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木活字本と相馬九方(そうまきゅうほう)(ミニ岸和田再発見第17弾)

印刷用ページを表示する 2015年10月17日掲載

平安・鎌倉時代には多くの仏典等が寺院等で印刷刊行されていましたが、秀吉の朝鮮出兵により李朝の銅活字による活字印刷がもたらされたことを切っ掛けに日本独自の木の活字が生まれ、印刷物が制作されるようになります。江戸初期に見られる木活字版は「古活字版」と呼ばれます。時代とともに販売目的に大量の印刷物を短期間に制作する必要が生まれ、印刷は活字版から整版と言われる一枚の板木に2頁分(1丁)印刷する方式に移行し、活字版は影を潜めます。教育の普及により読み書きのできる人口が増大し仮名書きの読本が多くの職人の分業により効率的に制作されます。出版点数(冊数ではありません)でみると江戸初期には年間100点未満ですが末期には800点を超し、千点の年もあります。しかし漢文や学術書などは発行冊数も少なく高価であったため筆写本も多く作られ、流通している本の三分一に及んだようです。また個人や寺院、藩などが出した狭い範囲での私家版が二割強あって本屋などで流通させる目的で出版された「町版」は四割強という数字が出ています。

このように整版印刷で多くの本が流通するなかで江戸の末期に再び木活字版が出されるようになります。これはかなり趣味的なものと見られ、漢詩文を愛好する人達の自費出版に用いられたものが多く、その活字も次々と人手をわたっています。この時代の木活字本は「近世木活字本」と言われますが出版点数も少なく、印刷部数も少ないので一般にはあまり知られていません。そんな「近世木活字本」を制作したうちの一人が岸和田ゆかりの相馬九方です。九方は江戸時代後期儒者で、讃岐高松藩士の家に生れ、徂徠学を学び、嘉永四年、岸和田藩主岡部長発(ながゆき)に招かれ藩校講習館の開校とともに教授となります。幕末の動乱期を藩校での教育に専心し多くの英才を送りだします。知人の奈良五条の儒者森田節斎(もりたせっさい)が門弟の吉田松陰(よしだしょういん)を伴って嘉永六年(1853)岸和田を訪れ、九方らと夜を徹して議論したことは良く知られています。彼には兵法や漢詩についての著作もありますが、「破レ家ノツツクリ話(やぶれやのつつくりばなし)」等四種を木活字版で刊行しています。

破レ家ノツツクリの話原本画像破レ家ノツツクリ話原本画像その2

 「破レ家ノツツクリ話(やぶれやのつつくりばなし)」

「破レ家ノツツクリ話」は鬼国山人(新宮涼庭・しんぐうりょうてい)の著作で、彼は京都の南禅寺隣に医学学校と文化サロンを併せた「順正書院」を建てて多くの門弟を育てました。経済にも明るく、諸藩の財政指導や融資を行なう一方、経済書も著します。この本も経済と政治について書かれたものです。九方を岸和田藩に紹介したのがこの著者である新宮涼庭でした。この本の序文に九方は「頃日、聚珍版数万字を得、因って五十本を榻写(とうしゃ)して、之を同士之士に贈る」と書いています。つまり、活字を入手して50部を印刷して配ったとあります。岸和田に来る5年前、弘化三(1846)年と四年の二年間に、大阪に住んだ頃に活字を入手し印刷したものです。