岸和田市市制施行100周年記念誌
岸和田とまつり36-37ページ
製作100周年を迎えた
並松町のだんじりが見てきたもの だんじり祭100年の歩み
100年の岸和田だんじり 並松町地車百年祭
令和3年(2021)7月4日。大修理を終えた並松町地車が、入魂式を兼ねた100周年の式典およびお披露目曳行を行った。コロナ禍の下で緊急事態宣言が繰り返し発令されるなか、幾度も延期されたが、満を持しての曳行である。
同時に町内ではその歴史を物語る戦前戦後の約300枚の写真を展示、100周年記念アルバム『並松今昔物語』の編集会議も佳境に入った。編集責任者の谷桂輔氏以下、町会長の玉井良治氏、副会長の江間一夫氏、若頭から世話人に上がったばかりの岸田真樹氏、青年団の倉本伊織氏と、長老から20代まで、世代を超えた編集委員の面々が揃うところを取材させていただいた。
並松町は町の歴史が始まって初めて地車を大正10年(1921)に新調(完成は翌年)。古くは岸和田藩士の居住地「沼村領新屋敷」であり、藩政時代の字には「鉄砲町」「忍町」などがあった。地車を所有しなかったのだが、士族が少なくなった明治維新後、他町同様に地車所有と曳行の熱意が高まる。明治時代から大正初期には、他町から地車を借りて曳行したとの記録もある。
最大級の新調地車は初めての入母屋型地車
さて「名地車」の呼び声をほしいままにする新調地車は、名匠・桜井義國が大工棟梁と彫物責任者の両方をこなした。
初めて大屋根を入母屋型に組んだ画期的な地車で、9段に組まれた枡組の上には美しい配列の菱形二重扇垂木が並び、他町のそれより「ふたまわりは大きい」地車であった。
「新調はさまざまなタイミングが合致したようです」と語る岸田氏。代々が大工の家系で、大正7年(1918)生まれの祖父の口伝によると、「大きな地車を造ろかい、それも剣道上段の構えのような地車を」であった。確かに姿見は、そのとおりである。
彫刻は土呂幕の『巴御前粟津合戦』、見送りの『加藤清正蔚山城の戦い』、そして木鼻の唐獅子と、「明治の甚五郎」と称された義國の技が冴え渡る。
それらの巨大な地車の用材となる大きなケヤキは、早くから入手してずっと保管していた。
時代は大正末期。まさに泉州南部の中心地として市制施行に沸く岸和田は、紡績業や煉瓦工場、海運など活況を呈し、まちは栄え道路も整備された。
この前後に岸和田で地車が次々と新調され、ほぼ現在の岸和田型地車の型式構造となった。現在も引き続き曳行しているのは、岸和田旧市ではこの並松町ほか3台だけとなってしまった。
パンデミックでの自粛と今後のだんじり祭
新型コロナウイルス感染拡大は、令和2年(2020)の岸和田のだんじり祭を自粛に追い込んだ。
令和3年(2021)の祭礼では9月5日の試験曳きは全町自粛したものの、その後の曳行は、最終的には各町の判断に委ねられた。数町が自粛したり、曳き出しや宮入りだけなど、大幅に短縮する町もあった。新聞はじめメディアは、2年ぶりのこのだんじり祭についての「観覧自粛と感染対策の徹底」を報じた。
岸和田のだんじり祭の歴史をリアルに振り返ろうと江間氏が、幕末から明治にかけて記された岸和田藩士の『熊沢友雄日記』の中から祭礼の記述を抜粋している。
祭礼の日程は明治5年(1872)の新暦採用に紐付けされる形で、明治9年(1876)に本宮を9月15日にすることが堺県令によって通達された。その後の明治時代は、悪疫流行のために10月に変更されたり、さまざまな社会的な事情で中止になったり、「何が何でも祭りをやる」というようなことではなかったことがわかる。
編集中の『並松今昔物語』の序文の予定稿には、「並松町のだんじり百年を祝うにあたり、令和のだんじりを記録にとどめると共に、だんじりだけでなく、この機会に収集した資料や情報をまとめて後世に引き継ぎたいと考えた」とある。
江戸中期に始まった岸和田のだんじり祭は、明治、大正、昭和、平成、そして令和と時代が大きく変わる中で、この並松町のように引き継がれ、これからも継承していくことだろう。
(取材・文=江 弘毅)