方の同意を得て長崎に向かった。でも、長州藩が欧米各国の艦船に砲撃を加え、やがて米英仏蘭の連合艦隊に報復攻撃を受けるという事態に直面して九州に渡ることができなかった。そこで土屋は、当時倉敷で塾を開いていた儒学者・森田節斎のもとで学んで帰郷。岸和田藩校の講師兼侍講として長職の教育に当たったんだ。

【くまた】 なるほど。長職が後に洋学を志しアメリカに留学したのも、土屋弘が海外への夢を語った影響かもしれないね。幼い頃からすばらしい先生にめぐり合ったんだね。

《図書館》 そして『評伝 岡部長職』の著者・小川原正道もすごい人だよ。同書の「あとがき」で、長職にとって「もっとも輝いていた時代はといえば、廃藩置県によって決然として藩地を離れ、東京で私塾の門を叩き、やがて米英での留学に旅立ち、帰国後は新時代のエリートとして華々しくデビューしていく、10代後半から20代までの青春時代であろう。…筆者はその同じ20代のうちに、彼の人生を描いておきたいと考えた」と書いている。

【くまた】 この本は20代で書き上げたのか…。すごいなあ。まだ若いんだね。一度会ってみたいな。でも、この話の続きはどうなるの?新島襄・八重夫妻と岸和田の山岡家とのつながりや岡部長職のその後の人生、明治時代の岸和田の話も聞きたいな。

《図書館》 それじゃ、次回もこの続きをいっしょに調べてみようか。くまたくんも協力してね。

※     写真は、『新島襄と山岡家の人々』『岡部長職・長景二代』(岸和田市立郷土資料館)、『岸和田城と岡部家』(岸和田市教育委員会)に掲載されているものを転載させていただきました。なお、これらの冊子は、図書館(本館)でも購入できます。希望される方は、2階カウンターにご相談ください。