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「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」と岸和田藩 (ミニ岸和田再発見第14弾)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2015年8月4日掲載

 「朝鮮通信使」は朝鮮王朝から日本国王に対して信(よしみ)を通わす使者としての使節団です。

 江戸時代は鎖国政策と言われますが、「4つの窓口」(松前、対馬、薩摩、長崎)を中心に独自の国家外交を展開していました。対馬(つしま)は朝鮮半島との交易拠点であり対馬経済の柱になっていました。

 「朝鮮通信使」は室町時代から度々訪れていましたが、秀吉が朝鮮半島に出兵し中国(明)も巻き込んだ戦、文禄・慶長の役(1592~8年)のため国交断絶してしまいます。

 この戦については多くの著作が出版されています。図書館のホームページで本を探せることをご存じだと思います。こんな事が知りたいという言葉を「フリーワード」に入力すると関連図書が一気に表示されます。ちなみに「文禄・慶長の役」で探すと45冊表示されます。一度お試しください。

 この戦で5万人とも6万人とも言われる多くの捕虜を日本に連れ帰ります。多くの陶工のみならず、織物や金属活字、儒学などが日本にもたらされ、日本の朱子学の興隆、陶芸技術の飛躍的発展がみられたことはよく知られています。

 朝鮮半島との交易の再開を望む対馬藩の努力で修交のための使節団を1607年に招聘することに成功します。これが第1回の朝鮮通信使です。第1回から3回目までは修交のための協議と捕虜を連れ戻すことを目的としたため、回答兼刷帰使(かいとうけんさっかんし)と呼ばれます。

 この交渉の過程で話を進めるために対馬藩は家康からの国書(こくしょ)を偽造します。さらに、回答使の返書も偽造します。偽造は度々行われ、幕府を巻き込み藩主と家老が対立する「柳川一件」といわれるお家騒動に発展します。非常に興味深い話でこれを取り上げた本も沢山あります。

 朝鮮通信使はソウル(漢城)を出発し、500名近くの大使節団が海を渡り瀬戸内海を通って大阪に上陸します。ここから淀川を通って伏見まで、あとは陸路を江戸に向かいます。通信使一行には多くの学者や文化人、楽隊や曲技団なども参加していたため、一生に一度の大イベントを見ようと沿道は見物人で溢れたようです。その様子は記録され、各地で絵に残されています。

 大阪に上陸した際の接待役は大阪町奉行(東・西)等が務めました。更に100名近い船員等が大阪に残って待機したためその世話も必要になります。やがて大阪町奉行だけでは対応しきれなくなって白羽の矢がたったのが譜代大名であった岸和田藩です。第7回(1682年)~11回(1764年)の5回を担当、岸和田から多くの武士や学者、町人が動員されたことと思われます。通信使一行に加えて警護の武士など隊列は二千人にもなったという記録もあります。これだけ大勢の世話をするとなると現代でも周到な準備が必要で岸和田藩も神経をすり減らしたことに違いありません。言語が通じないためのトラブルも沢山記録されています。当時のコミュニケーションは漢文による筆談で、その際の記録が岸和田にも残されています。また本町は、藩主から拝領したという唐人笠兜(朝鮮笠兜)を今も祭りの纏に使っています。多くの町民も協力してこの難題に取り組んだことが伺えます。