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大正・昭和時代の岸和田 その3

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2012年4月19日掲載

大正・昭和時代の岸和田 その3・戦後の岸和田

 「昭和20年(1945)8月15日、真夏の太陽が目に痛いばかりにもえていた。この日の正午、ポツダム宣言の受諾を告げる天皇の放送によって、日本国民は3年8か月にわたった大平洋戦争の悲痛な終末を知った。…この日をさかいに、日本の大きな転換がはじまった。岸和田の歴史もまた、この日から新しい一章がつくられていくのである。」(『岸和田市史第5巻』、以下『市史』)

 その第1章は、女性の方が早く踏み出しました。今回も女性たちの動向を中心に、岸和田の戦後を探ります。でも、戦後のことは体験者も多く、「これは違う」「大事なことが抜けている」などのお叱りを受けそうですが…。

 図書館としても、『市史』を中心に図書館にある各種資料から発見したことを紹介しつつ、皆さんといっしょに「再発見の旅」をしているつもりです。不充分なところ、疑問に思ったところは、あなた自身が図書館の資料も活用して補い、さらに「再発見の旅」を充実させていただくようお願いします。

昔の図書館 写真 

昭和3年から28年まで活躍した岸和田市立図書館(その後の経過は、この中でも紹介しています)

食べるため、生きるため、子どものため…、必死に行動した女性たち

 終戦直後の市民の暮らしは、戦時中よりもむしろ苦しかったようです。『市史』では「終戦の衝撃の大きさとは別に、その日その日を生きる苦しみがはじまった」と、食糧不足の中で、買出し、闇取引き、物々交換など、市民生活の窮乏ぶりが描かれています。その状況の中で、女性たちは食べるため、生きるため、何よりも子どもたちのために必死に行動しました。

 『日本女性の歴史 女のはたらき』(総合女性史研究会編 角川書店)には、「戦後最初の米よこせデモは大阪府中河内郡の主婦15人によって始められた。1946年の食料メーデーには25万人もの人が皇居前広場に集まり、女たちも赤ん坊を背にして参加し、ミルクを要求した」など、女性たちの様子が紹介されています。

 『市民がつづった女性史 きしわだの女たち』(岸和田市立女性センター、きしわだの女性史編纂委員会編著 以下『きしわだの女たち』)にも、「『戦争未亡人』となった堺町の池田キクは6人の食べ盛りの子どもを抱え、何としても明日食べさせるお米が欲しいと中町の配給所に行った。配給所の前で押し問答をしているのを聞きつけ、またたく間に近くの主婦が集まった。同じ思いで警察へ行ったがラチがあかず、市役所へ行って聞いてもらおうと集まった主婦は100人近くいた」などのエピソードも紹介されています。

 婦人参政権獲得へ、すばやく行動

 婦人参政権の獲得をめざす女性の動きも素早いものでした。敗戦の11日後には「戦後対策婦人委員会」を結成し、政界への働き掛けを始めました。「長年、運動をしてきた市川房枝は、やはり与えられるのではなく獲得したという実感をもちえたかったのだろう。敗戦の翌日から…思いを同じうする女たちに呼びかけ、9月24日、市川房枝を幹事とする政治小委員会が婦選獲得の要望書を作成」し、幣原内閣がその要望を受け入れ閣議決定しました。(『女たちの運動史』吉武輝子 ミネルヴァ書房)

 『日本女性の歴史』には、「閣僚の一人堀切善次郎はのちに、市川房枝らの戦前の婦選運動に敬意を寄せていたことを語り、『婦人参政権はマッカーサーの贈物ではない』と明言している」と書かれています。

 昭和21年(1946)4月10日、女性は初の選挙権を行使。岸和田の女性の投票率は66.6%(男性75.1%)でした。

特殊慰安施設と廃娼運動

 ポツダム宣言受諾後、政府(内務省)が真っ先に出した指令は、占領軍向けの性的慰安施設の設置でした。昭和史研究で有名な半藤一利氏は、『昭和史(戦後篇)』(平凡社)の中で、「戦時、『敗けたら日本女性はすべてアメリカ人の妾になるんだ。覚悟しておけ』と盛んに言われた悪宣伝を日本のトップが本気にしていたのか、いわゆる『良家の子女』たちになにごとが起こるかわからないというので、その防波堤として、迎えた進駐軍にサービスするための『特殊慰安施設』をつくろうということになりました。そして早速、特殊慰安施設協会(RAA)がつくられ、すぐ『慰安婦募集』です。いいですか、終戦の3日後ですよ。…いくらなんでも、連合軍第一陣がすぐさま慰安施設に赴くとは思いませんがねえ。…」と述べています。

 「戦後処理のための国家的緊急施設の事務員」とし募集したため、内容を知らずに多くの女性が殺到したそうです。このために政府は当時のお金で1億円という巨額の融資を図ったようですが、性病が蔓延したためGHQは翌年の3月、Raa施設への立入り禁止令を出しました。また、その前の1月、最高司令官名で「公娼廃止に関する覚書」を発令しています。しかし、それによって売買春の制度がなくなったわけではありません。

 矯風会をはじめ多くの女性団体が何度も国会に請願し法律が提案されますが、何度も否決。ようやく昭和31年(1956)に政府提出の売春防止法案が可決・成立(全面施行は昭和33年4月)しました。慰安施設を含めたこれらのいきさつは、『はじめて出会う女性史』(加美芳子著 はるか書房)をはじめ、女性史関係の多くの図書に詳しく書かれています。

GHQ「民主化5大政策」のトップは「女性の解放」

 連合軍総司令部(GHQ)は「ポツダム宣言」に基づき、9月22日には、日本軍の武装解除ならびに軍国主義の抹殺、戦争犯罪人の指名と処刑、個人の自由と民主主義の助長、経済上の非軍事化、労働・産業および農業における民主主義的勢力の助長、平和的経済活動の再開、侵略財産の賠償、在外資産の処分および返還などの「日本管理政策」を発表しました。

 そして、10月11日には総司令部を訪問した幣原首相に対して、(1)婦人参政権による日本女性の解放、(2)労働組合の結成奨励、(3)学校教育の自由化、(4)秘密訊問ならびに民権を制限する制度の撤廃、(5)経済諸機関の民主化を中心とする「5大政策」を要求しました。「婦人参政権による女性の解放」をトップに掲げたのは、「女性の解放なくして民主化はない」と考えていたからでしょうか。

 これらの「戦後改革」に対する岸和田の行政や市民の対応は、他の都市と較べてもかなり早く積極的に受け入れたようです。

労働組合の結成も早かった

 「労働組合の結成奨励」が2番目に掲げられたのも今から考えると意外な感がしますが、この面でも岸和田はかなり早く対応しました。

 『市史』では、「岸和田市内における戦後最初の労働組合の結成は…官公労組では全逓と市職員組合、民間労組では日本鍛圧ではなかったか」とし、教員組合は、昭和20年(1945)「12月に結成準備会が開かれ、明けて21年1月に結成大会が行われた。この結成は大阪府下で一番早かった」と書いています。

 労働組合法が第89帝国議会で成立したのは昭和20年(1945)12月、施行は翌年の3月1日。それを待たずに動き出しました。ただし、労働組合の結成については、「占領軍と政府による上からの指導」の場合や「戦前の労働運動・社会運動の経験者による労働組合づくり」など多彩だったようです。

 例えば、市職員組合の場合は、「初代組合長の田中徳太郎氏(当時、総務課長)が岸和田市の公会堂の壇上にたち『連合軍の命令で労働組合をつくらなければならない。…わたしも労働組合とはどんなものであるのか知らんが、よろしくお願いしたい』と述べた」と、『あしたへ~岸和田市職労40年のあゆみ』に書かれています。

 教員組合は、校長を含め全員が加入して結成しました。『市史』では、教員の諸手当支給だけでなく欠食児童に対する給食実現の要求も掲げ、市長から「欠食児童200人に麦の給食をおこなう」回答を得たこと。結成に当たって、教員たちのためらいを解消するため、前代議士の井坂豊光、市政調査委員森貞一、市長福本太郎の3人を顧問としたことも紹介されています。『岸教組40年史年表』には「結成30年記念座談会」も収録され、創立当時の様子が話されていますが、顧問は「井坂豊光氏、松田竹千代氏、それに森貞一氏に頼んだ」と書かれています。さて、どちらが正しいのでしょうか…。

全国に先駆けた公選制教育委員会の設置

 3番目の「学校教育の自由化」についても、岸和田は全国に先駆けた取組みを展開しました。

 戦後の教育改革の重点の一つは、教育の地方分権化を実現することでした。そのための行政組織として昭和23年(1948)に公選制の地方教育委員会が設置されます。

 岸和田市はその法律が決まる前から「教育準備委員会」を発足させ、法公布後直ちに市議会で満場一致で可決。10月5日に最初の教育委員の選挙が行われました。

 この時、教育委員会は都道府県と5大都市にのみ設置が義務付けられ、他の市町村は2年の猶予期間がありました。設置を義務付けられていない市町村で実施されたのは全国で21市16町9村。大阪府下では堺市と岸和田市のみでした。その堺市も、岸和田市が可決したとの報を得て、設置に踏み切ったというエピソードがあります。そして岸和田市の投票率は7割以上、大阪府で第一位でした。

新しい教育の創造へ  大阪府で唯一モデル校に選ばれた城内小学校

 昭和22年(1947)、政府は教育基本法と学校教育法を公布し、男女共学を原則とした「6・3・3・4制」による新たな教育が始まります。新たなカリキュラム作りのため、岸和田市は大阪府で一番早く小学校教育研究会を発足させ、城内小学校が新教育の実験校として大阪府下で唯一選ばれました。

 『市史』では、連合軍大阪軍政部の教育担当官が訪れ、実験校に選んだ経過がルポ風に描かれています。その中で「軍政部の月例視察のうみだした成果は、城内校におけるPTAの早期結成(全国で最初)と給食の早期実施(府下で最初)であった。これらは、あるとき昼食に麦飯とたくあんを供したことから、話が児童や教員の食糧が不充分であることに及び、学校と父兄とのつながりの話に及んで、そこから飛びだしてきたものであった」ことも紹介しています。

 城内小学校の『創立百周年記念誌 城内』にも、新教育のモデルスクールになった頃の内容が、写真とともに紹介されています。

 『きしわだの女たち』では、「戦前から研究校として名高い学校とともに府下で一校、新教育の実験校に(のち常盤小学校も)選ばれたことは特筆されるべきことであろう」と、城内小学校の教職員たちが新たな教育の創造のために奮闘した内容や「城内校のモデル授業を参観する教師で『蛸地蔵駅から学校まで行列ができた』というほど多くの教師が訪れた」ことなどが紹介されています。

昔の城内小学校 写真

昭和30年頃の城内小学校

生活綴り方教育で全国に注目された山滝小学校

 もう一つ、全国から注目されたのは山滝小学校の生活綴方教育などの取組みです。同校のある泉北郡山滝村は昭和23年に岸和田市に編入・合併されました。岸和田の他の学校がプラグマティズムによるアメリカ型の「新教育」研究に傾倒していたころ、山滝独自の教育を創造していきました。

 『市史』や『岸和田の女たち』には、「全日本美術展で3回の学校賞や多くの賞を受け、1952年には山滝の子どもたちの絵が130点余りも入選」したことや、子どもに自分たちの生活の現実をありのままに綴らせて、子どもがゆきあたる問題をみんなで研究し、生活の勉強をする生活綴方教育など、教師たちの熱心な取り組みの中で大きな成果を上げてきたこと。鈴木祥蔵をはじめ50名を超える著名な研究者が次々と山滝に訪れ、研究会を指導したこと。「通信簿と宿題のない学校」と「朝日新聞」にも紹介され、同校の新しい試みが全国的に注目を浴びたことなどが詳しく紹介されています。

新岸和田市警察(自治体警察)が誕生

 警察制度の改革も進められました。「終戦の年の昭和20年10月4日、総司令部は、思想警察その他いっさいの類似機関の廃止、内務大臣および警察関係首脳部その他日本全国の思想警察および弾圧活動に関係のある官吏の罷免、市民の自由を弾圧するすべての法規の廃止または停止を指令」(『市史』)しました。

 そして、国家警察との間に指揮命令関係のない自治体警察として、昭和23年(1948)3月7日に新岸和田市警察が誕生します。「警察指揮権を市町村に委ねると、横の連絡が悪くなり治安状況を一層悪くするのでは」という危惧もありましたが、岸和田市警の場合、「犯罪の検挙率が30%余りから70%余りに向上し」「総司令部から、くりかえし出される『闇取締り』の指令に対しても、市民生活の実情に応じて、緩急よろしきを得ることができた」(『市史』)面もあったようです。

旧岸和田警察署 写真

旧岸和田警察署

新しい地方自治法を活用し行動した市議会

 岸和田市議会も新しい地方自治法を縦横に活用し行動しました。『市史』では、一地方都市の政治に関係のないことでも、あえて地方議会の意志を表明することが多かったことを紹介し、「これは一方では地方住民の世論を喚起しつつ、国に働きかける一つの有効な方法であった。当時、大阪府下の市町村の中では、岸和田市議会がこのことに最も熱心であった」と書いています。

 そして、市議会の狭い枠を越えて取り組み、全国をゆり動かした覚せい剤(ヒロポン)撲滅運動について、

 「岸和田市が中心となって全国的な覚せい剤撲滅運動が展開され…厚生大臣および大阪府知事から感謝状を受け、岸和田市議会史上特筆すべき事件」と評価し、「この運動の中心であった森は、戦前、左翼運動にも関係し、戦時中、捕えられていた経歴もあり、戦後の市議会では、しばしば警察関係の疑惑を市議会で告発し…その森が音頭をとった運動に、警察が積極的に協力…これも民主警察のせいでもあった」と指摘。何となく当時の雰囲気が感じとれますね。

 その市町村警察は、昭和29年には都道府県警察に統合され、政府が都道府県警察を直接指揮できる集権的な制度に変えられますが、その際も岸和田市議会は警察法改正反対の決議を行い、さらに要望書を国に提出して「市警」の存続を強く求めました。

 『市史』には、「全国の市町村のなかでも、岸和田市はいち早く反対論を打ち出した」「この警察法の改正が戦前の軍国主義時代への逆戻りを意味するというような、革新的な立場からの反対ではなく、われわれの市の政治も治安もわれわれの手でと考える住民感情を反映したものであった」と書いていますが、これも岸和田らしい「自治意識」を感じませんか。

ヒロポン撲滅 ポスター 写真

  

原水爆禁止運動の先頭に立った婦人会

 昭和29年(1954)3月1日、アメリカの水爆実験によって漁船第5福竜丸の乗組員23人が火傷を受け、久保山愛吉氏が亡くなるという事件が起きました。世界で唯一の被爆国日本からまたもや犠牲者を出したことで、原水爆禁止運動は急速に盛り上がりました。

 運動の先頭に立ったのは女性たちでした。岸和田市婦人会協議会は、原水爆実験禁止署名3万を集めて市議会に要請。市議会は泉州地方の諸都市に先がけて「原子兵器の製造実験禁止等に関する決議」を行いました。その趣旨説明では「当市においてもすでに婦人会の方々がこの運動の先達として、切実な平和への願いを込めて、熾烈な署名運動となって展開…」と述べています。

 その後も市議会は積極的な動きを示し続けます。昭和30年8月、広島で最初の原水爆禁止世界大会が開かれますが、市議会からも2名の議員が参加。以後の世界大会にも参加し続けます。

 昭和32年(1957)3月にはイギリスの水爆実験阻止決議、同年5月には沖縄返還並びに原水爆製造実験禁止の要望決議を満場一致で可決。8月25日には原水爆禁止岸和田市民大会が競輪場で開催され、世界大会に参加した議員が報告を行いました。

 そして、8月30日には「原水爆禁止岸和田協議会」を結成。会長には町会連合会会長、副会長に青年団連合会と婦人会連絡協議会の会長、事務局長に地区労代表が選ばれました。翌33年、34年には岸城中学校の校庭で原水爆禁止市民大会が開催されるなど、まさに全市民的・超党派的な原水爆禁止運動として取り組まれたようです。

天守閣の復興と図書館の新築

 岸和田城の天守閣は1827年に雷火で焼失したが再建されず、本丸・二の丸の門・櫓なども明治になって取り壊され、昭和29年(1954)11月に竣工するまでの間、城あとだけになっていました。

 天守閣復興のきっかけとなったのは、昭和28年に岸和田市庁舎建設のために図書館が撤去され、一時的に岸和田高校旧校舎に仮り住まいすることになったとき。同年8月、岸和田市Pta協議会から「読書にふさわしい静かな環境と史的意義をもつ千亀利城址こそ図書館の建設場所として最も適しているように思われる」との請願書が出され、図書館新築の問題と天守閣復興の問題がからんで現実味を帯びたのです。9月には岸和田城址保存会からも請願書が出され、市議会で採択されました。

 天守閣復興は、戦後岸和田の復興のシンボルだったかもしれませんね。

 

 工事中岸和田城天守閣 写真

 工事中の岸和田城天守閣(昭和29年) 

近江絹糸岸和田工場人権争議

 昭和22年(1947)には労働基準法が公布され、労働省が発足。婦人少年室も新設されます。しかし、これらによって前近代的な労務管理が一掃されたわけでなく、女性たちの苦闘は続きます。近江絹糸紡績会社の闘いはその一例であり、日本の労働運動史上に残る人権争議として有名です。

 同社は大正6年(1917)に滋賀県彦根市で創立。戦争中は落下傘製造や航空機製作もし、戦後は綿紡績に進出し飛躍的に発展しました。本社は大阪市、工場は彦根・長浜・岸和田・中津川・大垣・津・富士宮にあり、従業員約12,500名で業界最多でした。岸和田工場は西大路町で、昭和18年(1943)に近江絹糸が中山織布を吸収合併して操業。同社の急成長の裏には前近代的な労務管理と劣悪な労働条件がありました。

 近江絹糸が労働争議史上、一躍有名になったのは昭和29年(1954)です。大阪本社の従業員有志が労働組合を結成し22項目の要求書を提出。会社に拒否されるとストライキに突入します。

 要求書の中には、「仏教の強制絶対反対」「結婚の自由を認めよ」「信書の開封・私物検査を即時停止せよ」「密告者報奨制度・尾行等一切のスパイ活動及びスパイ活動強要を止めよ」「外出の自由を認めよ」などが掲げられました。これだけでも当時の会社の労務管理のひどさがわかります。

 岸和田工場でも6月4日に岸和田支部を結成し572人中540人が参加。会社側は「工場閉鎖」を通告、組合はスト権を確立、そして会社が雇った暴力団と組合員とのトラブルなど争議は長期化しますが、中央労働委員会の3回目の斡旋案で、組合側の要求をほぼ受け入れた形で争議は解決しました。この人権争議の内容は、『市史』や『きしわだの女たち』に詳しく紹介されています。

繊維産業を支えた若い女性たち

 岸和田市は繊維産業を中心に復興しました。昭和35年(1960)には、市内工業の中で、事業所数51%、従業員数70%、製造出荷額で76.9%を繊維産業が占めています。

 そして、その労働力は圧倒的に女性によって支えられていました。当時の女子工員の多くは、四国、九州、中国地方などから中学卒業後に集団就職で来た人たちであり、寄宿舎をあてがわれて住込み工として2部交代制で働きました。

 『きしわだの女たち』には、「2週間程度新人専用の寮での生活の訓練が開始され…入寮してから同室の先輩たちによって日常生活の躾が行われる。掃除の仕方、洗濯のしかた…中学校を卒業したての女性にとって生活の基本や社会人の基本もみっちりしこまれた」「各寮には、寮長、寮母が配属されていた。寮母は寮生の勤務管理や私生活の指導を行い、同時に寮の売店の管理も受け持っていた」など、彼女たちの生活を紹介しています。

 また、貝塚市公民館の「綿の会」が聞き取り調査等でまとめた『綿の中の青春』、泉南歴史研究会の『わがまちの繊維産業と働く人々』も当時の状況を紹介した貴重な史料です。

隔週定時制高校に学んだ女性たち

 その後、高校進学者の数が増え中学卒の就職者が減ってきます。これらの工場の求職者や従業員の中でも定時制高校への通学を希望する者が多くなりますが、2部交代制という勤務形態のため通学できません。そこで、女子中卒者の求人難に悩む繊維関係者から、隔週定時制の開校・誘致の声が高まり、昭和41年(1966)に鳳高校横山分校、和泉高校、貝塚高校、泉南高校の4校に隔週定時制課程が設置されることになります。

 その内容は、「泉州地方の繊維工業の勤務形態に合わせて、『さき番』勤務(6時ころから午後2時ころまで)のときは、終業後の午後3時から6時まで、登校して授業を受け、次の週の『あと番』勤務(午後2時ころから午後10時ころまで)のときは、午前中に府立桃谷高校通信制課程に所属して、宿舎で自習し、双方の履修単位を合わせる形態を原則」(『市史』)にしていました。

 また、貝塚市では「貝塚市立女子高等学院を設立し、私立大阪繊維工業高等学校通信制課程と連携して、そのスクーリングという形で公民館を利用して2部制の授業を行っていた例」(『市史』)もありました。その内容は『貝塚女子高等学院』(貝塚「綿の会」)にも紹介されています。

 これらは、施設・設備、教員配置等の環境が充分整わないままの出発であり、教員の負担や生徒の疲労度が大きく、事業所により自習する環境や時間的配慮にも差がみられるなど多くの問題も抱え、脱落する生徒も多かったようです。和泉高校の場合、41年入学者93人のうち卒業者は37人でした。

 それでも彼女たちは、「私は、『学校に行ける』この嬉しさだけで田舎から出て来て、働きながら学びました。この学校があったからこそです」と、がんばりぬきました。

 彼女たちの労働実態は、業種や企業規模などによってかなり違ったようですが、中学校を卒業したての少女が、親元を離れて働き学ぶだけでもつらい日々だったと思います。また、そのような思春期の少女を預り、躾や生活管理にも気を配った寮母の方々の苦労も並大抵ではなかったでしょう。

 和泉高校隔週定時制は、平成10年(1998)に32年間の幕を閉じました。その内容は、『和泉高校百年史』や、和泉高校定時制課程家政科が発行した『三十二年の軌跡』に詳しく紹介されています。同校の校庭には「泉州の繊維産業を担いし乙女達の学舎 きんもくせいの香りと青春の思い出の地」と刻まれた記念碑が立っています。

ファッション

 連続テレビ小説『カーネーション』では、ディオールやサン・ローランのデザインが話題になり、トラベラーズライン、オートクチュール、プレタポルテ等々のファッション用語が交わされていましたね。

 図書館には、洋裁や編み物などの実用書だけでなく、『20世紀ファッションデザイン史』(常見美紀子著 スカイドア)、『ファッション学のすべて』(鷲田誠一編 新書館)などの本もあります。興味のある方はどうぞお読みください。

小児マヒ生ワクチンを求めた運動(『きしわだの女たち』参照)

 昭和34年(1959)に青森県で小児マヒが集団発生し、翌年には全国各地に広がりました。36年(1961)には岸和田でも2人の患者が発生。母親たちは学習会を開き町会に溝や便所の一斉消毒もしてもらいましたが、不安は消えません。「そんなとき、生ワクチンがただ一つの予防薬だと知った。それは日本にはなくてソ連(ロシア)にはたくさんあると。それでは市役所にお願いにいこう」と、母親たちは暑い夏の日、連日のように市役所に足を運びました。

 全国的な運動の高まりのなかで1961年7月、ついにソ連の生ワクチン『ポンポン』を子どもに飲ませることができ、小児マヒの流行がくいとめられました。

 このとき、地労協青年婦人部が母親たちと一緒に市長との交渉や市民向けビラ配布等にも参加し、市職労が『小児マヒ対策協議会』の事務局団体になったことも注目されます。この頃から、女性運動が労働組合などと連携し合うことが多くなるのです。

 それは、働く女性が増えたこと、労働組合内でも青年部・婦人部が確立し、女性も大きな役割を担うようになったことが大きな要因ではないでしょうか。それに伴って、労働組合も女性・生活者の視点から、地域住民の要求や市政の課題に目を向け始めたとも言えるでしょう。

 岸和田地区労働組合協議会(地労協、のちに地区労)は、昭和31年(1956)のメーデー集会の日に、上部団体(総評9、総同盟6、全繊同盟10、中立9)の違いをこえて34単組の参加で結成されました。「上部団体が違っていても同じ町の労働組合だから一緒にやろうではないかと協力した」そうですが、これも何となく岸和田らしいですね。

働く母親たちを中心に大きく広がった保育所運動

 女性の権利拡大に伴って働く婦人も増加します。しかし、当時女性は「20歳くらいで結婚し辞めていく」のが普通。それを乗り越えて、結婚・出産後も働き続けるには「職場内の理解」だけでなく、夫・家族の理解と協力も得なければなりません。「子どもがかわいそう」と揶揄されることも…。「男女同権」を現実化させる道のりは険しく、それを切り開くには大変な苦労があったことでしょう。

 もちろん、現在のような「育児休暇」の制度はありません。保育所の増設と「産休明けから預けられる」0歳時保育や長時間保育の実現はさしせまった切実な要求に高まり、昭和40年(1965)ごろから働く母親を中心に保育所運動が活発に行われるようになります。

 岸和田市では昭和30年(1955)から42年(1967)まで保育所数はほとんど変化なし。その中で、昭和41年(1966)に「保育所をつくる会」が結成され、公立の乳幼児保育所建設の署名運動と合わせ、自分たちで共同保育所を作ることも決めました。『きしわだの女たち』には、「春木旭町に50坪の土地を借り受け、母親たちが自らスコップで土入れし、足で踏み固めて整地した。資金は借入金と一口500円のカンパに訴え、布団、ベッド、おもちゃ、おしめにいたるまで全て家にあるものを持ち寄った。…」など、共同保育所づくりに苦労した様子も紹介されています。

 昭和45年(1970)12月、「岸和田保育所運動連絡会」が発足。保育所増設、0歳児保育・長時間保育、保母の労働条件改善などを要求し、次々と保育所が増改築されるようになります。昭和50年(1975)には市内すべての公立保育所で長時間保育が実現しました。

春木競馬場廃止運動の先頭に立った女性たち

 保育所運動を担ったのは主婦でしたが、春木競馬反対運動の先頭を切ったのも女性たちでした。この運動は、大阪府政を揺るがす大運動に発展しました。地域社会に地殻変動をもたらし、その後の女性運動に及ぼした影響の大きさからみても、岸和田の戦後女性史の中で最も特筆すべき運動でしょう。

 春木競馬は、昭和35年(1960)から岸和田市を含む16市で構成する「大阪府都市競馬組合」が主催することになっていましたが、37年(1962)の競馬法の改正で、府県あるいは開催地しか開催権がなくなりました。しかし、3年の猶予期間が設けられ40年(1965)にも3年延長。43年(1968)の府議会で府営としての再開が決定されましたが、必ず向こう3カ年に限ることなどが付帯決議として決められます。

 ところが、45年(1970)11月、府市長会・町村会長会の合同会議で「競馬関係者の生活と市町村財政を確保する」ことを理由に、競馬継続が確認されました。競馬場に隣接する宮前町婦人会は、継続の報が伝えられた直後に役員会、婦人会総会を開き、強力な反対運動を行うことを決定。わずか5日間で約1万人の反対署名を集め、大阪府に陳情しました。

 

春木競馬場最後のレース 写真

春木競馬場の最後のレース(昭和49年)

婦人会のあり方も提起し、地域の地殻変動へ

 このような時、一貫して競馬反対の立場を貫いてきた市婦人会協議会の会長が、同協議会総会で不信任され、退陣するという事態が発生したのです。

 会長反対派は「市から助成金をもらっている婦人会が、市の方針と対立するのは問題だし、会長は新旧交代の時期でもある」と言い、会長支持派は「競馬継続を策する市当局の陰謀だ」と強く反発。『市史』では、「この婦人会の内紛の中で…大芝地区婦人会が市婦人会協議会を脱退したのを皮切りに…宮前町婦人会も『自主性を失い、時代に逆行した協議会についていけない』と脱退した。その後も春木・朝陽地区の婦人会が脱退…」と、「不信任問題の背景には競馬継続に賛成か反対かという意見の対立もあったが、そればかりでなく婦人会はどうあるべきかということについての認識のちがいも内在していた」と指摘しています。

 競馬反対運動は、婦人会の内紛騒ぎによって出鼻をくじかれましたが、さらに地域の労働組合等も積極的にかかわり、当時の府知事選挙の争点の一つになる大運動へと発展。その後も府政を揺るがす最大の政治課題になりました。

 そして、昭和49年(1974)3月16日のレースを最後に廃止され、現在の中央公園に生まれ変わりました。それらの経過は『市史』や『きしわだの女たち』に詳しく紹介されています。また、『春木競馬場廃止運動に取り組んだ女性たち』(猿橋績子編)には、この運動の最大の功労者というべき川崎種子さん(岸和田市婦人会協議会会長)の遺品と、北村悦さん(宮前町婦人会会長)の克明な行動日記や新聞の切り抜きなど、貴重な資料が収められています。

「戦後、強くなったのは女性と靴下」と言われた時期もありましたが…

 戦前までは、保護者(父兄)の同意がなければ大きな買い物も借金も出来ない「無能力者」扱いされていた女性は、新しい憲法や民法で「男女同権」が謳われ、結婚や離婚も本人の自由意思でできるようになりました。そして、社会的な問題に対しても積極的に行動するようになりました。当時、ナイロンなどの化学繊維の登場と合わせて「戦後、強くなったのは女性と靴下」と言われたことを覚えている人もいるでしょう。

 女性が「強くなった(?)」最大の要因は、婦人選挙権や民主的権利の獲得です。しかし、それだけでしょうか。『国防婦人会』(藤井忠俊著 岩波書店)の最後に「隣組以後、主婦は銃後の主役から主人になりつつあった。その延長線上に、戦後、食料を求めて走りまわった婦人の行動力、米をよこせと政府にせまった迫力、そして消費世界の実権と運動力をもつにいたった婦人たちの姿を重ねることは、あながち的はずれとはいえぬであろう」という興味深い指摘がありました。「15年戦争の銃後形成の中で蓄積された婦人の力量と組織活動の経験」が、終戦直後からの女性の力強い行動の基盤になったということでしょうか。

 コシノジュンコさんの「そんな女性の生活力と生命力によって、もしかしたらいまの日本があるのかもしれませんね」(『人生、これからや』Php研究所)という言葉もわかるような気がしませんか。

「社会教育は人づくり、人づくりはまちづくり」をめざした学級・グループ連絡会

 昭和50年(1975)頃から岸和田市の社会教育の改革が進みはじめます。「もっといろんなことを学びたい」という女性たちの願いを、市の職員も積極的に受け止め共に取り組む中で、女性たちは視野を広げ、さらに新たな一歩を踏み出します。

 その内容の一部を『きしわだの女たち』から抜粋すると…

 (1)1975年、社会教育課は、まず、婦人学級と婦人会を分離、公民館事業として学級生を募集、さらに参加者による運営委員会で自主運営を図るよう再編した。

 (2)1977年には試験的に4つの自主学習グループが生まれ、翌年には単独市費による委託方式の自主学習グループ制度が発足した。

 (3)婦人学級も家庭教育学級も「他の学級と交流したい」との認識が高まり、それぞれの連絡会が結成され、1977年に自主学習グループの連絡会も加わった「学級・グループ連絡会」が発足した。

 (4)1978年、市が始めた「学習リーダー研修会」は、1980年から連絡会研修委員会が企画・立案するようになり、「婦人教養セミナー」や「市民公開講座」も連絡会が企画運営した。

 (5)1980年に社会教育課や公民館の主催事業に「保育室」が設けられ、4つの学級に専任保母を公費負担で派遣することが実現。1982年には登録制の保育ボランティア制度が発足し、1987年、保育を必要とするすべての家庭教育学級に岸和田市からの託児報償費がついた。

 また、先進地域への視察や他都市との交流、全国研究大会への参加なども、職員と連絡会メンバーがいっしょに取り組み、共に学び合いながら改革を進め、「記録をすることは考えること」を合言葉に毎年『道しるべ』を発行、昭和56年(1981)からは『わだち』を5年ごとに発行しています。もちろん、それらの冊子は図書館にもあります。

 その後、「学級・グループ連絡会」で育った女性たちは、多方面で積極的に活動を広げます。「社会教育は人づくり、人づくりはまちづくり」という言葉が実感として伝わってきますね…。

岸和田女性会議の結成と女性センターの開設

 岸和田の女性たちは幅広い分野で活動し、さらに前進し続けます。岸和田市もそれに応え、昭和61年(1986)、社会教育課に女性問題担当者を配置。翌年には自治振興課に女性政策係を設置し「きしわだ女性問題を語る100人のつどい」をスタートさせます。8回にわたる「つどい」の内容は、『報告書』としてまとめられています。

 そして、昭和63年(1988)12月、「岸和田のすべての女性が、思想・信条を超えて結び合い、男女平等、女性の地位向上、人権を守り平和維持のための活動を展開する」ことを目的に、「岸和田女性会議」が結成されました。小篠綾子さんもその代表世話人に名をつらねています。

 その11か月後の昭和最後の年、平成元年(1989)11月、待望の女性センターがオープンしました。

「広く及ぼせ 母心」の伝統が岸和田の地に脈々と…

 戦後の女性の動向を中心に見てきましたが、これらの行動の底流には絶えず「子どもたちのために…」という思いが流れているように感じませんか。戦後の食糧難の時も、原水爆禁止運動も、小児マヒ生ワクチンの運動も、保育所増設運動も、春木競馬廃止運動も「子どもたちの現在と未来を守る」強い意志が原点ではなかったでしょうか。

 振り返れば、大正時代には山岡春らが「広く及ぼせ母心」を合言葉に活動しました。その精神が戦後も脈々と岸和田の地に受け継がれてきたのでしょうか。皆さんはどう思われますか。

全国コットンサミットin岸和田

 「カーネーション」では、糸子さんが孫の里香さんといっしょに暮らす場面がしばらく続きましたね。モデルとなったコシノヒロコさんの次女由実(ユマ)さんも、今は立派なデザイナーです。

 そのユマさんが、昨年5月に岸和田の浪切ホールで開かれた「全国コットンサミットin岸和田」に出演したことをご存知ですか。その『報告書』も図書館にありますよ。

 岸和田は「多様性の総合都市」

 「岸和田再発見コーナー」では、岸和田市は「歴史のタテ糸に、多面的な地形が生み出すヨコ糸が織りなされ、だんじり祭が各地域の人々を結びつけ、多様性豊かな『独特の紋様』を描き出す街」と想定し、その「紋様を探る旅」を続けています。

 今回、『市史』の中で興味ある一節に出会いました。

 「昭和40年(1965)3月16日の市議会で、中澤市長は『山、山林、海と、臨海という土地であり、商業都市でもあり、工業都市でもあり、全く多様性の総合都市』ということばを使ったが、これはまことに巧みな表現であった。…」まったく同感です。

 次回は、神於山・神於寺を中心に、周辺地域の「再発見」の旅に出る予定です。よろしく…。