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古写真からみる岸和田の文化財【3】

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2009年7月16日掲載

郷土文化室保管の古写真からみる岸和田の文化財

【久米田古墳群(くめだこふんぐん)編】

 本市には、久米田古墳群に関する古い写真が多数保管されています。これらの写真はこれまでほとんど公開されたことがありませんでしたが、現在、モノクロネガやプリントからスキャニングを行いデジタル画像化して整理を進めています。
 昭和30年代のネガには久米田古墳群中の貝吹山古墳(かいぶきやまこふん)、風吹山古墳(かぜふきやまこふん)、無名塚古墳(むめいづかこふん)、志阿弥法師塚古墳(しあみほうしづかこふん)、女郎塚古墳(じょろうづかこふん)、光明塚古墳(こうみょうづかこふん)などが見られます。その他にも岸和田市内の文化財が数多く撮影されています。なかにはすでに消滅してしまったもの、大きく変容してしまったものも少なくありません。

 これらの文化財全般の写真は順次デジタル画像化を進めます。今回は先に公開した【摩湯山古墳編】、【春木八幡山遺跡編】に引き続き、久米田古墳群とその周辺の写真として取り上げます。 久米田古墳群の概要はこちら

久米田古墳群の写真

 久米田古墳群は、久米田山と呼ばれる小さな独立丘陵上にあります。現在7基の古墳が知られていますが、古い記録や地形図から、もとは10数基の古墳で構成されていたと推測されています。
  現在、地表上に墳丘が見えない古墳として、すでに宅地化されてしまった長坂古墳、そして、1992年に無名塚に隣接する形で確認された持ノ木古墳(もちのきこふん)、さらに、後に無名塚古墳東側で墳丘状の高まりと濠状の落ちが一部で確認できています。

貝吹山古墳 墳丘写真

貝吹山古墳貝吹山古墳 現在

 写真ネガの入っている紙袋には諸兄塚(もろえづか)と記されています。当時はまだ、橘諸兄(たちばなのもろえ)の墓であるとされ、1997年まで墳丘上には宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っていました。現在では橘諸兄の墓は、京都府綴喜郡井手町にあるものとされています。発掘調査の結果では古墳時代前期後葉の築造とされており、もちろん橘諸兄の墓ではありません。貝吹山古墳の名称は、久米田合戦の際に陣城(じんじろ)となり、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしたという伝承にちなみます。

貝吹山古墳 遠景

貝吹山古墳

 前方部斜めから後円部方向を望んだ写真です。前方部、後円部の二つの墳丘がよくわかります。手前側中央に松の生えた何か小さな墳丘状のものが見えます。知られていない、すでに失われた古墳の一つでしょうか?

貝吹山古墳墳丘(後円部)

貝吹山古墳 

貝吹山墳丘写真

貝吹山古墳

 戦後すぐは、畑になり桃が植えられていたという話も聞きます。公園内や墳丘上には久米田寺の敷地内ということもあり、当時はミニチュアの四国霊場八十八ヶ所参りの祠が建っていました。

風吹山古墳

風吹山古墳風吹山古墳 現在

 写真ネガの入っている紙袋のタイトルは「貝吹山古墳」となっています。古墳名が同じでまぎらわしいのですが、当時、現在の貝吹山古墳は諸兄塚と表記されていますので、写真のタイトルで貝吹山古墳となっている古墳が、現在の風吹山古墳です。昔は名称の混同がおこっていたようです。他にも、昭和初期の文献には「山吹山古墳」との表記もみられます。
 下にあります久米田公園の写真のすべり台があった場所が、この墳丘の階段付近だと思われます。この写真はすべり台がありませんので、昭和30年代の撮影ではないかと思われますが、すべり台の前後関係については資料がまったく無く、現在も調査中です。
 現在では発掘調査に基づき、造出し(つくりだし)が復元されています。階段の位置はほとんど変わっていません。

 無名塚古墳 遠景

無名塚古墳無名塚古墳 現在

無名塚古墳

 無名塚古墳は久米田古墳群の中で、久米田公園内に位置する古墳です。発掘調査が行われ、二段築成の直径約26メートルの円墳として復元されています。
 写真は無名塚古墳の遠景と近景です。当時の無名塚古墳は中央部が大きくえぐられていました。このえぐりは、埋葬施設主体部の盗掘跡ではないかという指摘もされています。しかし発掘調査では主体部は検出されず、詳細は不明です。墳丘上にある祠などは公園内にあったミニチュア八十八ヶ所参りの祠です。

女郎塚古墳

女郎塚古墳女郎塚古墳 現在

 女郎塚古墳は、岸和田市池尻町に所在する久米田古墳群中の一古墳です。現在、岸和田市立久米田中学校の敷地内に所在し、風吹山古墳の南側に位置しています。平成13年に、発掘調査を行ったところ、埴輪列と濠を検出しました。また現状で北側に造出し状に伸びる高まりは、近代に瓦礫を投棄したものとわかり、墳丘基底部の径はおよそ28メートルの規模を持つ円墳であることがわかりました。ただし、今のところ古墳に隣接して建つ校舎の部分に造出しがあった可能性は否定できません。
 この写真、現状の女郎塚古墳と比べてとても大きく、墳丘も高く見えます。古い中学校の校舎が見えますので、昭和30年代の撮影と考えてよいと思います。当時はまだ残りが良かったのでしょう。

女郎塚古墳

 同じ写真が『岸和田の文化財』(昭和33年刊行 非売品)にあります。奥に旧の中学校舎らしき屋根が見えます。現状と比較して、墳丘が一段高いような印象があります。現状の墳頂部はフラットですが、写真では頂部が角ばって盛り上がっています。比較してみると、この段はすでに失われていることがわかります。

女郎塚古墳

女郎塚古墳

 植栽が行われ、整備された女郎塚古墳です。撮影年代はわかりません。上の写真にもスロープ状の植栽が見えますので、ほぼ同じ時期に撮影されたものでしょうか。

光明塚古墳

久米田古墳群 光明塚古墳光明塚古墳 現在

 写真が撮影された頃は、光明皇后塚と呼ばれていました。しかし、光明皇后は聖武天皇と並んで佐保山東陵へ葬られており、当墳は皇室の陵ではありませんので現在の名称は光明塚古墳です。
 写真は昭和17年頃に撮影された可能性があります。現在と比較して驚くほど墳丘が高く、とても良好な状態だったことがわかります。現在では墳丘はほとんどなく、一見して古墳とはわかりにくい状態になっています。岸和田市史第1巻では南側から見た裾部で墳頂部との高低差が約1.2メートルとなっていますので、現状に近くなっています。

光明塚古墳

光明塚古墳

上の写真と比較して松が減っています。昭和30年代の撮影と考えられます。

志阿弥法師塚古墳

志阿弥法師塚古墳

 現在、久米田の墓地内にある志阿弥法師塚古墳の写真です。志阿弥法師塚古墳の名前の由来である志阿弥法師は奈良時代のお坊さんですので、この古墳に葬られているわけではありません。あくまでも伝承の一つでしょう。
 現状は墓地の中にあり、前面を墓石で埋め尽くされています。奥に見える建物は墓地の火葬施設です。

志阿弥法師塚古墳志阿弥法師塚古墳 現在

墳丘正面からの写真です。同じ写真が『岸和田市の文化財』(昭和33年刊行 非売品)にあります。現状はこの墓石では無く、新しく設置されているようです。生えていた八本の松も無くなり、墳丘上は庭園の築山のような感じに整備されています。

風吹山古墳からの久米田墓地遠景

風吹山から久米田墓地

 風吹山古墳の墳頂部から、久米田墓地を見た写真です。アイポイントが墳頂部より高いので、松の木に登っているような撮影アングルです。右手奥に志阿弥法師塚古墳らしき茂みが見えます。煙突のある特徴的な建物は火葬施設でしょう。昭和30年代の初め頃の写真です。

久米田公園(風吹山から無名塚、貝吹山古墳の遠景)

久米田公園

 確かな撮影年代は不明です。昭和20年代~30年代の写真でしょうか?久米田公園を写した写真です。久米田公園は昭和47年に市の公園として整備されました。すべり台のある手前の丘が風吹山古墳、左奥に無名塚古墳、その先には、大きな堀り割り状の溝が見えます。この溝は現在では完全に埋められていますが、久米田丘陵の中央部を横切り、自然の地形とは考えにくいことから、写真の奥にある貝吹山古墳とを隔てる溝ではないかと考えています。
 以前、無名塚古墳の脇に水道管を敷設する工事に際し、調査を行ったところ、古墳の東側の地下に墳丘状の高まりと、濠状の落ちが確認されました。その濠状の落ちを切る形でこの堀り割りがあり、公園内を横断します。これにより堀り割り自体は、古墳築造より後に開削されていることが窺えますから、古墳時代以降に開削された、何らかの堀り割り遺構の可能性があります。

久米田公園久米田公園 遠景2

 パノラマ写真を意図した久米田公園(貝吹山古墳)の遠景写真です。重ね合わせ加工していません。
手前側のブランコは無名塚の東側にあったものです。撮影場所は無名塚の墳丘上から撮影していると考えられます。手前の草むらの陥没は堀り割り状の溝です。


 紹介した写真は、郷土文化室が保管する久米田古墳群関係の写真のうちの一部です。このほかにも類似したカット、近くの久米田寺、久米田池、周辺の赤山古墳群の発見状況など、非常に貴重な写真が多数あります。詳細、この他の写真についてはお問い合わせください。また、郷土文化室の許諾なしにこれらの写真を転載することはおやめください。


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