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岸和田藩江戸藩邸で・・・(ミニ岸和田再発見第21弾)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2016年2月24日掲載

 江戸における岸和田藩の藩邸は、上屋敷が山王北に、中屋敷が深川に、そして下屋敷が渋谷にありました。藩主やその家族が暮らして江戸城に一番近いのが上屋敷です。現在は千代田区永田町2丁目で都立日比谷高等学校があります。隣は日枝神社になります。門前の坂は、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守(和泉伯太藩)の三邸があったことにより「三べ坂」と呼ばれています。

嘉永三年の外桜田永田町絵図

 その藩邸で事件が起こります。時は天保10(1839)年5月17日、藩医が自殺したのです。藩医の名は小関三英(こせきさんえい)。彼は、山形県鶴岡市に生まれ、江戸に出て蘭方医吉田長淑(ちょうしゅく)に医学・蘭学を学び、鶴岡に帰って医を業とします。1822年仙台藩医学館蘭方科講師に招かれ、翌年に着任しますが、まもなく辞して京都の蘭医小石元瑞(こいしげんずい)の推挙により岸和田藩に召し抱えられ、岸和田に移ります。しばらくして友人の橋本宗吉(はしもとそうきち)が大塩平八郎による切支丹一件につき厳しい取り調べを受けることになり、藩に累(るい)が及ぶことをおそれ、文政12年、一旦藩を離れて大阪中之島に開業します。宗吉はその著書『阿蘭陀始制(おらんだしせい)エレキテル究理原(きゅうりげん)』で、熊取の中家で雷から電気をとる実験をしたことで知られる大阪の蘭学の祖とも言われる人物です。

 天保2(1831)年江戸に出て、桂川甫賢(かつらがわほけん)方に寄寓(きぐう)し、蘭学者たちと交わり、渡辺崋山(かざん)らと知り合います。翌年に再び岸和田藩に仕官し藩医となり山王北の岸和田藩邸の長屋に居住します。1833年天文台翻訳掛を命ぜられ、『厚生新編』の翻訳に従事します。また渡辺崋山、高野長英(ちょうえい)らとともに進歩的洋学者の団体尚歯会(しょうしかい)に参加し、地理、歴史を講じるなど有力メンバーとなります。1839年「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」が起こり、崋山の入獄、長英の自首により、「やがて自分も逮捕される」と先走りして、思いこみだけで岸和田藩の江戸藩邸で、自殺してしまいます。長英はこういう三英に対し、「小関はもともとあまりにも実直小胆な生まれつきだったので、すぐ世評を気にするクセがあった。だから今回も世論の噂を頭から信じ、早まって自殺してしまったのである」と書いています。彼の業績としては『泰西内科集成』『西医原病略』などの医書、さらに『那波列翁(ナポレオン)伝』等を翻訳しました。特に『那波列翁伝』は幕末の志士たちの精神的な糧となったとされます。詳しくは「江戸のナポレオン伝説」(中公新書)などで知ることができます。 

 崋山や長英は詳しく研究されていますが、三英については不十分で、諸説あるというのが現状です。『小関三英』(半谷二郎著)や『小関三英伝』(杉本つとむ編著)などを参考にしていただくと小関三英の生涯を通して幕末における洋学の広がる様を実感していただけるのではないでしょうか。