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明治時代から大正へ「八重の桜」から「カーネーション」の時代へ(その3)(岸和田再発見第13弾)

印刷用ページを表示する 2013年10月6日掲載

【くまた】 「八重の桜」では、ようやく新島襄が本格的に出演するようになったね。

《図書館》 襄は同志社英学校そして同志社女学校を創立して学生の指導にあたると共に、全国各地への伝道活動も進めた。『新島八重の維新』(安藤優一郎著 青春出版社)には、「全国をまわったのは伝道だけが目的ではない。襄は英学校や女学校にとどまらず、大学の設置を目指していた。法学・政治学・経済学・歴史学・文学などの講座が置かれた大学を設置すれば、その講座が魅力となって優秀な学生が入学を希望するようになる。入学後に、彼らをキリスト教に導けばよいという構想を持っていたのだ」と書いている。襄は明治16年(1883) から大学設立のために、募金活動を幅広く展開した。勝海舟も襄の募金活動をバックアップしたらしいよ。

【くまた】 その様子はドラマでじっくり見るよ。どのように描かれるか楽しみだな。

《図書館》 しかし、一連の活動による過労のためか、次第に病気がちになる。『新島八重 おんなの戦い』(福本武久著 角川書店)では、「八重は襄との結婚生活14年のうち3分の1以上を、襄の健康を気遣うことにあけくれている」と、その様子を書いている。

明治17年(1884)の欧米旅行のあとから健康状態がさらに厳しくなり、特に病状が悪化したのは明治20年(1887)頃からのようだ。それでも襄は活動を続ける。「病状が一進一退をくりかえすなか、八重は大学設立の募金運動に奔走する襄につきそって、北海道、鎌倉、伊香保、神戸にゆき、献身的に看病していた。」

でも、志半ばで明治23年(1890)1月に襄は永眠する…。図書館には新島襄没後最初の追悼文集である『新嶋先生就眠始末』の復刻版もあるよ。原本は、1995年8月に山岡家の史料整理をしていた時に発見し、「山岡家文書刊行保存会」が翌1996年に復刻版として発行した。新島全集にも紹介されていない貴重な冊子らしいよ。

新嶋先生就眠始末記 復刻版 画像

【くまた】 へー、山岡家にはいろんな史料があるんだね。 

どんなことが書いてあるの?

《図書館》 病状・葬儀の模様、襄の略伝、逝去に関する文章・演説類などが掲載されている。復刻版には「解説・解題」や、襄の永眠を知らせた山岡尹方(ただかた)宛てのはがきも掲載されているから、一度手に取ってみるといいよ。

【くまた】 確か、八重さんは、新島襄がなくなってから、日清・日露戦争で篤志(とくし)看護婦として活躍し「日本のナイチンゲール」と言われたらしいね。テレビで紹介していたよ。

《図書館》 その話に入る前に、岸和田最後の藩主の「その後」から始めようか。前回の「再発見」では久々に岡部長職(ながもと)が登場したのに、時間切れで終わったからね。

【くまた】 そうだね。岡部長職は外交官になって条約改正交渉で活躍したという話だったね。でも、条約改正交渉というのもよくわからないから、その辺りから話してよ。

条約改正と岡部長職

《図書館》 くまた君は、幕末に徳川幕府が西欧各国と条約を結んだことを覚えているかな。その内容は、日本は関税を自主的に決定することができない、外国人が犯罪をしても日本人は裁けない、外国領事が裁判を行うという治外法権の条約だった。当然、その不平等条約を改正することが大きな課題になった。明治4年の岩倉使節団も、本来の目的は条約改正だったんだ。

岩倉使節団は足かけ1年10カ月もの間、米欧12ヵ国を回った。『明治維新と西洋文明』(田中彰著 岩波新書)には、その報告書『特命全権大使米欧回覧実記』から「岩倉使節団は何を見たか」を検討し、その現代的な意義を論じている。

おもしろい話が『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松~日本初の女子留学生』(中央公論社)に書いてあるから、少し紹介するよ。「日本側は、今までアメリカ各地で受けた熱狂的で友好的な歓迎に、この分なら交渉もスムーズに運び、調印にまで持っていくことが出来るのではと楽観的な気持ちになっていた。しかし、思いもかけず、アメリカ側から天皇の全権委任状の提出を求められ、あわてて伊藤博文と大久保利通とが日本へ取りに帰るという醜態を演じ、基礎的な国際法の知識のなさを暴露した。…結局4ヵ月近くも費やしたにもかかわらず、話合いのつかないままアメリカ側から交渉打ち切りを要請されて、使節団一行は涙を飲んで次の訪問地イギリスへ向かうことになった」ということだ。

【くまた】 何となく、誕生間もない新政府の状況が眼に浮かぶなあ。

《図書館》 アメリカに留学していた岡部長職は、明治15年(1882)にイギリスに行きケンブリッジ大学で学び、翌16年に帰国した。その後、19年(1886)に公使館参事官に任命され、ロンドンの英国公使館へ赴任。外交官としての道を歩むことになる。大隈重信外相の指示を受けながら英国との交渉にあたっていたが、大隈外相は爆弾テロにおそわれて右足切断の重傷を負う。事件の衝撃で黒田清隆首相が辞任。後任の外務大臣には青木周蔵が就任した。

その青木外務大臣のもとで、明治22年(1889)に長職は外務官僚のトップ、外務次官になった。『評伝 岡部長職』(小川原正道著 慶應義塾大学出版会)には、「参事官から次官、というのは今日の官僚制度ではありえない人事だが、当時でも意外・異例の抜擢であった。新聞紙上で次期外務次官と目されていたのは、駐米公使の陸奥宗光や浅田徳則で、…長職の名は誰も予想していない」と書いている。条約交渉の内容等も詳しく紹介されているよ。

しかし、明治24年(1891)、「ロシア皇太子ニコライが滋賀県の大津で警備の巡査津田三蔵におそわれて負傷するという一大不祥事、大津事件が発生、青木外相は引責辞任を余儀なくされる。青木条約改正交渉もまた、テロによって挫折したのである」ということだ。

【くまた】 まさに血みどろだなあ。こんなにテロが続発するなんて…。「開国」で西洋文明を受け入れて近代化を進めたと思っていたのに、「攘夷運動」がまだ継続しているみたいだなあ。

岡部長職と「大津事件」

《図書館》 すでにニコライ皇太子が襲われる前兆となる事件があったので、ロシア駐日公使のシェービッチは皇太子の身の安全の保障を日本側に求め、青木外相もこれを保証していた。にもかかわらず、よりによって警備の巡査が斬りつけたことに日本政府も震撼した。明治天皇も事件翌日には自ら皇太子を見舞い、帰国する皇太子には神戸の船上まで同行したらしい。ロシア側の反応は厳しかったが、次第に落ち着いていった。「ただ、シェービッチは津田三蔵の処刑にはこだわっていた。ロシア皇帝は賠償を求めなかったが、青木も犯人を死刑に処さなければすまないだろうと考えており、…シェービッチと会談した青木は、伊藤博文に対して『犯人処罰ハ死刑ニアラサレハ到底彼ノ承服スル所ニアラス』との観測を伝えていた」(『評伝 岡部長職』)ようだよ。

【くまた】 大変な事件だったんだね。それで、どうなったの?

《図書館》 日本政府は死刑を求めたが、大審院は津田三蔵を「謀略未遂罪」で「無期徒刑(懲役刑のこと)」に処する判決を下した。ロシア側の意を受けて死刑を期待していた外務省にとっては、痛い知らせだ。そして青木外相は辞表を提出し、すべては長職に委任された。長職は、ロシアに対して「死刑にならなかった」ことを伝える損な役回りを引き受けざるを得なくなった。そして結局は、長職も更迭されて無任所の特命全権公使になったんだ。

条約改正交渉は、第2次伊藤博文内閣の陸奥宗光外相の時、明治27年に日英改正条約が締結されて、ついに治外法権が撤廃されることになった。

貴族院議員、東京府知事、そして司法大臣に

【くまた】 外交官としての人生は不運の連続だね。ぼくだったらヤル気をなくしてしまうよ。

《図書館》 外交官の職務への関心は失ってしまったようだけど、しばらくは貴族院議員として活動した。明治23年(1890)に初めての衆議院選挙が行われたことは話したよね。その年の11月に第1回帝国議会が開かれた。長職はその時から貴族院議員になっている。

【くまた】 あれっ、その時はまだ外務次官じゃなかったかな。

《図書館》 当時は、帝国議会議員と他の官吏との兼任は、一部を除いて許されていたらしい。「貴族院議員は、皇族議員と有爵議員、そして勅任議員に分かれており、有爵議員には終身の公爵・侯爵議員と、互選選挙で選出される伯爵・子爵・男爵議員とがあった。」(『評伝 岡部長職』)その「子爵会」の選挙で選ばれたんだ。留学経験や外務次官としての実績や仕事ぶりなどが評価されたんだろうね。

明治30年(1897)10月から約8か月の間、長職は貴族院議員のかたわら東京府知事も兼任している。そして、明治41年(1908)の第2次桂内閣の時には司法大臣に就任した。

岡部長職 画像

岡部長職(41歳頃)「岡部長職・長景二代」(岸和田市郷土資料館より)

篤志看護婦として活躍した八重

【くまた】 貴族院の制度は何だかややこしいな。じゃあ、そろそろ「八重の桜」の話に戻してよ。

《図書館》 八重は、襄の死から3ヵ月後には日本赤十字社の正社員になり、日清戦争では広島陸軍予備病院で4ヵ月、日露戦争では大阪予備病院で2ヵ月間、戦地で負傷して後送されてきた傷病兵の看護にあたっている。襄の生前から、これからの自分の進むべき道として胸に秘めていたのだろうね。『新島八重の維新』には、「日清・日露戦争の功績に対して、29(1896)年12月に勲7等宝冠章、39(1906)年4月には勲6等宝冠章が授与された。宝冠章とは、21年に制定された勲章である。その対象は女性だが、皇族の女性を除き、八重は民間の女性としては最初の受賞者の栄誉を担う」と書いている。

【くまた】 日本赤十字社って、どんな組織なのかな。いつ頃できたの?

《図書館》 赤十字とは、戦時における傷病者や捕虜の保護を目的とする国際協力組織だ。明治10年(1877)の西南戦争の時、佐野常民(つねたみ)らが傷病者救護組織である「博愛社」を立ち上げた。敵味方の区別なく傷病者を救護しようとしたんだ。翌年、日本政府もジュネーブ条約に加入したので、博愛社は日本赤十字社と名を改め、国際赤十字の一員として公認された。

八重は「日赤」の発足間もない頃に正社員となった。日本赤十字社篤志(とくし)看護婦人会にも所属した。大山捨松は「日赤篤志看護婦人会」の発起人に名をつらねているよ。

『新島八重 おんなの戦い』には「大山捨松もアメリカで学んだ看護学の知識を活かして、東京で救護活動の指揮をとった。彼女は篤志看護婦人会の理事として、看護法や衛生学の普及につとめていた。日露戦争がはじまると、弁当と制服をおさめた風呂敷包みをかかえて毎日、病院に通った。…戊辰戦争で籠城戦をともに戦った八重と捨松は、関西と関東で、奇しくもボランティア活動のパイオニアとして奔走していたということになる。…2人はここでも時代の最先端をゆく女性だったのである」と書いている。

【くまた】 鶴ヶ城での悲惨な状況も思い浮かべながら看病したんだろうね。

日清・日露戦争と女性たち

《図書館》 日露戦争の頃には、女性も軍事援護活動に参加した。『日本女性史』(脇田晴子・林玲子・永原和子編 吉川弘文館)では「軍事援護活動の中心となったのは愛国婦人会であった。日露戦争を予想して1901(明治34)年につくられた愛国婦人会は、これまでの婦人会とちがって軍事援助を第1の目的とし内務省・陸軍省の後援する半官的な全国組織であった」と書いている。その創立者は奥村五百子(いおこ)。「幕末に生まれた五百子は勤皇派に加わり、男装して活動したこともあるという。」(『はじめて出会う女性史』加美芳子著 はるか書房)

岸和田でも同じ年に「愛国婦人会泉南郡幹事部岸和田町委員部」が発足した。『市民がつづった女性史 岸和田の女たち』(ドメス出版)では、愛国婦人会で活躍した岸和田(本町)の女性、土肥津起(どいつぎ)について、「日清戦争時、周囲の女性に呼びかけて出征兵士の家族の慰問と慰問袋募集を行った。…日露戦争では息子を出征させ、軍事援護活動に幹事として活躍した。その功績により有功章を受ける」と紹介している。

【くまた】 女性も含めて好戦的なムードが高まっていたんだね。

《図書館》 そうだね。でも八重は、戦いで手や足を失った兵士や、脳を討たれて精神に異常をきたした兵士の姿を見るにつけ、身を切られるような思いで病室を出れば涙が止まらなかったらしいよ。『新島八重の維新』では、「八重は日清・日露戦争自体は肯定したものの、その悲惨さに眼を背けることはなかった。同じ人間としての悲惨さに心を痛める」と書いている。

【くまた】 戦争って悲惨だからね。与謝野晶子が、戦地に送られた弟のことを心配して「君死にたまふことなかれ」という詩を書いたのは、日露戦争の時だったと思うけど…。

《図書館》 良く知っているね。『明星』に発表された「あゝをとうとよ君を泣く /君死にたまふことなかれ/末に生まれし君なれば /親のなさけはまさりしも /親は刃(やいば)をにぎらせて/人を殺せとをしえしや/人を殺して死ねよとて /二十四までをそだてしや…」という詩だね。弟に「無事に帰ってほしい」と願うのは当然の思いだけど、当時、このような詩を書くのは勇気がいったと思うよ。

与謝野晶子は、明治11年(1878)、大阪・堺の名の知れた和菓子屋の娘として生まれた。『与謝野晶子を学ぶ人のために』(上田博・富村俊三編 世界思想社)は、さまざまな面から晶子を紹介している。

【くまた】 晶子が生まれた当時、岸和田は堺県に属していたから「同県人?」と言えるかも…。もう少し話してよ。

《図書館》 NHK取材班・編の『その時歴史が動いた(19)』の中で、簡潔にわかりやすく紹介されているから、「君死にたまふことなかれ」の部分を紹介するよ。

発表されるやいなや、晶子の詩は国賊の詩だとして激しく非難された。「まさに国家が一丸となって戦いに臨むべきこの時に、戦場で死ぬな、人殺しになるな、とは乱臣賊子(らんしんぞくし)、罪人の言である」

身の危険さえともなう批判に対し、晶子は気丈にもすぐに反論した。「女というものは誰でも戦争が嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠臣愛国や教育勅語を持ちだして論じることの流行こそ危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。まことの心を歌わぬ歌に、なんの値打ちがあるでしょう。私は長い年月を経ても変わらぬ、真実の感情を詠いたいと存じます」(「ひらきぶみ」より)

「ひらきぶみ」は、当時歌人の大家とされた大町桂月からの批判への反論として、夫への手紙という形式で書かれたものだ。慎重に「芸術論の枠内での反論」にとどめている。

【くまた】 確かに、今では大町桂月よりも与謝野晶子の方が有名だ。「真実の感情を詠ったから歴史に残った」と言えるなあ。じゃあ、キリスト教の人たちは日清・日露戦争をどう見てたの?

日露戦争とキリスト教の人々

《図書館》 『評伝 岡部長職』を書いた小川原正道氏は、『明治の政治家と信仰 クリスチャン民権家の肖像』(吉川弘文館)という本も出版している。明治の5人の政治家をとりあげてキリスト教と政治思想との関わりを考えた本だ。そのエピローグでは「日清戦争、日露戦争、韓国併合、と次々にアジアへと勢力を拡大していく大日本帝国への批判的視座はみられず、むしろ、これを機会としたアジア圏への布教・文明化・同化、そして何より、日本の独立が重要とされた。これを彼らの限界といえばそのとおりであろう」と書いている。

【くまた】 へー、小川原先生はこんな本も書いているんだ…。

《図書館》 また、『近代日本のキリスト教者研究』(萩原俊彦著 耕文社)には「日露戦争を目前に控えた頃ともなると、日本国民の多数は、排外主義者の有頂天なる煽動もあってか、『挙国一致』『対露強硬』の名のもとに、好戦の気風に呑み込まれていった。…しかもその傾向は、宗教界に於いても例外ではなかった。キリスト教界にも好戦の気風が支配的となり、国策に追随・迎合的な態度をとるもの、とらざるを得なかったものが、あらわれてきた」と書いている。当時、ほとんどの国民は好戦的な気分に浸っていたようだね。

でも、「こうした空気のキリスト教界に於いても内村鑑三・柏木義円などのキリスト者は、良心と理性に従い、正義と人道の理想に燃え、非戦の訴えをなした」らしい。

この本には、萩原俊彦氏の郷里である群馬県での地域社会とキリスト教の研究成果が収められている。群馬県の安中は新島襄の郷里だよ。

【くまた】 新島襄の故郷だったら当然伝道活動に力を入れただろうね。

《図書館》 新島襄は帰国した2、3日後に安中(あんなか)に到着。同地の両親のもとに約3週間滞在し、この期間にキリスト教の伝道活動を開始した。同書には「時には100名を越える聴衆が、彼の意見を聞くために集まってきた。その聴衆のなかに湯浅治郎や千木良昌庵がいたことはよく知られている。それにこの聴衆のうち、約30名が旧安中藩士族であった。…まさに新島襄は士族を中心に福音の種をまいたと言えるだろう」と書かれている。

【くまた】 新島襄や八重さんが蒔いた種がどのように広がったのか、もっと岸和田でも研究が進めばおもしろいのにね。

《図書館》 そして、同書では自由民権運動や非戦・平和、廃娼運動等で活躍した全国的には知られていない人々を紹介している。「群馬県前橋市に生き、日清戦後社会のありかたに厳しい批判を加え、かつ、日露戦争に際しては非戦の訴えをなした深沢利重」もその一人だ。

彼は「製糸工場の経営と(キリスト教)正教会での信仰生活との一体的な展開を中核に、新聞・雑誌への意見発表や、世俗の権威にとらわれぬリベラルな発想をもつ人々との交流を通じて、自由闊達な諸活動を」行ったようだ。

   明治37年(1904)12月には『日露時局論』を発表した。彼は「日本に於て終局の勝利を制するも、日本は唯其人命と国費を損するのみ」と主張した。ロシアは一時の敗北を喫しても、国力を回復すればその怨恨を晴らそうとする。その場合、国防費は極度にかさみ、所詮は日本の国力の衰退を招くだけだ、ということだね。

そして、「我国民の一大謬見の原因は、戦争に強きを以て、国家の富強、文明の標準なるが如く考ふるにあり、是れ最も甚しき謬見なり、是れ最も甚しき野蛮の遺習なり」と訴えている。

【くまた】 確かにその通りだね。本当に強い豊かな国・文明国というのは「戦争に強いかどうか」だけを基準に考えていてはだめだからね。

《図書館》 萩原氏は、「彼が義戦論を批判したのは、宗教界、それもとくにキリスト教界の時局迎合的な動きがあったためである」と書いている。例えば、前橋正教会は戦勝祈祷を行うなど好戦的な態度をとっていた。一方、トルストイは『日露戦争論』を発表し、たとえロシアが日本に敗れ国家が消滅しようとも、速急に停戦し、国土の荒廃や殺戮を防ぐべきだと訴えていた。それに対する、日本人キリスト者の心からなる回答として『日露時局論』を理解すべきかもしれないと述べている。

廃娼運動に取り組んだ人たち

【くまた】 廃娼運動はどうだったのかな。「大正・昭和時代の岸和田」(「岸和田再発見」第4弾)の中で、山岡春も基督教婦人矯風会で活発に取り組んだと書いてあったけど…。

《図書館》 萩原氏は廃娼運動について、「女性解放運動としてスタートしたものではない。…まさに、男性を誘惑し、『遊徒』に転落させる醜業婦を排除する運動として、廃娼の闘いは取り組まれたのであり、娼妓を人間として解放しようとの意図は、ほとんど見出せなかった」と書いているよ。

【くまた】 廃娼運動は、風紀を乱さないため、男性を堕落させないための運動として始められたということだね。そう言えば、女子教育は「賢い子供を育てるため」というのが目的だった…。女性の役割を強調しても、女性の人権というのは全く無視されているね。

《図書館》 そうだね。くまたくんの言う通りだと思うよ。『はじめて出会う女性史』を見ると、「日本の廃娼運動はほとんどキリスト教徒の手で行われたといっていい。日本でもっとも早く廃娼運動がおこったのは群馬である。ここには湯浅治郎という人物がいた。彼はクリスチャンで県会議員、妻の初子とともに古くから売買春反対の運動をやっていた。湯浅の提案で1882(明治15)年、群馬県議会は廃娼を決議した」と書いている。ところが遊郭の経営者たちは猛反対。知事はワイロや圧力に屈して延期されてしまう。県議会は知事の不信任を決議し、県民も起ちあがる。そして「知事はとうとう退陣に追い込まれ、新知事によって4年後の実施が決定された。こうして群馬は廃娼先進県になったのである。1891(明治24)年、決議から9年もたっていた。」

【くまた】 群馬県は廃娼運動の先進県だったのか…。湯浅治郎もすごい人だね。

《図書館》 でも萩原氏は、廃娼運動は「キリスト者が始めた運動ではない…キリスト者が参加する以前から闘いは進められていた。ゆえに、新島襄や湯浅治郎を運動の創始者とみるのはよくない」と、真下嘉十郎や斎藤寿雄らの名前を挙げている。これも地域研究のおもしろいところだ。

さて、明治39年(1906)になると、群馬県の高崎市議会で軍備拡張に伴う軍のための関連事業として、県知事に「遊郭設置建議書」を提出することが決定されるという事態が起こる。それを阻止する論陣を張ったのが、明治30年(1897)に安中教会牧師に就任した柏木義円だ。彼は「公娼と人道…同法の節操を切売りするを公認するは、黒人を奴隷にするよりも、遥に大なる人間の侮辱に非ずや、此れ婦人を蔑視して人道を蹂躙するものに非ずや…」と、明確に女性解放の立場からの批判を展開している。

また、「兵士のけい慾の為に社会の風紀を犠牲にせんとするは怪しからん事である。(略)当局者は兵士を単に殺人の器械と見て道義的人類と見ないのであるか。兵営と遊郭などと云う醜聞なる問題の出るのは所謂日本武士道の不面目で帝国陸軍の一大汚点ではないか」と訴えた。そして、公娼反対の運動が広がり、遊郭の設置を阻止した。(『近代日本のキリスト者研究』)

【くまた】 軍拡が遊郭の拡張につながることを、心配し警戒していたんだね。でも、遊郭設置反対の論拠に武士道を持ち出すとは、いかにも明治の人らしいなあ。

《図書館》 「日本基督教婦人矯風会」は、明治19年(1886)に女性クリスチャンによって組織された「東京婦人矯風会」が全国規模に広がる中、1893年に改名・誕生した。アメリカの婦人矯風会などは禁酒運動を中心に活動していたが、日本で婦人矯風会が取組んだのは、より根本的な女性をめぐる問題だった。一夫一婦制の確立や、女性の政治活動を全面的に禁止する「集会及政社法」に反対する運動も行っている。「婦人矯風会の活動はもちろんそれだけではなかった。精力的に長期にわたって課題としたのはいうまでもなく廃娼運動である。」(『日本女性史』)

【くまた】 でも、このように「女性解放」を唱える人たちが出てきても、「女性の政治的自由」はさらに制限され、ますます無権利になってきたんじゃなかったかな。

山の動く日来る~新しい女性たちの登場

《図書館》 くまたくんはするどいね。「女性解放」のためには、女性自身が自覚を高め、もっと声をあげなければならない。その点で、与謝野晶子は女性に対してもきびしかった。『与謝野晶子を学ぶ人のために』では「社会評論家としての晶子」も紹介しているよ。

「わたしは以前から女子の解放を求めている。一面には男子の専制から、一面には女子自身の依頼主義と寄生生活に甘んじる卑屈な因習的精神とから、合わせて逸出しなければならないと思っている」など、晶子の言葉には「一切の甘えを許さない響き」を感じさせる。

なにしろ、11人の子どもを養育する中、寸暇を惜しんで知的向上への努力を重ねた女性だからね。5人目の子供を出産した直後に書いた『産屋物語』では、次のように主張している。

「国家が大切だの、学問がどうの、戦争がどうのと申しましても、女が人間を生むというこの大役に優るものはなかろうと存じます。子を生むからけがらわしい、戦に出るから尊いというような偏頗(へんぱ)な考えを男も女も持たぬように致したいと存じます。」

【くまた】 何だか「こわいおばさん」みたいだけど、かっこいいね。

《図書館》 もう一度『その時歴史が動いた(19)』の文章を紹介しよう。

明治44年6月、女性のための雑誌発刊を思い立った平塚らいてうは、創刊号の原稿を依頼するために晶子のもとを訪れた。…しかし、らいてうの依頼に対し、晶子は即答を控えてこう答えている。「毎月各地から送られてくる歌の原稿のなかでも、これは良いと思うのはたいていは男の作です。女はだめです。女はとうてい男に及ばない」……しかし、寛の渡欧準備の慌しさのなか、晶子はらいてうからの原稿依頼について考え続けていた。

―妻としてまた母として、今日も多くの女性が私と同じような苦しみのなかに生きているだろう。その苦しみに希望はあるのだろうか。たとえ未熟であろうと、新しい生き方を心から望む若い女性に未来への希望を呼び掛ける時ではないか。

明治44年9月1日、女性だけでつくられた雑誌『青鞜』が創刊された。晶子が寄せた「山の動く日」は『青鞜』の巻頭を飾ったのである。

山の動く日来(きた)る /かく云えども人われを信ぜじ。 /山は姑(しばら)く眠りしのみ。 /その昔に於て /山は皆火に燃えて動きしものを。/されど、そは信ぜずともよし。 /人よ、ああ、唯これを信ぜよ。 /すべて眠りし女(おなご) /今ぞ目覚めて動くなる。

らいてうは、晶子の詩を受け、「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」と創刊の辞に書いた。そして『青鞜』に集まった女性たちは、その後の女性運動の先頭に立って苦難の道を切り開いていくことになる…。

【くまた】 これでやっと大正時代、「カーネーション」の時代につながった。小篠綾子さんや3人の娘たちは、このような先人の女性たちが切り開いてきた歴史の上で、「他によって生き、他によって輝く月」ではなく、自らの力で光り輝いて生き抜いてきたんだね。

《図書館》 この時期は、岸和田にとっても新たな門出が始まる。『岸和田市史』第4巻には「明治45年(1912)1月1日、この日をもって岸和田町・岸和田浜町・岸和田村・沼野村の2町2村が合併し、岸和田町が発足した」と書いている。この新岸和田町が、その後の市制実施運動を経て、大正11年(1922)11月1日に岸和田市の誕生を迎える。

余談になるけど、八重の「その後」のことも少し紹介しよう。『新島八重 おんなの戦い』には、「襄の死後、八重の行き場のない孤独を癒したのは茶道だった。…明治27年(1894)ごろから、あらためて圓能斎(えんのうさい)に入門して本格的に茶道修行をはじめている。明治31年(1898)には上級の許状である「真之行台子(しんのぎょうだいす)」を受け、茶道教授となったというのだから、その没頭ぶりはかなりのものだった」と書いている。茶道の腕前もなかなかのものだったらしいね。晩年には「会津戦争の語り部」として各地で講演もしたらしいよ。大正6年(1917)には、泉南高等女学校(現在の和泉高校)に来て「白虎隊」についての講演もしている。

【くまた】 山岡尹方(ただかた)は、その頃どうしていたの?

《図書館》 『岸和田市史』第4巻には、「岸和田煉瓦の販路は、大阪・神戸を中心とする関西地方で、その製品の声価も極めて高かった。…(明治)40年3月、同社は資本金を30万円に増額した。そして、米国から最新式の機械を輸入して据付けるとともに、焼窯を改良して生産能力のアップに努めていた。」「同社製品の出荷先は鉄道、紡績、銀行関係が多く、京阪神方面の煉瓦造り建築に多数供給されたようである。明治末期の四天王寺宝物庫や神戸 いじんかんにも『岸煉』の煉瓦が使われていたとみられる。大正元年8月に竣工した同志社女学校静和館にも岸煉製の煉瓦が使用されている。また7年着工の旧大阪市役所の庁舎も、煉瓦の半数は同社の製品であったという」と紹介している。

明治40年、岸煉創立20周年にあたり、山岡尹方は創立以来の功績を讃えられ、株主一同から感謝状を贈られている。また、古稀に達した42年に社長を辞したらしい。今回は、岸和田のことはほとんど話せなかったけど、あとは自分で「岸和田再発見」の旅を楽しんでほしいな。

明治35年に建設された岸煉の第3号窯の図面

【くまた】 岡部長職(ながもと)のことも、もう少し紹介してよ。

《図書館》 『評伝 岡部長職』には、「長職や長男長景は何度か岸和田中学校や泉南高等女学校を訪れて講演しており、また明治42年から昭和19年にかけては成績優秀者に『岡部賞』を授与していた」ことも紹介している。息子の長景は昭和18年、東条内閣で文部大臣になっている。

また、長職が福島県の「岩瀬牧場」の経営を行ったことも紹介している。岩瀬御料地と呼ばれる皇室所有地のうち620町歩を、明治23(1890)年を50年間の期限付きで岡部家に貸与され、開発を進めた。「長職はこの牧場経営に数十万円の資金を投入したが、一度も回収することなく新事業の資金にあて、大正11年に長職が牧場を訪れた際には、社員から『牧場経営の最高者であり、開発の大恩人』と称えられ、長職は『経営良好なるは各員協力努力の結果』と語って、狂歌のやりとりをして盛り上がったといわれている」と書かれている。

【くまた】 福島県と岸和田は深いつながりがあるんだね。長い旅だったけど、「八重の桜」を機会に、もう一度、東北の人々との絆のことも考えてみるよ。