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日本のチャップリン「喜劇」生みの親(ミニ岸和田再発見第13弾)

印刷用ページを表示する 2015年8月4日掲載

 松竹新喜劇のルーツであり日本に「喜劇」を誕生させたのは曽我廼家五郎(そがのや ごろう)、本名「和田久一」。父は岸和田市稲葉町出身でした。明治10年に誕生しますが、幼少の時に父が他界、母の実家である堺市の浄因寺に身を寄せ小坊主として少年時代を過ごします。祖父は久一を僧侶にするつもりで教育しましたが大の芝居好きからついには役者を志し、歌舞伎役者中村珊瑚郎の内弟子となり、珊之助という芸名をもらい舞台を踏みます。旅回りの一座で知り合った中村時代(ときよ)を誘い、俄からヒントを得た笑う芝居の準備を始め、一座を結成。その後、芝居「無筆の号外」が大当たり、曽我兄弟にあやかり名付けた曾我廼家兄弟劇は一躍脚光をあびます。

 喜劇役者五郎の足跡は「日本のチャップリン-小説・曽我廼家五郎」(沼口勝之著、新人物往来社刊)に詳しく描かれています。稲葉町の菅原神社には五郎寄進の玉垣が残され、里帰り公演をしたという話も伝わっています。

大正5年の番付 公演案内はがき

大正5年の公演番付                 公演案内はがき

 曽我廼家五郎劇は、全国各地の一流劇場を常打ちにするなど、大人気劇団となり、みずから脚本を書き、演出、主演をする喜劇団の座頭のスタイルを確立、「日本の喜劇王」の名をほしいままにします。一堺漁人(いっかいぎょじん)と言うペンネームで生涯一千本以上の脚本を書いたと言われていますが、代表作を集めた全集が2回刊行されています。(「曽我の家五郎喜劇全集」大正11・12年大鐙閣刊、全12巻126編収録)この全集には実際の公演の台本を印刷したように配役(役者名)も記載されています。昭和5~8年にはアルス社から「曽我廼家五郎全集」(全12巻99編収録)が刊行されました。口絵として舞台写真が多数収録されています。これらの全集は、演劇を志す者にとってバイブルのような存在で、借りては必死になって書き写したようです。

公演の台本

公演の台本

 チャップリンは大の日本贔屓(ひいき)で身近な使用人の多くが日本人でした。そんな彼が初めて日本を訪れたのは昭和7年5月14日。翌日には犬養首相の歓迎会に出席する予定でしたが、彼のきまぐれで急遽予定を変更して相撲見物に。そして起こったのが五・一五事件。実は、チャップリンも標的とされていてその歓迎会の場を狙われていたのです。計画はそのまま実行され首相は凶弾に倒れます。このすぐ後に二人の喜劇王は出会っています。五郎が公演している新橋演舞場をチャップリンが訪れます。楽屋を訪問したチャップリンと歓談の後に色紙にお互いが富士山を描き交換します。五郎は日本一の富士山が大好きでサイン求められるとよく富士山を描いています。

チャップリンと五郎

 彼の作品は松竹新喜劇だけでなく度々上演されています。歌舞伎でも四代目鴈治郎のたっての希望で「幸助餅」が二度上演されています。彼の名前を心に留め置いてください。きっと、この岸和田ゆかりの作家原作の演劇に出会うことがあると思います。

五郎の色紙(富士山)

五郎の色紙(富士山)