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江戸中期、膳所(滋賀県)から岸和田への里帰り「岸和田紀行」(ミニ岸和田再発見第11弾)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2015年8月4日掲載

 現代のように簡単に旅もできなかった時代に書かれた八編の紀行文を集めた『近世女人の旅日記集』(前田淑編・葦書房)に菅沼逸(すがぬまいつ)著「岸和田紀行」が収録されています。

 逸は特色ある人物の伝記を集めた伴蒿蹊著「近世畸人伝(きんせいきじんでん)」に「尼破鏡」として紹介されています。

近世畸人伝

「近世畸人伝」より「尼破鏡(部分)」

概略すると、破鏡(はきょう)は蕉門十哲の一人「菅沼外記(げき・定常・曲翠)」の妻。和泉岸和田藩士の女で、和歌を好み、筑紫箏の名手である。夫が同輩を殺害し切腹、子も切腹し家は断絶。堺に居る甥の竹田楚竹(医師)の家に寄寓し、破れた鏡は再び照らさないということで「破鏡」と名乗り、髪を下ろし箏を教えながら夫や子を弔って過ごしました。

 夫が自刃したのは紀行文が書かれた4年後の享保二年(1717)です。

 姉妹も今は岸和田に住む姉と二人のみ。逢いたい気持ちが募り夫と姪、供を連れて里帰りします。3月3日に膳所を出発、15日までの旅日記には興味深い記述が随所にあります。

 当時の旅は歩きが基本、1日で10時間程歩いて20~40km進みました。淀川下りの船着き場がある伏見には11時過ぎに到着、逆算すると5時頃の出発です。昔の旅の出立は早い。今のように,道は整備されていませんし、駕籠や馬が利用できるとはかぎりません。夕方になると出歩く人は少なく、暗くなって知らない土地を歩くのは危険で、明るいうちに宿を確保する必要がありました。

 荒天の中、三十石舟で天満の八軒屋に到着したのは夕暮れ。翌日も早朝に出発、天王寺を回って住吉に到り、浜寺から高石あたりでしょうか、海岸で貝を拾い集め、名産の松露を買い求め一緒に膳所に送り届けます。夕暮れにようやく岸和田に辿り着きます。5日から9日まで5日間実家に逗留し、姉の寺や岸和田城、三の丸神社、水間寺等に出かけます。10日には帰路につき、まだ星も残る早朝の別れで涙に道も見えぬ程でした。深日の浦からは難所の連続、磯伝いに石の上を歩き、坂の上り下りは数知れず、ようやく小島に着きます。翌日も、嵐のなか命からがら和歌山に辿り着き、和歌浦に宿をとり眠れぬ夜を過ごします。粉河寺は2日前に山門を残して全焼していて、盗賊が賽銭箱に放火したという噂を聞きます。桜の吉野山を巡り、岡寺へ詣でた後、あへ野という所では殺人事件に遭遇します。最終日は、東大寺、春日大社を巡り、井手あたりで駕龍を軒下に入れて雨宿りしていると、知り合いの旅の僧と出会います。道を急ぎ、宇治、六地蔵を経て朧月を道しるべに膳所に帰り着きます。

 情報も少ないなか各地の名所旧蹟を巡っていることとその来歴に詳しいことに驚きます。俳諧などを通じて多くの人々と交流があり、幅広い見識を備えた知識人であったことが伺えます。

 この本は郷土資料コーナーにあります。岸和田の文化財2所収「破鏡尼とその著岸和田紀行」(出口神暁著)、江戸時代女流文芸史(旅日記編)所収「菅沼破鏡尼と『岸和田紀行』」(前田淑著)にも詳しく紹介されています。