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春木川(岸和田再発見第15弾)

印刷用ページを表示する 2014年4月4日掲載

源流から河口まで市内を流れる唯一の川 春木川

岸和田市を流れる川は、流域が短く水量も多くありません。そのため、灌漑用のため池が数多くつくられました。

春木川も水量が少ないうえに、下水道も未整備で生活排水が流れ込み、最悪の環境状態になっていました。

それに危機感を抱いた多くの方々によって、1987年「甦(よみがえ)れ春木川」コンサートと写真展が開催されました。

さらに1995年には、うたしばい「甦れ春木川 キララとポポロ冒険」が上演され、その翌年には「岸和田の河川環境を考える会」が発足。

「春木川をよくする市民の会」も生まれて、市民団体が中心となって環境美化や河川の清掃活動を展開。現在も多くの市民が参加し、毎年継続して実施されています。

現在は、河川の改修や下水道の整備が進み、市民の運動と相乗的な効果をあげて、春木川の環境も飛躍的によくなってきました。

1997年には、うたしばいの成果に加えて、春木川の自然環境調査結果や地域の伝説などをまとめた『わたしたちの町を流れる川よ~甦れ春木川~』(岸和田文化連絡協議会編)が発刊されました。

この冊子を手がかりに、春木川を上流から下流まで、流れに沿ってみつめてみました。

春木川 地図

春木川は、神於山の大谷を発した大谷川と、石谷に源を有する石谷川が、神於山の東側に源を発する轟川に合流します。更に福田の砂原橋で、大池・隣徳地の間を流れ下ってきた真谷川と合流。そして福田・尾生・額原・西之内・加守を経て大阪湾にそそいでいます。

この流域はかつて掃守(かもり)郷と呼ばれた地域にほぼあたります。昭和の初めの行政区分では、泉南郡南掃守村(下松、加守、西之内、上松、三ヶ山、尾生)、北掃守村(春木、磯上、吉井)となっています。

平成20 年大阪府刊『春木川水系河川整備計画』には、「春木川は、その源を大阪府岸和田市の神於山(標高296.4m)に発し、山間部を北方向に流下し、尾生町付近で北西方向に曲流し、大阪湾に注ぐ二級河川です。流域面積は14.4k平方メートル、流路延長は約10.0km(二級河川指定区間5月7日km)で、また、全流域が岸和田市に包括されています」と記されています。

水源は神於山

春木川の水源は神於山です。「岸和田再発見」第7弾では、久米田池を造った行基が神於山に登って降雨の祈願をしたことなど紹介しています。

かつては神於山地区全域で果樹栽培も盛んでしたが、その後は人手が入らなくなり、竹林が拡がりました。その結果、保水力も低下し、さらに不法投棄等で年々荒れた状態に…。その中でも、「NPO法人 神於山保全くらぶ」などの活動により、自然豊かな里山の環境が保全されるようになってきました。

環境保全の取り組みは神於山にとどまらず、春木川・轟川流域の地元町会が中心となって「春木川・轟川をよくする市民の会」を結成。官民一体となって川の清掃活動や保全活動が行われています。

若手の漁師さんたちも、「春木川の源流である神於山が荒れると“海”が荒れることになる」と、山の一角を「魚庭(なにわ)の森」として整備されているそうです。

また、白浜アドベンチャーワールドと「パンダ協定」を結び、神於山の竹の葉の部分をパンダの餌として提供しています。

パンダ 写真

福田と尾生の地名の由来

『わたしたちの町を流れる川よ~甦れ春木川~』に、藤田保平氏の「春木川伝説」が収録されています。春木川の上流にある両町の地名の由来が書かれているので紹介しています。

福田  「フクダ」は、もともと尾生村の別れで、久米田寺文書には吹井の里と出てくるが、これが転訛したものと思われる。地名辞典によると、「ふく(福・吹く)は炭火を吹くにちなんで鍛冶をいう」とある。現在も鋳物工場で鋳造の作業を、フク、またはフキという。行基さんが久米田池の工事を始めたのが、神亀二年(725)。今から1270年余り前のこと、道具は鍬や鋤。それも刃の部分だけが鉄という時代で、しかもその鉄の精度が良くないから、しよつちゅう鍛ち直しをしないと刃先が鈍ってくる、だから土木工事には鍛冶集団が絶対の必要条件であった。その鍛冶集団が住んだ所「吹井の里」。後に佳字を当てて「福田」となったと考えられる。

 尾生 「オブ」は、大阪府全志(おおさかふぜんし)によると、日本後紀桓武天皇、延暦23年(804)冬10月の条に「巳酉猟藺生野」とある、この藺生野(イブノ)がこの附近のことではないかといわれている。尾生は苧生(オブ)で、苧生は藺生から転じたものだという。

 また、「ウブ」から転じたものとも考えられ、「ウブ」は「未熟な状態・土地が軟らかい・湿地」のこと、と地名辞典にある。附近には「冷水」(ヒヤミズ)という小字名もあり、「ヒヤ」は「ヒヨ・ヒヨメキ」で湧水を指すことからも、尾生は湿地という地形的な特徴からつけられた地名であるといわれる。 

春木川の水を利用して造られた久米田池

『岸和田の土と草と人2』(小垣広次著)には、「久米田池の取水」と題して久米田池の造成についての記述があります。

久米田池は、岡山丘陵の先端と久米田丘陵を堰き止めて築造された。この丘陵にはさまれた谷は、轟川(春木川)の水系である。現在轟川は、久米田丘陵の西側を深くえぐって流れているが久米田池築造当時は、轟川は現在の久米田池の中を通り、天の川につながっていたと考えられる。

この轟川の源は、神於山である。神於山は、里人から「神のお山」と言われ、山麓にある意賀美神社の雨降りの滝とともに、古代の生命の根源としての水の信仰のある山である。この図によると、轟川が久米田池に入っていることがわかる。久米田池は、神於山を水源とする轟川の水を取水したと考えられる。それが、いつの時代かわからないが、轟川の水ではなく牛滝川の水を取水するようになった。轟川の水だけでは不足をきたしたのだろうか。

久米田池 地図

名産編笠

『和泉名所図会』(寛政8年・1796年刊)には、「松村にあり。当国にて藺笠を作ること、年久し。延喜の〈主計の式(かづえのしき)〉に曰、調(みつきの)藺笠(ゐかさ)四十六枚云々」と書かれています。松村は今の上松・下松です。

藺は「いぐさ」で、湿地に生じ茎を織ってむしろをつくったりします。これを利用してつくった編笠が名産として紹介されているのです。

春木川の周囲の湿地帯に生える「尾生」の語源とも言われるもので、まさにこの名産品がこの地域の特性をあらわしています。

また、『五畿内物産図絵 和泉之部(和泉国見耶希裳乃・いずみのくにみやげもの)』(文化10年・1813年刊)には、湊壷しほ、近義櫛、土井原鋸と一緒に「松村あみ笠」として絵入りで紹介されています。

「編笠や松のあはひの村の冬」 泉南 如斯亭九江

五畿内物産図絵 

轟川から加守川に

轟川に架かる轟橋、現在は上轟橋と下轟橋があり、府道30号線(通称13号線とも言われますが、13号は京都守口線です)は上轟橋を通ります。両橋の間にはJR阪和線が走っています。30号線は、かつて「熊野街道」や「小栗街道」と呼ばれた道にほぼ相当します。熊野街道は、熊野参詣が盛んで「蟻の熊野詣」と言われた平安時代末から室町時代、大坂から熊野に至る道です。同じ道を「小栗街道」とも呼ぶのは、重い病を負った小栗判官を、恋人の照手姫が土車に乗せて、この街道を熊野湯の峰まで曳いていき、湯治で全快したという説経節「をぐり」の物語に由来します。

小栗判官を乗せた土車が春木川に架かる橋を渡ったときに土車の車輪が鳴ったことにちなんで「轟橋」と呼ぶようになったという話もあります。また、白河上皇が熊野詣の途中に休憩した際に、積川神社の鳥居の扁額が拙いので自分が書こうと筆を執ったときに激しい雷鳴が轟いたので、その雷鳴の轟いた方角の川を轟川と名付けたという話もあります。

現在の額原町のあたりを奈良時代は「動(トドロキ)の里」と呼んだと言い、後年の文書には「とと路義」の文字をあてているそうです。

常盤小学校

川は30号線をくぐってすぐに阪和線をくぐりますが、すぐ横にあるのがJR阪和線下松駅です。下松駅は、阪和線では一番新しい駅であり、1984年昭和59年)国鉄阪和線の久米田駅- 東岸和田駅間に新設開業しました。

この駅のある場所に建っていたのが創立141年を数える常盤小学校です。明治6年下松町浄福寺を借用し、堺県第3大区第17中区第22番小学校として創設され、明治16年には下松732番地に、大正14年には駅のある場所に新築移転。昭和43年には下松町885番地に部分移転、順次教室を移しながら現在の状態となりました。その間、大正3年から昭和26年の間は、校名が「南掃守」になっていました。(『岸和田に於ける学校制度の変遷(続稿)』岸和田市教育委員会刊、常盤小HPより)

 栄の池遺跡

総合体育館の南にあるのが栄の池。国道26号線を造る際に発掘調査が行われました。春木川の氾濫原にあたるエリアで、弥生時代及び平安時代のものと思われる遺物が出土しています。

1979年に岸和田遺跡調査会から発刊された報告書『栄の池遺跡』にその概要が記されています。

遺構は、竪穴式住居跡・掘立柱建物跡・溝・井戸・方形周溝墓・土壙・自然流路などがあげられるが、時期が明らかなものは極めて少ない。ほとんどの遺構が弥生時代中期~後期のものと平安時代前期~中期の2時期のものと考えられる。(中略)

遺物は縄文時代のものから平安時代のものまで、多種多様の土器・石器が出土しているが、量的に最も多いのが弥生時代のものであることは前記のとおりである。旧石器時代から縄文時代のものとしては、有舌尖頭器・石鏃・石棒・トロトロ石器(異形局部磨製石器)などの石器のみ数点で、土器は全く認められない。いずれも流入物であるが、縄文時代早期の押型文土器に伴うといわれているトロトロ石器が出土したことは、爪形文土器が出土している箕土路遺跡とあわせて縄文時代の遺跡の存在を考えさせられる。 

栄の池遺跡 遺物 画像

兵主神社~売りに出た?式内社兵主

『岸和田の土と草と人2』に、こんな伝説が紹介されています。

兵主神社には、蛇渕という池が境内にあり、ここには、久米田池の主が、池の水が少くなると春木川を通って、この蛇渕に、ひなんしてくるという伝説がある。

久米田池は、轟川をせきとめたもので、その悪水ぬきの八田川が久米田池より、加守川となって、兵主神社のほとりを通っていたといわれている。この伝説は、このことを裏付けているように思う。

 ※ 久米田池の主である蛇の話は、「岸和田再発見」の第3弾「久米田池・久米田寺」の中で「乙御前(おとごぜ)伝説」として紹介しています。

また、『泉州百年史第2巻』(近畿公論社刊)には、「兵主神社が売られかけた」記述があります。

明治になって、政府が神社と寺院を分離させる命令を出しました。神社も一村一社の方針だったので、安穏とはしていられず、複数あるとどちらを残すかで争いになります。

明治6年には神社の格付けが決まり、郷社には泉州で18社、兵主神社も郷社に位置づけられ、佐野の春日神社と合併するところまで行きましたが……。

郷社という名をもらった西ノ内の兵主神社は、明治41年に佐野の春日神社と合併するところまでいった。同年1月15日に佐野、南掃守両村長と氏子総代、それに春日の社掌が連名で移転合祀願を府知事に出した。このころの社掌は田島左京で東鳥取の波太神社と兼務した。合併の条件は、春日神社を佐野神社と改称し、兵主神社をそこへ移し、佐野神社を郷社とする。移転費用は兵主神社の本殿、拝殿、絵馬堂などを売って捻出する。兵主神社の境内二反余は佐野神社の名義にする、などというもの。この条件は途中で変わる。8月になって�社名変更願�が知事に出されるのだが、それによると「兵主神社を襲名」するとあって、佐野側の譲歩である。

 しかし年末になって、この合併ばなしはおじゃんになった。兵主神社に救いの神が現われた。泰小一郎。中国から儲けて帰った人だった。また機会があったら合併しましょうということで、落着金250円を春日神社に支払った。兵主神社の拝殿(正しくは本殿-編者注)は大正13年4月15日、重要文化財に指定された。

中央公園

今では市民憩いの場として散歩やジョギング、ゲートボールと市民に親しまれている中央公園も、以前は春木競馬場として利用されていました。競馬場廃止運動等は、「岸和田再発見」第6弾(「大正・昭和時代の岸和田」戦後編)で紹介しましたので、今回は省略します。

春木廃寺と西福寺

春木川は、兵主神社を過ぎると北に流れますが、南海線の手前で西に流れを変えます。春木駅の南西あたりの川沿いには、古代の寺院跡がみつかっており、地名から春木廃寺と呼んでいます。古代豪族掃守連(かにもりのむらじ)氏と関係深い寺院かと推定されていますが、詳しいことはわかりません。久米田寺に伝わる鎌倉時代の古文書には「加守寺」の名が見えますので、あるいは春木廃寺は加守寺と関係があるかもしれません。春木廃寺跡からは奈良時代の古瓦が出土しています。

西福寺は、寺伝によると、本尊は阿弥陀如来で、元は春木駅付近の「里」という字名の所にあり、天文24年(1555年)燈誉良然上人(とうよりょうねんしょうにん)が中興し、浜街道(後の紀州街道)添いの現在地に移転したと言われています。

『加守郷土誌 ふるさとの歩み』、『泉州路中世寺院の探訪』(平成2年辻川季三郎編刊参照)

九雙牛神塚(きゅうそう うしがみづか)伝説と、掃守氏発祥の由来

紀州街道周辺の家々でも、多くの蟹が水路より庭づたいに縁側まで這い上がってきたことを覚えておられる方も多いと思います。『加守郷土誌 ふるさとの歩み』(加守町1丁目老人クラブ昭和63年刊)に掃守の由来が紹介されています。

平安初期「古語拾遺(こごしゅうい)」(807)「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」(931)と云う二つの書物に、九雙牛神塚(きゅうそううしがみづか)古墳の物語があり、その中に、掃守氏発祥の由来が語られています。

これは、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)誕生に始まる。彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)が、海底の宮より汀の宮に帰って居られたとき、海神の娘、豊玉姫(トヨタマヒメ)が来られて、申されるのに、天つ神の御子を孕み、産気近しと云う。命は驚き天忍人命(アメノオシオノミコト・掃守氏の遠祖)に鵜の羽根を集め海浜に産屋を建て姫の身の廻りに仕えるよう申し渡されたが、未だ葺き終らぬうちに分娩されたので、この御子の名を鵜葺草葦不合命と名付けられた。

産屋は砂浜に造られたので、沢山の蟹が産褥に這い上がって来るのを、天忍人命が箒を作り、この蟹を掃いたことから職掌(掃部司)となり、蟹守=掃守と名乗り代々其の職を世襲した。

雄略天皇(456-479)の時、姓掃守連を賜る。 掃守郷は掃守連の居住地であり、其れにより郷名が起る加守は其の郷元である。

菖浦川左岸、加守三昧山遺跡南近くに、地域約5~60坪の古塚があり、九雙牛神塚という。この塚は即ち産屋の在りし跡なりと伝えられる。

工場の進出と住宅の建設に伴う町の形成

明治の初めまで春木川河口付近や菖蒲川に挟まれた低地には家は一軒もありませんでした。墓に通う道や浜街道があるだけで人通りも多い所ではなかった。明治15年に春木川河口の野村に設立された大阪窯業(株)と明治45年に設立された和泉紡績(株)が地域の状況を大きく変えました。今では、大阪窯業跡には岸和田コーポラスが、和泉紡績跡には春木泉団地が建設されています。町が形成され、賑わっていく様子が『加守郷土誌 ふるさとの歩み』に詳しく紹介されています。※抜粋 

当時日露戦争の勝利のあとで日本綿業界は隆盛をきわめていた。職工(工員)は募集によって、四国・九州・和歌山等広範囲な地域から集められた。

加守裏社宅(現加守団地)約175戸 川社宅(春木川南岸堤防沿)約21戸も引続き完成した。裏社宅は、平家と2階建が交互に並び、東通り、中通り、西通りを形成していた。……附近の農村に比べ賑やかであったので、加守銀座などと云われ、他所からも随分人が集まって来たものである。休日には紀州街道の永守橋辺は、映画や芝居を見に岸和田へ行く女工さん達の人波が続くのであった。……夜になると、裸電球の下では、将棋をさす人、書生風の姿で、ヴァイオリンを弾きながら唄う演歌師、それに群がる女工さん達、夏の夜の風物詩であった。此の頃には休日ともなれば、三味線に合せた歌声も聞えるなど、ゆとりもでき、お盆には裏社宅の広場で、お国自慢の盆踊り競演が賑やかに行なわれ、夜の明けるまで.“ふるさと"の娘にかえった女工さん達の踊りの波は、絶えることなく続くのであった。

和泉紡績(株)川社宅とその附近

岸和田の煉瓦製造工場群

下の写真は、大正13年に刊行された『岸和田要鑑』という市制記念誌に掲載されています。

岸和田煉瓦株式会社 写真

ありし日の岸和田煉瓦株式会社の全体がうかがえますね。

次の写真は、まだ埋め立てられていない頃の岸和田の浜辺です(市HP掲載)。明治時代からのホフマン窯や紡績工場の煙突が林立しています。

岸和田の浜辺写真

ホフマン窯とは、窯を環状(円形、楕円形等)に配置し、連続して煉瓦を製造できるようにした窯。内部に煉瓦を積み重ね、一つの区画で焼き上がるとまた次の区画に火を移して焼成を繰り返す。そうした連続工程により煉瓦の大量生産ができます。ドイツ人のホフマンが考案し、改良型が日本各地に普及しました。(『古写真からみる岸和田の文化財4』(岸和田市教育委員会)参照)

ホフマン窯 写真

『加守郷土誌 ふるさとの歩み』には、原料の粘土採集の様子を紹介する文章が収録されています。

「天地返し」と紹介されていますが、田圃や畑の表土を除いて粘土質の土を採集し再び表土を戻して耕作するように整備したため、岸和田一帯の田圃が道路より低くなっている光景が広く見られました。

岸和田煉瓦(株)の初代社長は山岡尹方(ただかた)。山岡家の人々については、「岸和田再発見」第4弾(「大正・昭和時代の岸和田」)や第10弾(「岸和田の幕末・維新もおもしろい」)、第11~13弾「明治時代から大正へ」で紹介しています。

岸和田で製造された煉瓦で造られた建造物としては、同志社女子大学に現存するジェームズ館(国指定登録有形文化財)のほか、旧山口県庁舎及び県会議事堂(現:重要文化財山口県政資料館)、日本銀行大阪支店、神戸異人館等があり、この他にも多くの歴史的建造物に使われたと考えられています。

大正15年頃のトロッコ道

今ではその名残を見つけることは難しくなっているトロッコ道ですが、唯一南海線をくぐって通っていた跡が低いガードになって残っています。

岸和田は綿紡績・綿織物業を中心に発展します。その中心にあったのが、春木川の右岸(下の地図)に見える和泉紡績株式会社でした。

春木周辺地図 

大阪窯業(株)とトロッコ道

明治40年3月 大阪窯業(株)岸和田工場も沼野村(下野町2丁目)に設立された。 最初は近在の土を「ふご」に入れて肩引車(大八車)で運んだが、数年後より「トロッコ」に切りかえられ、トロッコの軌道は加守村を縦断し、南海鉄道の下を潜り、春木川を渡って延々と伸びていった。

山方(掘方)が掘出したものを、トロッコに積んで、一人が一台を押して運んだ。土は会社の秤貫場で検量を受けて納入された。然し次第に採土地が遠くなり、荒木から高月方面にも及んだため、馬を利用する様になり、4~5輛を曳かせて運ぶようになった。

トロッコ道は会社の中を北進し、春木川で東に折れ、永守橋(紀州街道)の南詰を菖蒲川南岸沿いに進んだ。今の下野町1丁目1、二街区辺りに、トロッコの駐車場や補修点検場及び馬小屋が建っていた。明治から大正にかけて隆盛を極めた窯業界も、関東大震災以後昭和に入って「セメント」業界に押され、泉州に十社を数えた工場も、4工場のみとなった。

昭和10年頃より、トロッコによる採土運搬も次第に姿を消し、軌道のレールは取払われていった。

そして運搬は自動車の時代となり、採土現場は山間部に延びていった。戦後も昭和32年、ついに岸和田工場に於ける赤煉瓦の製造を、同社の貝塚工場に引継いだ。

かくして建築業界は、煉瓦の時代より「セメント」「鉄」の時代に移っていった。 

 いよいよ春木川も海に到達~豊かな大阪湾

川の改修工事や下水道の整備、環境保護活動によって川の環境も改善しつつあります。でも、一昔前の風情を取り戻すには、更なる努力が必要なようです。大正時代の春木川河口周辺の様子を『加守郷土誌 ふるさとの歩み』から紹介します。

大正十年頃の春木川の川底巾は、約5米、水深約30糎、堤防巾は約10米もあった。川の中心に向って、ゆるやかな斜面に熊笹が一面に生い繁り、足の踏み入れる処も無いくらいで、樹齢を重ねた松並木が続いていた。小松原(神ケ原とも云う)と称する松林は、子供達の格好の遊び場であった。清流に白砂が映え、上汐には「イナ」の群が春和橋の辺りまでのぼってくるのを、大人達は投網で、子供達は浅瀬に待ちうけて手掴みをする、そんな光景もよく見られた。

川が流れ込む大阪湾も豊かな海で、河口近くにある泉州春木港は、春木川左岸の岸和田漁港区域で、あぐり網漁業(いわし巾着網)中心に、大阪府下の水揚げ高75%を占める府下最大の漁港です。

意外と知られていないのが春木漁業協同組合事務所前にある鳥羽一郎の“御当地ソング”「泉州春木港」の歌碑。高さ約4m、幅約3mの歌碑には「泉州春木港」の歌詞のほか、スクリューやカモメなどがデザインしてあります。同歌の発売10周年を記念して、平成15年に建てられました。

『郷土読本 泉南ノ部』(昭和9年西出書店発行)には、漁業についての記述があります。

泉南の海浜は昔より魚族に富んでいた、それは昔の海岸が一帯に松林であったと共に、海浜には種々の海草が繁茂していたため、魚族が棲むのに適したばかりでなく、昔の漁業は今日のように船で遠い沖合へ出るような事がなく、大抵は海岸で行われて、漁具や漁法の如きも今の如く進歩したものでなかったため、魚族の繁殖をさまたげるような事がなかった。故にその漁場に自分等の区域を定める必要もなく、全くの自由漁場であって、従ってその利益も多いものであったが、その後進歩した漁具が出来て漁法も之に伴って進む一方には、海岸の松林が漸次きり去られ、河水は陸地から土砂を流して海浜を埋めたため、海が浅くなって魚族の数を減じ、互いに漁利を争う如き結果となったので、明治8年大阪府令に依り、漁場の区域を定むると共に漁具にも制限を設くるに至った。

白砂青松とも表される美しい海岸美を誇った大阪湾岸ですが、埋め立て等により往時の面影は無くなりつつあります。

三代目安藤広重が描き、明治10年に出版された大日本物産図会の中の一枚に「和泉國堺浦桜鯛并魚市之図」があり、漁から戻った時の様子が描かれています。

これは堺浜ですが、泉州一帯の海岸でも同じような光景が見られたことでしょう。

「山が荒れると“海”が荒れる」と、「魚庭(なにわ)の森」に取り組む若手の漁師さんたちの活動には、考えさせられることが沢山ありますね。

大日本物産図絵 画像