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古写真からみる岸和田の文化財【2】
郷土文化室所有の古写真からみる岸和田の文化財
【春木八幡山遺跡(はるきはちまんやま)編】
本市には、市内の文化財の古い写真が、多数保管されています。これらの写真はこれまであまり公開されたことがありませんでしたが、現在、モノクロネガやプリントからスキャナーで読み取りを行いデジタル画像化して整理を進めています。
岸和田市内の文化財が数多く撮影されており、なかにはすでに消滅してしまったものも少なくありません。
これらの文化財全般の写真は順次公開したいと思いますが、今回はそれらの写真の中で、春木八幡山遺跡とその周辺の写真を取り上げます。また今回取り上げた写真は、当時から文化財の保護に精力的に活動していた玉谷哲氏撮影の写真も含まれます。
春木八幡山遺跡は、岸和田市八幡町の弥栄(やえ)神社付近にある縄文時代から古墳時代の遺跡です。海岸砂丘の上にあり、岸和田市内では昭和36(1961)年に本格的な発掘調査が行われた遺跡として、学史的にも有名な遺跡です。またその立地は縄文時代の海岸線を考える上で重要です。また大阪湾では珍しくなった古い時代の海岸砂丘の遺構としても貴重です。
発掘調査では縄文土器や弥生土器が見つかっています。現在のところ、岸和田市内で最も古い弥生時代の遺跡でもあります。また、竪穴式小石室も数基確認され、古墳時代には小規模な古墳が築かれていたこともわかっています。また、周辺にはいくつかの古墳があったことが知られています。
○なお、この春木八幡山周辺の古い写真の選定、スキャニング、撮影位置確認と現在の写真撮影などについては、岸和田市立春木中学校の平成21年度職業体験学習で、郷土文化室に来た3人の生徒さんが地元の利を活かしてお手伝いしてくれました。また、各写真にあるコメント、解説は、調査、取材にあたった生徒さんの“気付き”をもとに、郷土文化室で加筆、編集しています。
春木八幡山遺跡 遠景 (昔・今)
遺跡の遠景写真です。おそらく紀州街道から南を向いて撮影したものです。現在、同じあたりと推定される場所には建物が建っており、このような見通しはできません。
撮影年代は不明ですが、遊具がまだ設置されていない状況や、次にあげる昭和30年代の写真と比較して、おそらく昭和20年代だと推定しています。写真の真ん中よりやや右側奥に弥栄神社の社殿の屋根がわずかに見えます。
現状は右の写真のように樹木が茂り、まったく見通しがきかない状態です。
興味深いのは、畦に対して斜めに稲の刈り跡が見えます。水田の形に合わない方向に稲が植えられているようです。方向から推定して南北方向に稲が植えられています。手植えで植えていた頃の風景でしょう。機械化されるとこうは植えられません。
春木八幡山遺跡 遠景
春木八幡山遺跡の遠景です。すでに遊具がいくつか設置されているのが奥に見えますので、昭和30年代の撮影でしょうか。上の写真よりやや南側を向いて撮影しています。
春木八幡山遺跡 遠景
撮影方向がわかりませんが、おそらく海側から南を向いて撮影されています。左右に家が2軒見えるところが紀州街道だとしたら、街道よりも一筋浜側でしょうか。
春木八幡山遺跡 遠景
最初に紹介した写真と、ほぼ同じ位置だと考えられます。昭和30年代の初め頃の撮影だと思います。位置関係から推測して、手前の道が紀州街道だと考えられます。部分的な舗装がされているのでしょうか、道の途中から砂利道になっています。
出土した土器(縄文土器)
出土した縄文土器の写真です。調査当時の撮影でしょうか。小さいですが土器片がたくさん見つかりました。
これらの一部は郷土文化室で保管されています。
出土した土器(弥生土器)
写真には「後日」と書かれています。昭和36年の発掘調査終了後、公園の工事でみつかったのでしょうか。
見つかった竪穴式小石室
昭和36年の春木八幡山遺跡の発掘調査で見つかった、古墳時代の竪穴式小石室の跡です。
一号古墓と表記されています。
見つかった竪穴式小石室
同じく、二号古墓と表記されています。半分だけ撮影されているようです。
見つかった竪穴式小石室
同じく、三号古墓と書いています。
春木八幡山から縄文土器や、弥生土器、そして古墳時代の墓などが見つかったことにより、このあたりは数千年前から連綿と人々が暮らしてきた地域であることがわかります。
調査後 (昭和40年代?)
春木八幡山が公園として整備された状況です。現在も同じ遊具がありますが、すでに撤去された遊具もあります。
八幡山の古い写真全般にいえることですが、樹木の数が少なく、今より明るい印象があります。
弥栄神社 昭和17年合併上申書添付写真
昭和17年、岸和田市、春木町、山直町、南掃守村の1市2町1村が対等合併して新しい岸和田市を形成しました。そのときの合併上申書に添付された写真です。弥栄神社は市域の文化財としてあげられています。
他の写真も含め、描写能力に優れた非常に良い機材で撮影されており貴重な資料です。
弥栄神社 (昔・今)
弥栄神社の遠景です。この写真を見た人が真っ先に口にするのは「神社の前の階段が今は無くなっている・・・」ということです。今はだんじりが宮入りしやすいように、スロープになっているようです。岸和田らしい変化ですね。
大鳥居は昭和63年に建て替えられています。昔と今の写真を比較するとやや背が高く(足が長く)なっています。
鳥居の足の長さもだんじり優先。こんなところにも春木の人々の祭りに対する思いが見えてきます。
近景写真ですが、正面を意図して撮影すると、左側の松が画面半分を占めてしまったようです。現在では参道も整備され、すっきりした印象です。
紀州街道の様子 (昔・今)
春木八幡町周辺で和歌山側(南西方向)を向いて撮影されています。昭和30年代の初め頃の撮影です。紀州街道は街道遺跡として周知の埋蔵文化財包蔵地、いわゆる遺跡となっています。古い写真を見る限りこの頃から今も道幅は変わっていないようです。道幅は約3間(5.4メートル)です。
現在では、丸いポストは、四角くなってタバコ屋さんの北角に移動しています。写真のポストの横には春木八幡町と書いてあります。奥の男性の先にバス停が見えます。八幡町と書いてあるようです。
紀州街道の様子 (昔・今)
紀州街道、春木本町付近です。大阪側(北東方向)を向いて撮影されています。同じく昭和30年代の撮影です。懐かしい大村崑のオロナミンC看板があるのが、田村薬局です。よく見たら同じ建物ですね。さらに画面奥の建物も当時のもののようです。50年前の雰囲気がよく残っています。
紀州街道の様子 (昔・今)
上の写真の位置から少し和歌山寄りに移動して、大阪側を向いて撮影されています。石田商店とある看板の建物は、当時よく見かけた長屋造りの建物だったようです。
紀州街道の様子 (昔・今)
和歌山側(南西方向)を向いて撮影されています。古写真の道奥に岸和田方向に向かうバスの後ろ姿が写っています。今は、バスが通っていないこの道も、50年前は、岸和田に向かうバスの通る主要街道でした。山側に並行する方向に現在の府道堺阪南線(建設当時は新国道16号線、旧国道26号線)が造られたのが昭和16年のことです。それまではこの紀州街道が国道16号線でした。
紹介した写真は、郷土文化室が保管する春木八幡山遺跡関係と紀州街道の写真のうちの一部です。このほかにも同様のカット、調査当時の様子、紀州街道の他の町の様子など非常に貴重な写真があります。詳細、この他の写真についてはお問い合わせください。また、郷土文化室の許諾なしにこれらの写真を転載することはおやめください。