岸和田市市制施行100周年記念誌12-13ページ
岸和田のいまむかし 
わがまちヒストリー12-13ページ

13代にわたった岡部藩政時代

5万3000石の岸和田藩を約230年にわたって統治

岡部宣勝は、6万石で入城。さらなる外堀を築いて周辺のまちを取り込み、城下町を拡大。城主を息子・行隆に引き継ぐ際に、2人の弟たちに合計7000石を分与し、以後明治維新まで約230年続く5万3000石の岸和田藩となりました。

岸城町にある岡部家の家臣・佐々木家住宅。長屋門や土塀が武家屋敷の面影を今に残
す(建物は非公開)

大坂の南の守りとして武に長けた岡部家が藩主に

大坂の陣が終わり、江戸時代へ。小出家、松平家に次いで寛永17年(1640)に岸和田を治めることになったのが岡部宣勝です。この頃、徳川政権が安定するまでは、各地で大名の転封(配置替え)が繰り返されており、宣勝も美濃国大垣、播磨国龍野、摂津国高槻を経て、岸和田藩岡部家の初代藩主となりました。
江戸時代を通し、大坂は幕府の直轄領であり、西国支配の拠点でした。そんな要所を守るという特別な任務を請け負っていたのが、大坂城の南を守る岸和田藩と、西を守る尼崎藩でした。その重要な役目の一方を岡部家が任せられた理由に、岡部家が関ヶ原の戦いの前から徳川家の家臣であった譜代大名であることや、「岡部の黒鬼」と称された宣勝の父・長盛から続く武勇の家柄だったことがあげられます。
また、大坂の軍力が手薄になることを避けるため、岸和田藩と尼崎藩は参勤交代を交互とし、有事の際には、どちらかの藩がすぐに大坂城へ軍の動員をできるようにしていました。

人や物資の調達力を生かし多彩な役目を果たした岡部家
門前町にある岡部歴代藩主の菩提寺・泉光寺。初代藩主・宣勝が隠居した地を寺に改めた

岡部家は初代の宣勝以降、13代にわたって藩主を務めることになります。江戸時代はどこの藩も財政難に苦しんでおり、岸和田藩も例外ではありませんでしたが、二代・行隆は福井藩に次いで全国で2番目に藩札を発行し、財政の確立に努めました。一方で、岡部家は六代まで大坂にて朝鮮通信使接待役を担当。重要な役目ながら、財力や物資調達力が問われる仕事で、大坂城守衛や普請(工事)にかけていた費用も膨大であったため、財政は常にひっ迫していたと考えられています。
それでも明治維新までの約230年間、元禄年間の大規模な大和川付け替え工事、天明の大飢饉における一揆鎮圧のための藩兵派遣、大塩平八郎の乱での大坂城警 備、さらに幕末には戊辰戦争への参戦など、時の藩主たちはさまざまなできごとに対処してきました。

岡部歴代藩主の菩提寺・泉光寺

Check
三代目が勧進した稲荷神の祭りが岸和田だんじり祭の起源!?

一説には、元禄16年(1703)に、岡部三代藩主・長泰が京都の伏見稲荷を勧進(分霊)し、城下の人々の参拝を許した稲荷祭が岸和田だんじり祭の原型とも。当初は領民が簡素な木箱を曳いて練り歩き、さまざまな芸を披露したともいわれています(諸説あり)。

岸和田藩岡部家歴代藩主(任期)

「岡部長泰肖像」泉光寺所蔵

岸和田城南西にある三の丸神社。寛永17年(1640)創建

岸和田の産業を切り拓いた寺田財閥

紡績業、煉瓦業などの工場エリアが拡大していき、岸和田は近代的なまちへと変貌していった

銀行発足を皮切りに寺田家繁栄への足場を確立

明治以降の岸和田のまちの発展を語る上で欠かせないのが、地方財閥「寺田家」です。元々寺田家は、江戸時代から続く酒造業者でした。近代国家として発展しようとしていた明治初頭の日本において、寺田家の長男で、実業家になることをめざしていた甚与茂は、銀行の必要性・将来性に注目します。岸和田にも銀行を作るべく、甚与茂は25歳にして旧士族や有力者らが集まる銀行創立委員に加わり、明治11年(1878)に第五十一銀行を立ち上げました。その後、わずか3年で同銀行の頭取に就任します。
さらに甚与茂は、鉄道、煉瓦、紡績、電力など多くの企業経営にも参画し、各社の社長も歴任。岸和田の経済発展に大きく関わっていきます。なかでも明治27年 (1894)に創業した岸和田紡績株式会社(⬇P28)は、急成長を遂げ、明治末期には日本十大紡績会社に数えられるほどになりました。甚与茂は一代にして莫大 な富を築き上げ、寺田家は大阪を代表する地方財閥へと成長していったのです。

  • 甚与茂が頭取に就任した第五十一銀行
  • 岸和田紡績の社交場として昭和7年(1932)に建てられた自泉会館(国登録有形文化財)。甚与茂の記念館的建物で、イベントホールや会議場として利用されている
3つのグループで躍進。岸和田を企業城下町へ

寺田財閥は、甚与茂の南寺田家、実弟・元吉の北寺田家、異父弟・利吉の堺寺田家の3家に分かれ、それぞれが岸和田で影響力のある企業を設立していきました。南寺田家は岸和田紡績のほか、和泉銀行、和泉貯蓄銀行を設立、北寺田家は3家で唯一酒造業を継続しながら、製鋼や織物などを扱う帝国産業株式会社を運営、堺寺田家も寺田銀行と寺田紡績などを開業します。多くの寺田系列の企業や銀行が海岸沿いや紀州街道沿いに立ち並び、岸和田はまさに企業城下町の様相を呈していました。
戦後の財閥解体によって、寺田財閥は解消されますが、会社や銀行として建てられた近代建築群は今でも旧市街に見られ、岸和田城周辺の自泉会館や五風荘と いった寺田家ゆかりの建物とともに、寺田財閥の隆盛を今に伝えています。

寺田財閥の草分け"寺田甚与茂"とは

幕末の嘉永6年(1853)、岸和田城下の有力商人・寺田家の長男として誕生。商売を学ぶため11歳で質屋に奉公へ。岸和田で多様な企業経営を成功させ、大 正全国富豪番付では西日本21位になるほどの富豪になりました。

  • 自泉会館に設置されている寺田甚与茂胸像
  • 堺寺田家の二代目当主で、岸和田市長も務めた寺田利吉の別邸として建設された近代和風建築の五風荘(岸和田市指定有形文化財)