岸和田市市制施行100周年記念誌14-15ページ
岸和田のいまむかし 
わがまちヒストリー14-15ページ

市民による天守再建 まちのシンボル「岸和田城」

昭和39年(1964)の岸和田城天守閣。市街や神於山(こうのやま)なども望む岸和田市役所からの眺め。再建天守の高さは天守台を除き約22m。SRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)で、クレーンなどを用いた当時としては大規模な建造工事だった

世界でも類を見ない「城型の図書館」として再建

慶長2年(1597)に小出秀政によって築かれた天守は、文政10年(1827)に落雷によって焼失。以降再建されることはなく、明治時代に入ると二の丸御殿や伏見櫓、門なども取り壊され、残された本丸と二の丸のみが昭和初期に千亀利公園として整備されました。
公園は市民の憩いの場でしたが、天守復興を望む声も少なくありませんでした。昭和28年(1953)、市庁舎建設のために図書館が撤去されることになります。それを期に建物内部を図書館とする天守閣建造が協議されることに。岸和田市PTA協議会と岸和田城址保存会からそれぞれ市議会への請願書が提出され、さらに市民ひとりひとりの寄附や旧藩主・岡部家の子孫の要望などもあり、再建が決定しました。
総工費は3470万円で、そのうち460万円が寄附だったとされています。約1年の工期を経て、昭和29年(1954)の11月、127年ぶりに天守台の上に新たな天守閣が誕生しました。内部が図書館であるという斬新さに加え、戦後では全国でも2番目と天守の再建が早かったため注目を集めたといいます。現在内部には歴史資料を展示し、市外の人も多く訪れる天守閣。南海電車の車窓からもその勇壮な姿が確認できる岸和田市を代表するシンボルです。

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  • 昭和41年(1966)。天守閣内の図書館を利用する、当時の子どもたちの様子
岸和田市の民間建設会社と建築家・池田谷久吉により再建

天守の再建工事は岸和田市内の岩出建設株式会社が請け負い、設計を河内長野市の重要文化財・観心寺恩賜講堂なども手掛けた池田谷久吉が担当。「再建岸和田千亀利城天守 工事」という名で資料に残っていますが、元の木造5層天守の復元ではなく、3層3階の図書館新築工事として施工されました。

岸和田城建設資料

写真提供:岩出建設株式会社

天守閣より前に完成していたみどころ「八陣の庭」

国指定文化財である岸和田城庭園(八陣の庭)は、天守閣の完成に先行し、昭和28年(1953)に完成。京都の寺社を中心に数々の名庭を手掛けていた作庭家・重森三玲の設計による枯山水庭園で、三国志の名軍師・諸葛孔明が考案した陣法・八陣をイメージした庭です。城郭の縄張りに見立てた庭の中央に石組みで〝大将〞を置き、さらに周囲に天・地・竜・虎・風・雲・蛇・鳥の八陣も石組みで表現。三玲は、この陣を攻める陣形ではなく、守りの陣と解釈し、平和の願いを込めた庭だとしています。
八陣の庭は、その芸術性と近代庭園史における学術性の高さから、平成26年(2014)に国の名勝に指定されました。また、かつては庭園を生かした生け花や舞踏のショーが行われ、現在も砂紋描きのイベントを開催するなど、貴重な庭でありながら芸術・文化を発信する場所にもなっています。

ここに注目!上空からの鑑賞も意識した石組 八陣の庭は、天守閣や航空機など、上空から鑑賞されることも想定し設計されています。モダンで幾何学的な石組み配置の妙を堪能できます。

  • ここに注目!360度どこからも鑑賞できる回遊式の庭園 八陣の庭は園内を歩いて鑑賞できる「回遊式庭園」で、庭の周囲どこからでも上・中・下段で構成された庭の立体感や奥行きを楽しめます。
  • ライトアップやイベント利用も。市民に愛され、親しまれている庭園
作庭家・重森三玲とは?
八陣の庭で水をまく重森三玲

明治29年(1896)、岡山県生まれ。日本美術学校で日本画を学び、建築や生け花への研究も進めながら独学で庭園学を修める。京都市の国指定名勝・東福寺本坊庭園を代表とする枯山水庭園の作庭で名高い名作庭家。

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