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「『倦鳥(けんちょう)』と岸和田」(ミニ岸和田再発見第30弾)

印刷用ページを表示する 2017年5月1日掲載

 俳誌『倦鳥』を創刊・主宰したのはホトトギス派の俳人松瀬青々(まつせせいせい)。
 明治2(1869)年大阪市の生まれ、明治31(1898)年、正岡子規の「明治三十一年の俳句界」(『ホトトギス』1月号)にて「大阪に青々あり」と賞賛を受けます。

 子規に褒められた青々は感激して同32年4月上京、句会に参加しますが、翌月に『ホトトギス』の編集に当たっていた高浜虚子(きょし)が病に倒れます。

 虚子の依頼を受けて7月に勤務先の銀行を退社し、9月に東京に移って『ホトトギス』の編集係に就きます。

 しかし翌年にホトトギスを退社、大阪に戻り大阪朝日新聞社に入社して、会計部に勤めながら俳句欄選者を担当します。これが朝日俳壇の始まりで、この仕事は死ぬまで続けています。

 翌年『宝船』を創刊・主宰。新聞社の仕事に多くの時間を割かれたため『宝船』を明治34(1901)年1月号から、門人たちの共同編集に改め、発行所は西区北堀江の森古泉(もりこせん)宅に移し、頁数も32頁を堅持することにします。

 森古泉は、明治37年5月に岸和田に転居するまでの2年半、青々にかわって編集を務め、『宝船』の基礎を固める上で大きく貢献しました。

 大正3(1914)年10月に『宝船』を休刊。大正4(1915)年11月、『宝船』を『倦鳥』と改題し再出発します。

 1925年6月、『倦鳥』を『林表(りんぴょう)』に改題し、これとは別に青々の個人誌として『倦鳥』を創刊します。1926年1月には、両者を合併して『倦鳥』に戻しました。

 その頃の泉州では、岸和田で大正8年に旧制岸和田中学の教員が中心となって「茅渟吟社(ちぬぎんしゃ)」が活動を始めますが、一般が参加できるものでなかったため森古泉が中心となって新たに倦鳥直系の俳句会を結成することになり、大正10年7月に岸城神社において第1回「岸和田倦鳥句会」が開催されました。貝塚では大正11年に「千古吟社(ちこぎんしゃ)」が結成されました。

 他には泉佐野の「佐野吟社」や岡田浦の「月見草句会」の活動があります。昭和2年に松瀬青々が高師浜(高石)に居を移したのを期に「岸和田倦鳥句会」を解散し、住吉から泉州一帯を網羅した「和泉倦鳥句会」に再編し第1回句会を昭和2年5月に淡輪で開いています。

 さらに大きな転機となったのは昭和2年1月から『倦鳥』の発行所を岸和田の森古泉宅に移し倦鳥発行所としたことです。

 以来、昭和19年4月の終刊まで欠号の出ることなく続けられました。この間、森古泉編集により倦鳥発行所から昭和14(1939)年と昭和15(1940)年に青々選の10年間の俳句を3千句収録した『倦鳥句選 春・夏』の2冊が刊行されています。

 森古泉も松瀬青々同様に書画に巧みであり短冊や色紙、俳画等多くの作品を遺しています。希望も多かったようで『倦鳥』に古泉の俳画頒布の告知も掲載されています。また『倦鳥』の表紙にも描いた絵が使われています。

古泉短冊
古泉短冊

昭和18年2月『倦鳥』第32巻第2号
昭和18年2月『倦鳥』第32巻第2号