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「50歳からの第二の人生で、日本地図を完成させる」(ミニ岸和田再発見第29弾)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2017年3月2日掲載

 図書館で『伊能忠敬(いのうただたか)』を探すと、100冊以上の本に出会えます。教科書にも登場するので、みんなが知っている人物です。
 
 伊能家は千葉県で造り酒屋や米問屋を営み、田畑も多く持っていましたが、利根川堤防の修築工事・新田開発などで身に付けた測量技術を発揮しました。

 50歳で隠居し、江戸に出て幕府の天文方高橋至時(たかはしよしとき)に入門して西洋天文学を学び、自ら天文観測も行いました。

 寛政12年(1800)、56歳の時、幕府の命を受けて奥羽街道から蝦夷地(えぞち、北海道)の南、東海岸までほとんど自費で測量。以後17年間、文化13年(1816)まで合計10回にも及ぶ全国の沿岸測量を行い、実測による日本初の全国図の制作に取り組みました。全国図は「大日本沿海輿地全圖」(だいにっぽんえんかいよちぜんず)と言われ、伊能の死後3年を経て門弟の手により文政4年(1821)に完成しました。 
 岸和田には、文化2年(1805)8月に和歌山から北上して訪れています。
8月16日の『測量日記』には、「先手は佐野村下より初め岸和田城下まで測る。止宿は岸和田北の濱春木屋吉蔵。家作可也。此日樽井村まで岡部左膳目付役西出吟太夫・同路次七右衛門・浦役下川清左衛門・中井林蔵・郷役西出幾右衛門・同林八十八等出て挨拶。浦方支配役永原茂十郎鎗にて出迎挨拶。此日晴天測量。」と書かれています。

岸和田周辺の地図

 図は、その時に作成された岸和田周辺の地図です。見えにくいのですが、岸和田城の左下に☆印があります。測量の誤差を修正するために天体観測をした場所を示す記号です。

 伊能の測量機器のうち、望遠鏡は貝塚市の岩橋善兵衛の製作によるものです。岩橋善兵衛は、宝暦6年(1756)、貝塚市脇浜で生まれました。成人してから、昼は眼鏡職人として眼鏡のレンズを磨いて販売して生計を立てながら、オランダから輸入した望遠鏡を見て研究を重ね、寛政5年(1793)、38才の時、独創で望遠鏡を作りました。板で筒を作り、レンズをはめた望遠鏡で「窺天鏡(きてんきょう)」と名付けました。

紙を幾重にも巻き、漆を塗った「一閑張(いっかんばり)望遠鏡」や、竹筒の望遠鏡などを制作。当時の日本で、自らレンズを磨き望遠鏡の製作を専業としていたのは善兵衛だけで、性能や製作数も他の職人を圧倒していました。

左上は対物レンズの木製部分に「岩橋」銘の刻印、真ん中は伊能忠敬が愛用した善兵衛作の望遠鏡、右下は接眼レンズの金属部分に「岩橋」銘あり。

 

  • 上の写真は、伊能忠敬が愛用した善兵衛作の望遠鏡。長さ2m25cmで一閑張(国宝、伊能忠敬記念館所蔵)
  • 左上は、対物レンズの木製部分に「岩橋」銘が刻印されています。
  • 右下は、接眼レンズの金属部分に「岩橋」銘が見えます。