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久米田池・久米田寺

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2011年8月3日掲載

 久米田寺と言えば何と言っても「行基まいり」。毎年10月の祭礼に12町のだんじりが集結する様は壮観です。

 久米田池は、水面面積45.6ヘクタール、周囲2.65キロメートル、貯水量約157万トンの大阪府内最大級のため池。四季折々に変化する池面の表情に合わせて、年間100種類近くの野鳥が飛来します。

 それらを楽しみながら多くの人々が散策・ジョギングに訪れます。まさに、岸和田市の最高級のスポットです。

 そこで、「岸和田再発見 第3弾」は、久米田池・久米田寺をテーマに、豊かな歴史と多面的な地形が織りなす「紋様」を探ることにしました。

行基が14年もの歳月をかけて築造した久米田池

 久米田池は、干ばつに悩む農民の苦難を救うため、僧行基が奈良時代の725年から738年まで、農民を集めながら14年もの歳月をかけて築造しました。

 『久米田池郷の歴史』(1998年、久米田池土地改良区発行)によると、「当時機械力のなかった池の開削工事は、鍬や鋤を用いた手掘り作業で行われ、土砂の運搬は畚(モッコ)を用い肩で担って運ぶ作業で、まさに汗と脂と血にまみれた難行、苦行の連続」であったこと。しかし、その結果、池尻、田治米、大町、箕土路、下池田、小松里(額)、荒木、中井、加守(西ノ内)、吉井、春木などの地域にまで大きな恩恵をもたらしたこと。久米田寺については、「僧行基が開祖した名刹でありますが、もと『隆池院』とも呼ばれ、…久米田池を維持管理するために、池のほとりに建立された…池の築造工事中は、池で働く人々の休憩所や湯茶の接待所として使用されていた」ことなどが紹介されています。

 また、同書では、律令時代から奈良・平安時代の農業の変遷など久米田池誕生の歴史的背景や鎌倉時代から南北朝・戦国時代……昭和32年の久米田池土地改良区の設立までの歴史的経過がまとめられ、久米田池・久米田寺の歴史の概略を知ることができます。

行基ってどんな人?

 それでは、行基ってどのような人だったのでしょうか。行基(668~749)は、和泉の大鳥郡に生まれ、15歳で出家。山林修業や仏教学研究を経て、民衆の中に入って仏の教えを説きながら様々な活動を行いました。しかし、当時の朝廷からは「庶民を惑わす者」として弾圧を受けます。それにも負けずに活発に布教活動を行いながら、各地で寺院や灌漑用のため池、用水路、橋、道路などをつくり、多くの庶民から慕われました。

 こうした功績を無視できず、聖武天皇は大仏造営に際し、行基に勧進役(働く人や寄付等を集める役)という大役を頼み、次いで大僧正という位もおくりました。

 行基を知るには、『行基』(吉川弘文館)、『天平の僧行基』(中央公論社)、『行基―生涯・事跡と菩薩進行』(堺市博物館)などが参考になります。

律令時代・奈良時代の歴史も勉強しませんか

 なぜ、行基は各地で灌漑土木事業に熱心に取り組んだのでしょうか。また、弾圧を受けていた行基が、なぜ聖武天皇の大仏造営事業に取り立てられたのでしょうか。日本史【分類番号210.1】日本古代史【分類番号210.3】の本の中からその手掛かりを探ってみましょう。

 大化の改新(645年)以降、天皇を中心とする律令体制の整備が進み、701年には「大宝律令」が制定されます。しかし、民衆の生活は厳しく「開墾開発」が大きな課題になります。その中で、723年には「三世一身法」を制定し、新しく用水路など灌漑施設をつくって開墾した場合は3代にわたって私有を認めるという積極的な開墾奨励策をとります。さらに、天平15年(743)には、自分で開墾した水田は永年にわたり私有権を認めるという「墾田永年私財法」を公布します。行基が民衆の中に入って活躍したのは、まさにその時代の変遷の渦中です。

 栄原永遠男氏は「三世一身法が出されると、地方豪族層を中心に開墾熱が高まったのは当然であった。人々から菩薩としたわれた僧の行基は、このような動向をうけとめ、地方豪族層とともに溝池などの農業関係施設をつくりつつ、民衆教化にあたったのである。」(集英社版日本の歴史4「天平の時代」)と指摘。上田正昭氏も「行基の活動は新たな形態へと展開するが(池溝開発など)、『三世一身法』をうけとめての行為であったとみなす説には説得力がある。」(なにわ再発見第2号所収「天平の高僧・行基」)としていますが、あなたはどう思われますか。

当時の仏教は先進文化の象徴

 それでも、「なぜお坊さんが土木工事を指導したのか?」は疑問ですよね。それを知るためには、仏教の歴史【分類番号180】も少し学ぶ必要があるようです。

 当時の仏教やお坊さんは、現在の私たちイメージする「宗教としての仏教」とはかなり違うようです。当時の仏教は、「先進科学・先進文化の象徴」と言えそうです。「仏教を導入するということは、それにともなう建築や土木の技術、絵画や彫刻や織物の技能、文字や音楽の知識などの導入でもあり、それらの技術者・知識人の輸入でもあった。」ようです。(『仏教入門』創元社発行 瓜生中著)

 その意味で、お坊さんは先進文化の取得者であり、技術者・知識人です。『日本の歴史3律令国家と万葉びと』(小学館)では、「仏教経典には医療にかかわるものから、科学技術や世界の構造にかかわるものまである。寺院の建築などに関しても、土木や建築の技術が必要になる。仏教僧侶の中で優秀な者は、こうしたさまざまな分野の学問を身につけていた。言わば律令制度の創始時期に当っては、僧侶は第一級の知識人集団だったのである。」と書かれています。なるほど…。

 そして、『土木の歴史絵本』第1巻では、『暮らしをまもり工事を行ったお坊さんたち』(瑞雲舎 作かこさとし)として、道登・道昭・行基・良弁・重源・空海・空也・一遍・忍性・叡尊・禅海・鞭牛が紹介されています。児童向け絵本なのですぐに読めますよ。

久米田寺靖霊殿には、三蔵法師の分骨も祀られています

 久米田寺の靖霊殿に、『西遊記』に登場して有名な三蔵法師の遺骨も奉納されているのをご存知ですか。「なぜ?」「どんな関係があるの?」と聞きたくなりますよね。

 遣隋使・遣唐使を派遣するなど、仏教という「先進文化」を取り入れるために大変な苦労があったことはご存知でしょう。その苦労は、中国にとっても同じこと。多くの人が仏典を求めてインドに渡りました。その一人が玄奘(げんじょう)三蔵法師です。三蔵法師とは経蔵、律蔵、論蔵という「三蔵」のすべてをマスターした数少ない僧侶のことですが、その中で玄奘は最も有名で、「玄奘=三蔵法師」のように思われています。

 「玄奘三蔵(600年~664年)は幾多の困難を経てインドに入り、16年の間に各地の仏蹟を訪れて大量の仏典を中国に持ち帰った。…さらに玄奘は持ち返った膨大な仏典の翻訳事業に従事した。彼の翻訳はそれまでの翻訳経典を一新するすぐれたもので、…現在でも漢訳仏典の多くは玄奘訳が使われている」(前掲『仏教入門』)そうです。

 7世紀半ばに唐に留学した道昭は、その玄奘三蔵の弟子になって学び、日本に持ち帰って民衆の中に入り数々の事業を行ったと伝えられています。そして、行基はその道昭から大きな影響を受けてその事業を受け継いだと言われています。それで、何となくつながってきましたね。

久米田池周辺には数多くの古墳群が

 久米田池周辺には、数多くの古墳があります。諸兄塚、光明皇后塚と呼ばれていたものもありますが、彼らが活躍した時代は古墳が造られた4~5世紀とはかけ離れていますので、そこに眠っていることはありません。

 しかし、行基の功績が代々伝えられる中で、後世の人々が久米田池周辺の古墳を見て、「これは、行基に協力した橘諸兄の墓に違いない」「これは聖武天皇に行基を取り立てるよう進言した光明皇后の墓だろう」と希望的に推測したことは想像できます。

久米田合戦の舞台になった諸兄塚(貝吹山古墳)

 また、古墳群のある久米田公園付近は、戦国時代には戦乱の舞台にもなりました。

 永禄5年(1562)、三好長慶の弟義賢(実休)は久米田寺に陣所を構え、紀伊から根来衆らを率いて北上してきた畠山高政の軍勢と合戦に及びます。いわゆる「久米田合戦」です。その内容は『岸和田市史第2巻』に紹介されています。

 また、岸和田市が市制70周年記念として平成4年に発行した『岸和田のむかし話』でも「久米田の古戦場」として「久米田公園内にある通称諸兄塚なる前方後円墳が実休の本陣だったと言われ、法螺貝吹き鳴らして全軍の士気を鼓舞した貝吹山の名を留めています。世に言う久米田の合戦ですが、実休は奮戦むなしく流矢に当って討ち死にし、その首塚が、今も額町に残っています。」と紹介しています。貝吹山古墳の発掘調査では、合戦に際して掘られたと思われる堀跡も見つかっています。

久米田池には、多くの伝説・昔話が残されています

 『岸和田のむかし話』には、「乙御前(おとごぜ)伝説」(久米田池の築造工事の際、労役者の湯茶や給食等のまかないに骨身を惜しまず毎日働いた田治米の里の娘「とよ」に、行基が「御礼をさしあげたい。」と聞いたところ、「それならこの池をください。」と言うなり大蛇となって池に飛び込み「池の主」になった)を題材にした「昔話」も掲載されています。「和泉の大宮・兵主神社の境内に今なお蛇渕が現存し、久米田の主が歳時を選んで忍び来るという伝承だけが、ひそやかに語り継がれている。」とも書かれ、久米田池築造の意義が再認識されます。

 また、行基堂を守るために里人がお地蔵さまをお祀りした「火消し地蔵」の話、浦島伝説とも似通った「酢壺池伝説」等、久米田池と関係のある「むかし話」も掲載されています。もちろん、これらは歴史的事実や伝説の内容も作者によって脚色されていますが、楽しく読むことができます。

久米田寺は、貴重な国の重要文化財も所蔵

 岸和田市内には国の重要文化財に指定されている文化財が、建造物を除けば現在のところ8件ありますが、そのうち7件は久米田寺が所蔵されています。「紙本墨書(しほんぼくしょ)楠家文書」「紙本墨書久米田寺文書」「紙本墨書大塔宮令旨(おおとうのみやりょうじ)」「紙本墨書北畠覚空(きたばたけかくくう)書状」の古文書類4件と、「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)星曼荼羅図(ほしまんだらず)」「絹本著色仁王経(にんのうきょう)曼荼羅図」「絹本著色安東蓮聖(あんどうれんしょう)像」の絵画類3件です。古文書類は平安末~室町時代の古文書で、特に楠木正成の書状など全国的にもきわめて珍しい貴重な古文書が多く含まれています。絵画類は平安後期の仏画の名品として知られる曼荼羅2点と、鎌倉中期に久米田寺を中興した際の大檀那で幕府の有力者でもあった安東蓮聖の肖像画です。これらは『久米田寺の歴史と美術―仏画と中世文書を中心に―』(岸和田市立郷土資料館)に写真図版と解説が掲載されています。

農業用水や養魚池として利用され、四季折々の変化が楽しめる久米田池

 久米田池は主に農業用水やカワチブナなどの養魚池として利用されていますが、大阪府の「オアシス整備事業」により親水公園として整備され、岸辺には野鳥観察デッキや専用歩道の設置,鳥類やその他の動物の生息場所として重要なヨシやガマ、ヤナギ類なども植栽されています。

 1月には無病息災を祈願して「大とんど祭」が行われ、4月には池堤に百数十本の桜が咲き、10月の祭りには12町のだんじりが勇壮に「行基まいり」をするなど四季折々の変化も楽しめ、多くの人々が連日散策やジョギングに訪れます。

 池面の表情も満水、渇水など四季折々の変化を見せます。1月は完全に干上がりますが、2月初旬には牛滝川から水を入れはじめ、4月上旬には満水に達します。この頃フナやモロコなど、養魚の稚苗が池内に放流され、秋まで肥育されます。

 5月前後の田植前から池の水は水田に供給され、夏場中に水位は徐々に低下します。降水が適度にある年の水位低下は緩やかですが、降水のない年は急激です。

 10~11月、水田に水を入れる必要がなくなると、よく太った養魚の代表種「カワチブナ(ゲンゴロウブナの一種)」やタモロコ、スジエビなどを捕獲しやすくするため、さらに池の水を抜きます。一気に全部抜く年もありますが、12月までの間に徐々に抜く年もあります。

久米田池は、年間100種類近くの鳥が飛来する国際空港

 実は、このような変化が、多くの鳥類が飛来する理由のひとつなのです。久米田池では年間100種類近くの鳥類が観察でき、きしわだ自然資料館では「鳥の国際空港」と呼んでいます。

 干潟が出来る期間が長いので、いろいろなシギやチドリが見られます。ナベヅルが飛来した2006年は、例年より水を抜きはじめるのが遅い上、徐々に抜くという年でした。

 水を抜くタイミングや速度は、台風の有無など防災上の理由、養魚の主力商品であるカワチブナの肥育具合や淡水魚の相場によって左右されます。カワチブナは、昔は食料として出荷されていましたが、現在は「へらぶなの釣り堀」に釣魚として出荷されるのが多いそうです。

 池の水は遅くとも12月下旬には完全に干上がり、次に水を入れる2月初旬まではこの状態です。また、2002年3月に改修工事が終わったあと、水面全体にコカナダモやホザキノフサモなどの沈水植物が繁茂し池全体を覆いつくし、これが池内で繁殖する鳥類「カイツブリ」の営巣数の増大をもたらしました。そして、2010年にはカイツブリのほか、バン、オオバン、カルガモ、オオヨシキリ、セッカなどが繁殖しました。これ以外にもヨシゴイなど、いろいろな鳥類がやってきています。

 野鳥について知りたい人は【分類番号488】のコーナーへ。『野鳥図鑑』(山と渓谷社)、『野鳥観察図鑑』(成美堂出版)、『鳥の雑学事典』(日本実業出版社)などが参考になるでしょう。

 岸和田のため池を調べたい人には『岸和田市の溜池自然環境調査』(岸和田市教育研究所)を。広く「岸和田の自然」を学びたい人は『岸和田の土と草と人』(全3巻:小垣廣著)を読んでみてください。また、「きしわだ自然資料館」(堺町6-5 ☎423-8100)や「久米田池交流資料館」(池尻町671-11 ☎444-2272)を訪ねて話を聞くのもいいですよ。