岸和田市市制施行100周年記念誌
岸和田とまつり34-35ページ

だんじり祭

だんじり祭

令和4年(2022)の年番長・中之濱町だんじり。令和元年(2019)撮影

岸和田といえば「だんじり祭」。岸和田の人々は約300年の歴史と伝統を受け継ぎ、時代の変化とともにその姿を変えつつ、この祭りを大切に育んできました。
地元の祭礼関係者は一年中この祭りのために準備し、待ちに待った祭礼当日は、全国からの見物客で大いに沸き立ちます。
岸和田のだんじり祭は、日本を代表する神賑わいの一つです。

だんじり祭の始まりと岸和田型地車

全国に名高い岸和田のだんじり祭。祭礼に繰り出されるその地車は、旧摂津・河内・和泉と奈良県、和歌山県北部にかけて約900台が現存し、各地区でだんじり祭が行われています。
日程については例外はありますが、神戸市灘区や東灘区では5月初旬、大阪市内は7月の夏祭、泉州や河内では9〜10 月の秋に催行されます。岸和田市に限ると、岸和田地区(22町)と春木地区(12町)が「9月祭礼」、それ以外の地区は「10月祭礼」です。
岸和田のだんじり祭の始まりは諸説あり、その一つに元禄16年(1703)、第三代藩主・岡部長泰が、城内に建つ三の丸神社に京都の伏見稲荷を勧請した際、城下の人々に参拝を許したのが始まりと伝わっています。その当初の祭礼の様子はさだかではありませんが、江戸中期の1700年代半ば以降の記録には「引壇尻」「かこひ壇尻」などの記載が登場します。
現在の形に近い地車になったのは天明5年(1785)。北町の油屋治兵衛が大津村(泉大津)から古地車を借りて城入りしようとするも、背が高く城門をくぐれない。そこで急きょ柱を造り替え城内に曳き入れました。さらに翌年その屋根の高さを上げ下げできる「からくり地車」を新調。これが現在に繋がる岸和田型地車の原型と考えられています。
岸和田だんじり会館に展示されている五軒屋町旧地車(からくり地車)は、その20〜40年後、文化文政期(1804〜30)の製作とみられます。すぐあとの天保年間新調の紙屋町旧地車と併せ、その構造や彫刻は、現在の岸和田型地車とほぼ同じです。こちらも、岸和田だんじり会館に展示されています。

岡部長泰肖像(泉光寺所蔵)。長泰が伏見稲荷を勧請し、城内三の丸に社殿を建立した。これが岸和田のだんじり祭の起源との説がある

岸和田型地車の魅力とやり回しの迫力

「岸和田の だんじりは 彫物良うて木が良うて 舵梃子上手で よう飛ばす」昔から地元の唄にそう歌われていますが、これはだんじり祭の魅力を表す名 文句です。
地車は選りすぐりのケヤキ材が使われ、土台やコマという足回りを除いたすべての部分には、精巧な彫物が彫られています。地車に組まれる建築部材の数は300を超え、これは全国に数ある山車や地車の中でも類を見ない多さで、地元の彫刻師と地車大工がその「匠の技」を競っています。
モチーフやテーマは龍や唐獅子、鳳凰などの霊獣、花鳥風月、十二支の干支に七福神、神話や源平合戦をはじめとする軍記物等。特に「土呂幕」や「見送り」など大きな彫刻を施された部位はみどころで、豊臣秀吉が主人公の『太閤記』に真田幸村、木村重成が活躍する『難波戦記』が好まれるのは、やはり大阪らしい土地柄といえます。
その絢爛豪華な地車は、高さも長さも4m弱、約4tの重さで、それを豪快に「やり回し」します。つまり曲がり角に差しかかると一旦停止して、そこから一気に速度を上げてゆき、勢いよく方向転換します。綱を曳く子どもから青年団まで総勢数百人の曳き手、曲がる際に前コマに檜材の梃子を差し込み「きっかけ」を 作る左右の前梃子、後ろに突き出たカシの棒を操る30人ほどの後梃子、そして高さ約4mの屋根の上で飛びはね踊り方向転換の合図をする大工方…。ハンドルとブレーキ、アクセルが別々の受け持ちパートであるすべての曳き手たちが「一つに気を合わせて」伝統の技と度胸を競うさまは、あっと息を飲むほどです。
古い町家の建物が残る紀州街道を疾走する地車は、岸和田城下ならではの「年に一度」の伝統の光景なのです。

各地区紹介 9月祭礼 岸和田地区(22町)、春木地区(12町) 10月祭礼 八木地区(11町)、山直地区(8町)、山直南地区(5町)、東岸和田地区(11町)、南掃守地区(8町)、山滝地区(2町)