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明治時代から大正へ~「八重の桜」から「カーネーション」の時代へ(その1)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2013年5月2日掲載

【くまた】 「八重の桜」は人気があるみたいだね。この「再発見」のおかげで時代背景もわかるから、ドラマを見ていてもおもしろいよ。

《図書館》 「くまた君の質問がいいから、わかりやすい」と言ってくれた人もいるよ。

【くまた】 うれしいな。それなら、前回の続編をやろうよ。連続テレビ小説「カーネーション」の時には、「大正・昭和時代の岸和田」、今回の「八重の桜」では「岸和田の幕末・維新もおもしろい」だけど、明治時代のことが抜け落ちている…。そうだ。「『八重の桜』から『カーネーション』の時代へ」というタイトルがいいな。おもしろいと思うよ。ぼくが質問してあげるから。

くまた 画像

《図書館》 少しおだてると、これだからね。でも、明治時代のことはむつかしいし、「八重の桜」と岸和田をつなぐ話も、もうあまりないと思うけどな…。

【くまた】 固く考えなくていいよ。図書館には、明治時代を扱った本もいっぱいある。『岸和田市史』もある。「再発見」の目的の一つは、これらの本を多くの人に読んでもらって活用してもらうことだよね。いくつかおもしろそうな話を紹介してくれたら、あとはみんなが自分で探して勉強してくれるよ。そのきっかけをつくるだけでいいんだよ。

《図書館》 それがむつかしいんだよ。でも、くまた君にこんなことを言われるとは思わなかったな。とりあえず、やってみようか。

図書館に、山岡邦三郎氏寄贈の『学問のすすめ』初版本があった

《図書館》 先日、図書館の古い本を整理していると、福沢諭吉の『学問のすすめ』があった。初編は「再刻」(明治6年4月)だけど、2編から9編は明治6年11月から翌年5月にかけて発行された初版本だ。

【くまた】 へー、すごいね。福沢諭吉なら、たまに会っているよ。

1万円札の顔だね。

《図書館》 しかも、「山岡邦三郎氏 寄贈」というスタンプが押してあった。「スタンプまで押しているから、多くの本を寄贈してくれたのかな」と調べてみると、『山岡邦三郎関係文書目録 山岡春関係文書目録補遺』(以下、『文書目録』)という冊子に、118冊寄贈されたことが記されていた。寄贈されたのは昭和2年11月28日。岸和田市立図書館が泉南郡役所跡(現在の市役所東北隅)で竣工したのは昭和2年9月25日、開館は翌3年3月1日だから、その間に寄贈してもらったんだね。

【くまた】 山岡邦三郎と言えば、確か山岡尹方(ただかた)の長男で、春さんと結婚した人だね。岸和田市にとってはスタンプがあることが貴重だね。他にも寄贈してくれた本が残っているの?

山岡邦三郎 画像

山岡邦三郎 氏 (『文書目録』より)

《図書館》 調べてみると、『西洋事情』(福沢諭吉著)や『萬国公法』、『婦女鑑』などもあった。図書館には、こうした古い本もかなりあるけど、日常業務に追われて未整理なものも多い。このような資料の整理は片手間ではできないんだ。歴史研究者の協力も得ながら図書館司書が時間をかけて取り組まないとね…。でも、これを機会に少しずつでも調べてみたいね。

【くまた】 山岡春は、岸和田女性史の研究などで知られてきたけど、山岡邦三郎って、ほとんどの人が知らないよね…。そうだ。八重さんの夫だった川崎尚之助のことも謎に包まれていたけど、『八重の桜』のおかげで研究が進んだって聞いたよ。これを機会に、山岡邦三郎の研究も進んで有名になれば、図書館にある「山岡邦三郎 寄贈」の本の値打ちもぐっと上がるよ。

山岡邦三郎は、会津若松教会の初代牧師。書籍館もつくった

《図書館》 『文書目録』の「山岡邦三郎研究を巡る今後の課題」の中には、邦三郎が同志社最初のサッカーマンであったことや、「同期生の村井知至・岸本能武太・原田助・安部磯雄らと特に親しく、「同志社の五友」と称せられ、晩年まで親しい交わり」が続いたことも紹介されている。また、「『山岡邦三郎日記』を解読、公開する必要があろう」と書いてあるから、今後に期待したいね。

そして、「編集を終えて」の中で、斉藤米子さんは「『会津若松教会百年の歩み』には、《初代牧師山岡邦三郎は、1886年(明治19年)5月に着任し、1887年(明治20年)8月に若松に基督教書籍館を発起す。広く全国に、書籍、金子の寄付を仰がんため基督教新聞紙上に広告す。》との記述がある。彼は1ヶ月後の9月に北住春と結婚するが、若い二人にとっての初めての仕事は、寄せられた多数の書籍の整理、分類、寄贈者への返礼など、当時としてはまだあまり例のなかった試みを立派に遂行することであった。…6年後には収蔵された本の分野は、宗教、哲学、文学、科学、歴史、日記、諸文献、子どものための読み物などの広い範囲にわたり、合計534冊に及んだとされる」と書いている。

【くまた】 へー、まるで図書館だね。今回の「再発見」の旅は「図書館再発見」みたいだ。岸和田と会津との関係もさらに深まった。なかなかいい出だしだよ。ところで、『学問のすすめ』って、確か「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず…」と書いている本だね。

《図書館》 くまた君はよく知っているね。そのあとには「なぜ、かしこい人や愚かな人、貧しい人や裕福な人がいるのか」について、「唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」などと書いている。士農工商の身分制度がなくなり、「これからは身分で一生が決まる訳ではない。藩主や上級武士の出身でも下級武士や平民の出身でも、学問を深めた者が偉くなる時代だ」と言いたかったと思うよ。低い身分の人たちには「これからは学問の時代だ」と希望と勇気を与えただろうし、高い身分の人には「うかうかしていると、平民にもバカにされるようになる」と思わせたんじゃないかな。『西洋事情』も『学問のすすめ』も、当時のベストセラーだったらしいよ。

【くまた】 考えてみれば、江戸時代から明治時代への変化ってすごいなあ。お殿様も、ちょんまげや刀をさした侍もいなくなる。開国して西洋文明がどんどん入ってきて、生活スタイルも変わっていくし、とまどった人たちも多かったんじゃないかな?

司馬遼太郎が語る『「明治」という国家』

《図書館》 確かに大きな変化だね。くまた君は司馬遼太郎という作家を知っている?

【くまた】 知ってるよ。『竜馬がゆく』を書いた人だろ。図書館でもファンが多いよ。

《図書館》 『酔って候』(文春文庫)には、山内容堂や島津久光など幕末に主導的役割を演じ「賢候」と評された藩主たちを描いた4篇が収められている。その中で久光は「おれはいつ将軍になる」とたずねたり、「倒幕? あれは西郷が勝手にやった」と言ったりしている。「あとがき」では、幕末の主役は藩士たちであり、「ときには藩主だけが取り残され、時流の動きがわからぬままに維新をむかえ、わけのわからぬ状態で藩主の座を降りねばならなくなった例がほとんどである」と書いている。

【くまた】 そう言えば、維新後に活躍した藩主の話はあまり聞かないなあ。岸和田藩主の岡部長職は活躍したらしいけどね…。でも、本当に久光はそんなことを言ったの?

《図書館》 さあ…、司馬遼太郎は小説家だから、独自にイメージ・想像力を膨らませ、フィクションも交えながら書いているからね。でも、全国各地を回って綿密な調査研究や人物の発掘作業もしているから、時代の雰囲気が生き生きと伝わってくる。『最後の将軍』や『世に棲む日々』『花神』『燃えよ剣』など幕末を舞台にした小説も多い。『王者の護衛者』という短編小説では松平容保を描いているよ。

【くまた】 明治時代のことについて、司馬遼太郎さんの話も聞いてみたいな。

《図書館》 『「明治」という国家』(日本放送出版協会)という本があるから、しばらくこの本を中心に明治時代の雰囲気を探ってみようか。

どうやら、藩主だけでなく幕末の主役たちも、どのような政治体制をつくるか明確な目標を持っていた訳ではないようだ。司馬遼太郎は、「薩長という明治維新勢力は、革命政権についてなんのプランももっていなかった…さっぱりわからないため、いっそ外国を見にゆこうじゃないか、ということで、廃藩置県がおわって早々の明治4年秋、岩倉具視を団長(正しくは全権大使)とする50人ほどの革命政権の権官が、大挙欧米見学に発ちます。…世界史のどこに、新国家ができて早々、革命の英雄豪傑たちが地球のあちこちを見てまわって、どのように国をつくるべきかをうろついてまわった国があったでしょうか」と言っている。

【くまた】 なるほど。確かに「尊王攘夷」を叫び「倒幕」という共通の目的で戦ったけど、新政府は「開国」を進めた。西洋文明を取り入れるのに必死だっただろうね。

《図書館》 その西洋文明も、各国の政治体制や国情もかなり違う。どの国の政治体制を参考に考えるのかで、日本の進路は大きく変わる。

司馬遼太郎は、「幕末、ペリーがやってきて日本が開国し、ハリスによって日米修好条約がむすばれます。…その後、アメリカは、国内がいそがしくて日本どころではない。…当然なことで、江戸幕府が倒れるまでのあいだ、南北戦争でそれどころじゃなかったんです。桜田門外の変(1860)のとしにはリンカーンが当選し、…第2次長州征伐(1865)のとしに…戦争が終結するという具合でした。この南北戦争のさなかに、リンカーンが、南部の占領地における奴隷を解放するという宣言を出したのです」と言っている。

【くまた】 そう言えば、「八重の桜」の冒頭で南北戦争の場面があったなあ。リンカーンって知っているよ。「人民の人民による人民のための政治」という有名な言葉を残した大統領だね。

《図書館》 司馬遼太郎は、キリスト教や新島襄についても話しているよ。

「キリスト教には、大別して旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の二つがあります。明治時代はふしぎなほど新教の時代ですね。…勤勉と自律、あるいは倹約、これがプロテスタントの特徴であるとしますと、明治もそうでした。」「アメリカはプロテスタンティズムでできあがった国で、この19世紀の後半は、ひとびとのなかに真実に神がいましたし、この社会が共有する理想は動かざるものでした。…さらには、アメリカ人を特徴づけるところの善意というもののあふれた時代でもありました。そういうアメリカの新教的熱気の贈り物として同志社大学というものはできたのです」と述べている。新島襄がアメリカに渡ったのは、南北戦争が終わって直後だ。当時の「新教的熱気」を日本に持ち帰ったことになるのかな。

フランスでは、明治維新より約80年前の1789年にフランス革命が起きている。ルソーの「社会契約論」が大きな思想的影響を与えていた。土佐出身の中江兆民は、明治4年にフランスに留学してこの『社会契約論』を持ち帰り、「民約論」として発表して自由民権運動にも思想的影響を与えた。そして、慶應義塾を創設した福沢諭吉は、イギリスをモデルとした立憲君主制、議院内閣制を主張することになる。

【くまた】 開国してみたら、想像もしていない世界が広がっていたから、驚いただろうね。『西洋事情』がベストセラーになったのもわかるよ。

《図書館》 司馬遼太郎は、「明治4年(1871)の廃藩置県。…これは、その4年前の明治維新以上に深刻な社会変動でした。」「明治18年に憲法制定の準備ということもあって、内閣制度をとりますまで、政府というのは、太政官でありました。略して�官〞といいました。じつに強力な権力で、思い切った施策をどんどん実行してゆくのです。士族を一挙に廃止するなどというほどに思いきったことができる権力が、史上あったでしょうか」と述べている。270の大名たちが一夜に消滅し、士族とその家族(約190万人)が一斉に失業したと表現しているよ。

【くまた】 内閣も国会もない中で、すべて太政官で決めて実行していたなんて信じられないな。だけど、戊辰戦争で敗れた会津藩の人たちは悲惨だったけど、勝って意気揚々と引き上げた薩摩藩や長州藩などの人たちも、帰ってみれば藩も藩兵もなくなって、解雇されてしまうのか…。命がけで戦ったのにね。ところで、退職金とか生活の保障はあったの?

《図書館》 大名に対しては、その家禄の10%を毎年支給したが、ただの侍は、他の仕事への転業資金として、禄高の数年分に相当する現金もしくは公債を支給しただけらしい。司馬遼太郎は「ただし、士族の転業など、めったにうまくゆきません。武士の商法などという言葉がはやりまして、うまくゆかないことの比喩につかわれました」と言っている。

岸和田県は3ヵ月でなくなり、堺県に編入

【くまた】 そりゃ雇用対策をしっかりやらないと大変だよ。岸和田藩は、どうしてたの?

《図書館》 明治4年7月の廃藩置県で、岸和田藩は岸和田県になった。岡部長職が岸和田藩知事を免ぜられて東京へ向かったのは8月8日だ。『岸和田市史』第4巻では、「岸和田県としては、岸和田藩士であった士族の救済対策が県の重要な課題であった。士族はすでに家禄が削減され、やがて廃止されることが予想されたから、彼らが路頭に迷うことのないよう、県は彼らにできるだけ早く農業や商業などに就くことをうながした。ところが、岸和田県は明治4年11月22日に廃止され、堺県の一部となった。同日、太政官は、河内国一円と和泉国一円をもって堺県としたのである」と書いている。

【くまた】 岸和田県は3ヵ月あまりでなくなったのか…。

《図書館》 岸和田県庁は、しばらくの間、堺県の出張所とみなされて存続したが、翌5年6月には事務取扱いも本庁に移され、官員の整理も行われたらしい。山岡尹方らが、士族授産事業として旧岸和田藩練兵場跡に丸釜2基を据付けて煉瓦製造を始めたのは、この年の9月だ。この時はうまくいかなかったようだけどね。

【くまた】 だけど、士族の人たちは大変だったね。もしかすると、薩摩や長州など「官軍」の人たちの方が、「こんなはずじゃなかった」という気分が強かったんじゃないかな。

《図書館》 明治6年1月には「徴兵令」、同9年には「廃刀令」が出された。

【くまた】 武士という存在自体が不要になり、「武士の魂」と言われた刀も奪われることになった。新しい仕事の目途も立たない…。不満が高まる気持ちはよくわかるよ。

西南戦争から自由民権運動へ

《図書館》 明治6年10月には、政府内の意見の違いから西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らが参議を辞して故郷へ戻った。佐賀に戻った江藤新平は、明治7年に佐賀の乱を起こした。その後、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族による反乱が続き、明治10年には西郷隆盛が旧薩摩藩士らに担ぎ出され、西南戦争がおこるんだ。一方、土佐へ戻った板垣退助は「立志社」を設立し、明治7年には後藤象二郎、副島種臣らとともに「民選議院設立建白書」を提出し、国会の開設を求めた。これをきっかけに自由民権運動が全国に広がる。明治8年2月には、自由民権派の全国的な政治結社である愛国社が大阪において結成されている。

『評伝 岡部長職』を書いた小川原正道氏は、『西南戦争』(中公新書)という本も書いている。「西郷が率いる薩軍の中核となった私学校党の不満は、秩禄処分や自らの不遇とともに、欧化政策や外交政策、政府の専制、腐敗や朝令暮改などに向けられていた。薩軍の前線では、特権剥奪に怒る保守派士族と共に、村田新八や小倉処平のような西洋帰りの知識人が指揮を執り、民権運動家も剣を振っていた」など、日本最後の内戦の実態と背景を明らかにしている。

【くまた】 倒幕の最大の功労者である西郷隆盛が挙兵したのは、当時の新政府にとっても衝撃だっただろうね。でも、民権運動家も戦いに参加していたというのは意外だな。

《図書館》 同書で小川原氏は、福沢諭吉が西郷隆盛を高く評価したことも紹介している。「福沢は西郷の『抵抗の精神』を讃えている。…ただ、西郷が暗殺未遂の解明なるものを挙兵の名分としたことには疑問を呈し、武器を持ったことにも不満を表明した。西郷はあくまで学問の思想を抱き、地方行政に力を入れ、腕力を用いず議論を興し、産業を興し、『民撰議院』と『立憲政体』をつくって日本全国の面目を一新すべきだった。その意味で『西郷の罪は不学に在り』というのが福沢の慙愧(ざんき)の念である」としている。

【くまた】 この西南戦争以降、「武力では世の中は変わらない」ということで、自由民権運動が盛り上がっていくのかな。

岸和田の自由民権運動

《図書館》 自由民権運動のことは、『岸和田市史』第4巻にも書いてあるよ。愛国社は、明治9年3月に板垣退助が参議に復帰したため活動を停止したが、その間にも運動は全国各地に広がり、西南戦争後には、高知県の立志社が愛国社の再興を決定し、全国遊説を行う。その結果、明治11年9月、諸国の委員数十人が集まり、愛国社再興大会を開催した。そして、明治13年4月に開いた第4回大会で、愛国社を国会期成同盟と改称し、活発な運動を展開していく。もちろん、岸和田でも取り組まれた。

【くまた】 へー、岸和田の自由民権運動って興味があるな。

《図書館》 「『熊沢友雄日記』によると、明治9年4月21日午後4時から、熊沢は旧岸和田藩士族である田中次郎・山岡尹方(ただかた)・須藤与惣(よそう)を自宅に招き、『話会』を行った。…『話会』は単なる談話会ではなく、『時勢』をはじめ、さまざまな問題について討究する研究会とでもいうべきものであった」と書いている。その後は、山岡尹方宅を会場として毎週のように集まり、民権論や文明開化についても議論をたたかわせている。また、明治10年には岸和田で演説会も開いた。「熊沢の日記の3月1日のところに『今晩初メテ演説会ナル者ヲ本町元引替所ヘ持出セリ、参聴人凡六十余有之』と記している。…演説会は、以後も本町の元引替所を会場として月に1回ないし2回の割で夜に開かれた。そのため、毎週のように開かれる研究会と、月に1、2度開かれる演説会を並行して開催されることになった。…明治10年7月、研究会の名称を時習社とし、社則を定め、社員となる者は誓書に捺印することにした。社則の内容はわからないが、時習社は旧岸和田藩士族を中心とする民権結社であった。」(『岸和田市史』)

【くまた】 活発に活動していたんだね。山岡尹方も中心メンバーだったようだね。

《図書館》 時習社の開業式は7月28日に催されたが、会場には岡部長職の写真を掲げ、社員がそれに礼拝したらしい。岡部長職から寄付も提供されている。時習社の活動は、当時の新聞でも取り上げられている。それによると、田代環、山岡尹方、宮崎八郎平が中心になって結成したようだ。11年になると、貝塚の有志の者からの依頼で、願泉寺などでも演説会を開いている。「彼らは岸和田だけでなく、広く泉南地方の民権運動を盛り上げよう」(『岸和田市史』)とがんばったらしいね。新島襄や八重さんが岸和田の地に伝道活動にやってきたのは、このような時期だ。

新島襄の来岸で、時習社も変化

【くまた】 あっ、そうか。それでわかった。岡部長職が新島襄へ寄せた手紙で、「山岡尹方という人物に手紙を差し上げてほしい」と書いていた理由が…。きっと長職は、アメリカに行ってからも、時習社の活動のことなど伝え聞いていたんだね。

《図書館》 『岸和田市史』には、「この頃、時習社に会の性格をも変えるような事件が起こった。11年7月20日、同志社の新島襄が岡部長職の依頼をうけて来岸、キリスト教の布教をはじめた。…。岸和田でのキリスト教の布教が、入信した岡部長職の意向によるものであるだけに、時習社員の多くが協力し、キリスト教の講義などを聴聞した。時習社は、キリスト教伝道の場ともなり、社員の中からキリスト教に入信する者も出た」と書いている。

【くまた】 なるほど。これでいろんなことがつながってきた。ところで、先程から「熊沢友雄日記」のことがよく出てくるけど…。

《図書館》 熊沢友雄は、幕末期の岸和田藩士であり、維新後は堺県会議員、同副議長、大坂府会議員、南・日根郡長などを歴任した。熊沢氏は、嘉永5年(1852)4月から明治28年12月までの日記を残しており、『岸和田市史』の記述にもかなり引用されている。この日記のおかげで、幕末や自由民権運動のこと、新島襄・八重が岸和田に来た日付など、わかったことが多いんだ。『熊沢友雄日記』(岸和田市教育委員会)として、すでに5分冊が解読・発行されている。図書館にも置いてあるよ。

【くまた】 ぼくは日記をつけてないけど、子ども向けに「くまたくんだより」を出しているよ。

《図書館》 自由民権運動が全国的に高揚する中で、政府は明治11年7月に府県会規則を公布した。議員になれるのは満25歳以上で地租を10円以上納める男子、選挙権も満20歳以上で地租を5円以上納める男子などに限られていた。しかも記名投票だ。

明治13年5月に堺県で初めての選挙が行われ、熊沢友雄は県会議員に当選した。しかし、本人は観光旅行中であり、後日郡役所から出頭を求められ初めて知った。当選状を渡されても再三辞退したが、郡長の説得により受けることになったらしい。

【くまた】 ということは、現在のような立候補制じゃなく、事前に候補者名簿をつくって投票したんだね。でも、それでも一歩前進かな。次は国会の開設だね。

国会開設、憲法制定に向けて

《図書館》 国会開設といっても、天皇や行政との関係、政党や選挙制度など、どのような形の国会をつくるのかが問われる。その根幹となる憲法の制定も大きな課題になり、「国民の代表からなる国会を開いて憲法を制定せよ」という運動が高まると、政府としても避けて通れない課題になってきた。諸外国と対等につきあうためにも近代的な法体系が必要だからね。

『もういちど読む山川日本史』には、「そのころ政府部内でも参議大隈重信がすみやかに憲法を制定して国会を開設し、イギリスを模範とした議会中心の政党政治をおこなうよう主張した。しかし岩倉具視らは、十分な時間をかけ、ドイツ流の君主の権限の強い憲法をつくることをとなえて大隈と対立した」。そして政府は「ドイツ流の憲法をつくる方針をかため、明治14年、国会開設の勅諭をだして明治23年に国会を開くことを約束するとともに、大隈参議を辞職させた」と書いている。これは「明治14年の政変」と呼ばれている。その直後、国会期成同盟を母体に板垣退助を党首とする自由党が結成され、翌15年には大隈重信を党首とする立憲改進党が発足し、全国的に運動が広がった。そして、自由民権派の人々や政府関係者が、自分たちの理想とする憲法案を起草した。それは「私擬憲法」といわれ、40篇以上もあったらしいよ。

【くまた】 岸和田でも運動が広がったの?

《図書館》 『岸和田市史』には、明治15年から18年にかけての政談演説会の開催状況の表が掲載されている。それによると、「明治15年には、岸和田だけでも政談演説会が4回開催され、延べ40人が演説している。けれども、演題についてみると、認可34に対し、不認可29で、半分近くが不認可であり、演説会も4回のうち2回が解散させられている。今日では考えられぬことである」と書いている。

【くまた】 あれっ、なぜ解散させられたの?

《図書館》 政府は明治13年に「集会条例」を発布して、民権運動を厳しく取り締まったんだ。政治集会・政治結社を届け出制にして「国案ニ妨害アリト認メ」た時は、いつでも不許可にすることができるようにした。さらに、警官に集会を臨検させ、集会解散権を与えた。新島襄も警察からにらまれていたらしい。『新島八重 おんなの戦い』(福本武久著 角川書店)には、「『嗚呼(ああ)新島襄ノ陰謀ヤ、己レ皇国ニ生マレナガラ、外国人ノ股肱(ここう)トナリ、国ヲ売ルノ所業ヲナス』(『同志社百年史 資料編』) 新島襄を売国奴として糾弾しているが、これは襄に張りついていた府警の監察掛、ようするに特高刑事たちの報告書の一部である。…警察ににらまれた原因は民権派の人物との交流だった。…民権派の人たちと新島襄との連帯はうわべだけのものではなかった。植木枝盛は襄の大学設立とそのための募金活動を積極的に支持し、板垣退助、中江兆民、中島信行との交流も、襄が死ぬまでつづいた。…そのために、襄だけでなく妻である八重の周囲にも、つねに刑事たちの監視の眼がおよんでいたのである。」と書いている。

【くまた】 お寺の僧侶たちからも反発されていたのに、同志社を軌道に乗せるのは大変だね。

《図書館》 福沢諭吉も危険人物としてマークされたらしいよ。小川原正道氏は、一昨年『福沢諭吉「官」との闘い』という本も発行している。福沢諭吉はイギリス流の政党政治・議院内閣制を訴えていた。ベストセラーを連発し知名度は高い。政府内外の要人にも影響力を持ち、大隈重信と親しかった。福沢の門下生を中心とした交詢社も「私擬憲法法案」を起草していた。

同書によると、政府部内でも一時は福沢らの考えを受け入れる動きもあったらしい。しかし、岩倉具視に意見を求められた太政官大書記官の井上毅(こわし)は、「大隈意見書と交詢社私擬憲法案に反対し、英国流の政党内閣構想は国家・国民の利益に反するとして、福沢派の勢力拡大、そして福沢と大隈、民権派の連携に警鐘を鳴らして岩倉や伊藤、井上馨の説得に当たり、自説に転換させることに成功」し、「明治14年の政変」による大隈および福沢門下生の政府からの罷免に至るわけだ。同書ではそれらの経過や、14年以降も福沢諭吉が「官」からの監視を受けたことなどを紹介している。国会開設の経過を学ぶ上でも興味深く読めるよ。

※交詢社(こうじゅんしゃ)…明治13年に福沢諭吉、小幡篤二郎(おばたとくじろう)らの慶応義塾関係者によって設立された、知識の交換などを目的とした社交クラブ。『交詢雑誌』も発刊した。

【くまた】 新島襄や福沢諭吉も危険人物として監視されていたのか…。でも、これだけ全国で多くの人たちが、日本の国のあり方について学び合い、自分たちの意見を発表し激論を交わしたのは初めてじゃないかな。自由民権運動にはキリスト教徒の人たちも関わっていたのかな。

《図書館》 くまた君はするどいね。司馬遼太郎は「ある意味では、彼ら自由民権家こそ、初々しく誕生した�国民〞というものの最初のひとびとだったでしょう。…�愛国〞ということば自身、それまでの日本語にはなかった新鮮なことばでした。このことばが全国にひろがるのは、自由民権活動家によってでありました」(『「明治」という国家』)と述べている。確かに、江戸時代は「愛国」ではなく「忠君」だった。自由民権運動の最初の全国結社の名前は「愛国社」だ。

『日本近代の出発』(集英社版「日本の歴史」(17))によると、明治7年から17年までの11年間で、民権結社は1275もあったことが確認されている。それだけに、その内容は多彩で豊かだ。今後の研究次第でもっと増えるだろうね。

また、キリスト教徒と自由民権運動について、萩原俊彦氏は『近代日本のキリスト者研究』(耕文社)の中で、「宗教史、それも、西欧文明の宗教であり、文明開化そのものであったキリスト教との関連で、自由民権運動を研究・叙述した成果は、ほとんど紹介されていない」と残念がっている。

しかし、「キリスト教と自由民権運動とが共通の社会基盤にたち、両者が密接にかかわり合って、1880年代の歴史を創造していた」ことは確かなようだ。

【くまた】 地域の中で、まだまだ埋もれている歴史があるということだね。

《図書館》 昭和43年に東京都西多摩郡五日市町の旧家の土蔵から発見された「日本帝国憲法」も画期的な発見だった。全204条からなり、その半分以上は国民の権利と立法関係の条項で、人権尊重の立場が明確に示されている。しかも、千葉卓三郎を中心に、この地方の20代から40代までの平民の民権家が参加して、定期的な学芸講談会で研究・討論を重ねて作成したらしい。

その「五日市憲法草案」を発見した色川大吉氏は、『自由民権』(岩波新書)で、「その蔵は廃墟になったその邸あとに奇跡のように立っていた。しかも、偶然が重なり、茅葺やねの一部が崩れていたのに朽ちもせず残されていた膨大な文書類は、幸いにも手付かずという状態であった。もちろん、そこに何が埋もれているかわかろうはずはなく、また千葉卓三郎とはいったい何者であるのか、誰一人知らないというゼロの地点から私たちの研究はスタートした」と述べている。

【くまた】 すごい大発見だね。岸和田でもそんな大発見があると、おもしろいのになあ。

《図書館》 山岡家で発見された新島襄や八重の書簡も大発見だよ。『文書目録』の「解題」の中で萩原俊彦氏は、山岡家を訪ねた際のことについて「斉藤米子、山田裕美、春野文隆、私らは、同家にお邪魔し、資料整理を進めた。玄関に近い部屋の史料整理をしていた時、明治時代風の旅行鞄の存在に気づいた。開けてみると、驚いたことに、東京帝国大学の卒業証書や、英文の梅花女学校卒業証書と共に、新島襄の書簡が8点入っていた。さらにはがきも3点発見できた。30年目の奇跡とでも申すべきものであろう」と書いている。

【くまた】 それらの地道な研究のおかげで、「岸和田再発見」の旅もできるんだね。

早稲田大学の図書館に、津田文庫所蔵の『青鞜』があった

《図書館》 今回は「図書館再発見」からスタートしたから、岸和田の図書館の原点というべき津田文庫も紹介しよう。津田文庫は津田栄氏によって、明治36年に設立(文部省認可は41年4月)された。氏の生い立ちや活動内容などは『しのび草』(津田富江編)にまとめられている。

「大正11年11月市制実施に当たり、その認可の条件に、『図書館施設を有すること』の条項があったので、津田文庫の存ること挙げてこの条件の答申とした」というエピソードもある。

同書に収録された「教育時報特輯」には、「慶応義塾に在学中から私淑され師事した芝増上寺管長道重信教師の『都会に遠い地方の人々に最も欠けているものは書物である』の訓戒に従い、東京遊学中も常に心掛けて図書を購入し帰省する毎に蜜柑箱などに詰めて持ち帰った。卒業の頃には相当の冊数に達していたので、堺町と岸城町にあった旧藩士子弟の集会場の建物を借りて文庫を開設し、民衆に開放した。…無料で公開したので、あらゆる階層の利用するところとなったが、書籍の破損や紛失は殆どなかった」と書いている。図書館は、このような人たちの献身的努力の上につくられてきたんだ。

【くまた】 まさに「学問のすすめ」の活動だね。その書籍は今も残っているの?

《図書館》 18,000冊ほどの蔵書があったようだけど、太平洋戦争のときに製紙の材料に使うなどの理由で強制供出させられたらしい。同書では「代金は金40円だったとの事で、まことにお話にもならぬ馬鹿馬鹿しい事実である」と書かれている。しかし、津田文庫が所蔵していた『青鞜』の創刊号が早稲田大学の図書館で見つかったんだ。

【くまた】 『青鞜』と言えば、「元始、女性は太陽であった」と平塚らいてうが書いた雑誌だね。いよいよ『カーネーション』の時代につながってきたな。