岸和田市市制施行100周年記念誌16-17ページ
岸和田のいまむかし 
わがまちヒストリー

岸和田城 歩き比べ

現在の空撮写真と約350年前の絵図を比べて魅力再発見!岸和田城

現在の岸和田城

本丸、二の丸、内堀が現存。天守閣、櫓門などの復興建築が往時の雰囲気を醸し出します。

現在の岸和田城の空撮写真

歴史展示で城の歩みをもっと深く 歴史資料館内画像

1 遺構の上に立つまちのシンボル 天守閣・天守台

南北・東西ともに約18mある天守台は、初代天守が築かれた時代から現存。新たな3層天守閣が再建されたことで、荘厳な城の風格を今に蘇らせました。

眺望の画像 天守閣の最上階は回廊展望台になっていて、岸和田市街を360度見渡せる

2 時代の流れを感じる遺構 石垣

粗削りした石を隙間なく積む戦国時代の「打込ハギ(接合)」を主とし、石を四角に整形した江戸時代の「切込ハギ」が補修箇所に見られます。石材としては和泉砂岩と、神於山と瀬戸内海で採掘したとされる花崗(かこう)岩などが確認されています。

石垣の画像

堀にせり出した平地部分は石垣補強のために作られた"犬走り"という珍しい遺構

石垣清掃の画像

9月の岸和田だんじり祭の開催前には石垣清掃の様子が見られる

3 かつての御殿跡 二の丸広場

藩主が政務を行い、大奥もあった二の丸御殿跡。公園として整備され、市民道場の「心技館」や二の丸広場観光交流センターが建っています。

二の丸広場の画像 松の木と鐘楼をモチーフにした時計が城内の歴史的景観と調和している

4 天守閣の後に復興 櫓門・多聞櫓・隅櫓

城の正門・櫓門と、本丸北西部分に連結されている多聞櫓と隅櫓は昭和44年(1969)に再建されました。白漆喰塗りで統一され勇壮な姿です。
大手門の上に櫓を設けた櫓門

大手門の上に櫓を設けた櫓門の画像

岸和田藩は甲賀忍者を雇っていた? 岸和田藩主の岡部家はかねてから甲賀衆との繋がりが深く、岡部家の軍事規定を記す享保年間の『享保備定(きょうほうびてい)』にも、

フォトジェニックな岸和田城の夕景 岸和田城は「続日本100名城」や「日本の夕陽百選」にも選出されています。第1回きしわだフォトコンテスト最優秀賞は岸和田城の夕景(撮影:奥田知行さん)

正保元年(1644)の岸和田城

岡部宣勝が入城して4年後の城郭。当時の岸和田城は海岸が近く、城下町が浜辺付近まで広がっていたことがうかがえます。

約350年前の岸和田城絵図 本丸と二の丸の形に注目!「ちきり城」の名の由来 岸和田城は古くから「ちきり(千亀利)城」とも呼ばれてきました。橋で繋がった本丸と二の丸の形が、機(はた)織りの縦糸を巻く道具「榺(ちきり)」(下図)に似ていたことが由来といわれています。岸和田市イメージキャラクターの「ちきりくん」の名前もここからとっている

この絵図は…正保城絵図 和泉国岸和田城図 正保元年(1644)に幕府が諸藩に命じて作成させた城絵図のうち岸和田城のもの。城郭内の建造物、石垣、堀の位置などが精細に記載され、5層の天守も描かれています。

岸和田城天守閣内には絵図をベースに作られた城郭ジオラマが展示されている

5 高校内に残る築城当時の遺構 門の土台の石垣

岸和田高校のグラウンドにある「駐蹕(ちゅうひつ)記念碑」の土台となっている石垣は、二の曲輪(くるわ)と三の曲輪を繋ぐ地中門(北中門)の石垣が、 築城当時のまま現存していると考えられています。※学校内のため原則見学不可。

  • 門の土台の石垣の画像 明治天皇が訪れたことを記念する「駐蹕記念碑」
  • 城絵図にも地中門が描かれており、場所も一致している
6 幕府からの信頼の証 伏見櫓跡

かつては二の丸に、元和9年(1623)に京都・伏見城から移築された伏見櫓がありました。この櫓は徳川家にとって要所であった地の城に設置されていたもので、現存するものでは福山城のものなどが有名です。

  • 石垣の画像 伏見櫓があった二の丸北東角の石垣。岸和田城は大坂城の南の守りとして、伏見櫓を配置されるほど重要な城だった
  • 伏見櫓の城絵図
7 大坂-和歌山間を繋ぐ脇街道 紀州街道

岡部岸和田藩の参勤交代にも使用されていた脇街道。絵図上で見られる鍵状の箇所は、侵入者をかく乱する「遠見遮断(とおみしゃだ ん)」になっています。

紀州街道の画像 伝統的建造物が連なる紀州街道の本町エリア。周辺35件が市の歴史的景観建築物に指定されている

8 海からまちを守っていた遺構 防潮堤石垣

元和5年(1619)、松平康重(やすしげ)が城主の頃に築かれた警備と防潮を目的とした石垣で、現在は中町の公園にその一部が残っています。

防潮堤石垣の画像 石垣は約800mあったとされているが、明治維新後に大部分が取り壊された