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岸和田の港について(ミニ岸和田再発見第6弾)

印刷用ページを表示する 2015年8月4日掲載

 だんじり祭りの見所の一つとして有料観覧席も設置されるカンカン場の呼び名が、船の重量を測る「看貫」に由来すること、また、この場所がかつて港であったことはご存知の方も多くおられるでしょう。それでは岸和田に港がいつ出来たかと言えば、意外に知られていないのではないでしょうか。

 寛政3(1791)年8月、高波によって海岸付近の人家や土蔵が流される被害がありました。藩は浦奉行に命じて土砂留めを築かせるとともに、難破船や人命を救助し当地の繁栄のために防波堤を築いて船入場としました。しかし、わずか2、3年で河口の一部が土砂で埋まって船の出入りができなくなり、文化14(1817)年に改めて築港し完成しました。

 ところで、当時の岸和田港の様子を描いた絵図を見ますと、魚之棚川(古城川)河口部分を沖から押し寄せる波から防ぐように突堤が描かれています。突堤上は松林となっており、その尖端には航海の安全を祈る不動堂がありました。不動堂は昭和8年の港改修時に移され、金比羅社・住吉社を合祀して浪切神社となりました。また、絵図の大北側には灯台の役割を果たしたと考えられる灯篭が描かれています。浪切神社には文化9年に建てられた灯篭が今も残り、それには「永代常夜灯」「金比羅大権現」と刻まれています。この灯篭が絵図に描かれた灯篭そのものという訳ではなさそうですが、浪切神社の灯篭もまた夜間の船の航行を助けた「灯台」の一つだったのかもしれません。

大正13年制定の岸和田市歌に「陸には絶えぬ黒煙、港出で入る百の船・・・」と歌われたように、旧港が岸和田の近代産業発展に果たした役割は大きく、戦前の海岸付近には岸和田紡績や岸和田煉瓦などの大企業が建ち並んでいました。今では埋め立てられて往時を想像することは困難ですが、岸和田港は岸和田の近代的発展の基点だったのです。

魚之棚川尻船入場図 

「魚之棚川尻船入場図(写)」郷土文化室所蔵