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「村相撲(むらすもう)の風景」(ミニ岸和田再発見第27弾)

印刷用ページを表示する 2016年9月4日掲載

村相撲

東京相撲や大阪相撲のような大相撲のプロ集団のほかに、江戸時代後期になると、村の氏神や郷社の祭礼に試合・奉納していた素人相撲が、「親方(頭取)」を中心に相撲部屋を組織するようになります。活躍の場は、伝統的な宮相撲や夜相撲などで部屋の交流も盛んでした。岸和田藩の経済の中心であった泉佐野に二つの相撲部屋があり、岸和田でも岸和田相撲協会が知られています。

幣(へい)相撲といって、施主が幣を優勝の印として出した相撲が牛滝でも度々開催されたようです。

だんじり祭りに併せて各町で相撲が開かれ、藩主を前に御前相撲が行われた記録も残っています。

明和9(1772)年に岸和田藩で出された質素倹約を定めた「三ヶ条御条目」には、たとえ豊年であっても相撲・狂言(芝居)その他費用の多くかかる行事は禁止することと定められるほど、盛んに行われていたことになります。

各地の墓地には相撲碑と呼ばれる石碑(墓碑)が沢山残されています。「糸錦藤之助」「不動山」「初嵐初治郎」「都嶋」などがあり、いかに相撲が盛んであったかを伺うことができます。

昭和5年2月14日に泉南郡山直上村字積川で行われた大角力興行(おおずもうこうぎょう)の番付が残っています。

相撲の番付の画像

二段目に前頭として表記されているのは、地元の村相撲の力士達と思われます。岸和田市関係では、内畑、新在家、尾生、大町、中村、稲葉、小松里、加守、そして岸和田の名が見えます。

番付中央にあるように、この相撲を総理として取り仕切ったのは糸ヶ濱由松です。彼については、「泉州百年史・第1巻」に詳しく紹介されています。本名、伊東由松は、慶応3年に大工町で生まれ、相撲をやろうと東京に出て十両まで進みますが、そこでやめて岸和田に戻ります。明治23・24年の京都相撲三段目に糸ヶ濱由松の名前が見え、水間寺にある明治42年の板番付には岸和田相撲協会 後見糸ヶ濱由松とあります。岸和田では並松町に住みましたが、昭和19年1月に78才で他界しています。

朝日松清治郎(あさひまつせいじろう)

岸和田出身で大相撲に名を残したのは朝日松清治郎。明治17(1884)年大北町生まれ、初め熊取谷、後に広瀬姓となります。父は、大阪相撲に名を残した朝日松清吉。大阪の猪名川部屋に入門、以降東京と大阪を行き来しています。

東京では、井筒部屋から朝日松の四股名(しこな)で取ります。写真は、その頃に出された絵葉書です。大正6(1917)年6月場所から前頭筆頭格で大阪に復帰。以後は三役から幕内中軸で取り、大正11(1922)年に相撲を廃業し、大阪市内で寿司店を営みます。昭和14(1939)年11月、55歳で死去。

朝日松清次郎の写真

優勝三回、準優勝二回、167cm・148kgのあんこ体型で、左四つからの突き、寄りを得意としました。

参考文献

  • 「相撲の史跡5」相撲史跡研究会編・刊 1987
  • 「百人の佐野物語 第二集 ~相撲部屋と力士達~」泉佐野の歴史と今を知る会刊 2002
  • 「百人の佐野物語 第44集 ~相撲部屋と力士達4~」泉佐野の歴史と今を知る会刊 2004
  • 「泉州佐野の村相撲」泉佐野の歴史と今を知る会刊 2008
  • 「岸和田市史 第3巻」岸和田市刊 2000
  • 「泉州百年史・第1巻」中井 保著 近畿公論社刊 1971