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古写真からみる岸和田の文化財【1】

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2009年6月4日掲載

郷土文化室保管の古写真からみる岸和田の文化財  

【摩湯山古墳(まゆやまこふん)編】

摩湯山古墳 航空写真

摩湯山古墳・馬子塚古墳等に関する写真

本市には、市内の文化財の古い写真が、多数保管されています。それらには摩湯山古墳(まゆやまこふん)、馬子塚古墳(まごづかこふん)、イナリ古墳などに関する写真がいくつか見られます。主に摩湯山古墳が国の史跡に指定された後で撮影された写真です。最も古いのは昭和17年頃に撮影された摩湯山古墳墳丘写真、それ以外は昭和30年から35年頃に撮影されたと考えられるモノクロ写真、昭和63年頃に撮影されたカラーネガ、そして昭和46年頃の航空写真などがあります。

これらの写真はこれまであまり公開されたことがありませんでしたが、現在、モノクロネガやプリントからスキャナーで読み取りを行いデジタル画像化して整理を進めています。またそれ以外にも昭和30年代のネガの一群には、久米田古墳群中の貝吹山古墳(かいぶきやまこふん)、風吹山古墳(かぜふきやまこふん)、無名塚古墳(むめいづかこふん)、志阿弥法師塚古墳(しあみほうしづかこふん)、女郎塚古墳(じょろうづかこふん)、光明塚古墳(こうみょうづかこふん)などが見られます。その他にも岸和田市内の文化財が数多く撮影されており、なかにはすでに消滅してしまったものも少なくありません。これらの文化財全般の写真は順次デジタル画像化を進め公開したいと思いますが、今回はそれらの写真の中で、摩湯山古墳とその周辺の写真を取り上げます。

摩湯山古墳の遠望

摩湯山古墳遠望

西側から前方部を見た写真です。府道三林・岡山線の二つ池付近からの撮影ではないかと考えられます。現状と比較して樹木の繁茂が少ないため、樹木の中に前方部の高まりがよく確認できます。

摩湯山古墳 遠望(前方部 昭和30年代前半頃)

摩湯山古墳遠望(前方部)

西側から前方部を見た写真です。二つ池南側堤上からの撮影ではないかと考えられます。樹木の繁茂が少ないため、前方部の形状、高さがよく確認できます。右端に馬子塚古墳の墳丘裾部が写っています。

摩湯山古墳 前方部(昭和17年 合併上申書添付写真)

摩湯山古墳 昭和17年 合併上申書添付写真

昭和17年、合併に伴う上申書に添付された写真です。摩湯山古墳の北側から前方部正面をとらえていると考えられます。岸和田市、春木町、山直町、南掃守村の1市2町1村が対等合併して新しい岸和田市を形成しました。そのときに市域の文化財としてあげられています。他の写真も含め、描写能力に優れた非常に良い機材で撮影されており貴重な資料です。市が保管する摩湯山古墳の写真の中で最も古いものかも知れません。下の写真と比較して、やや木が生い茂っています。戦争が激しくなりはじめた頃で、これ以降、燃料確保のための薪炭採取も激しくなっていったようです。

摩湯山古墳 前方部(昭和30年代前半頃)

摩湯山古墳前方部

西側の長池角から前方部を見た写真です。撮影年代は不詳ですが、昭和30年代前半であると考えられます。現状の樹木の生い茂った状態と比較して前方部の墳丘高さがよくわかり、遺存状態の良好なことが窺えます。

摩湯山古墳 前方部 (昭和30年代前半頃)

摩湯山古墳前方部

 北西側から前方部正面を見た写真です。撮影時期は昭和30年代前半だと考えられます。上の写真と合わせて、現状では樹木に覆われ全く見えない前方部の高まりと頂部の平坦な状況がよく確認できます。史跡指定されるまでは、薪炭採取のための貴重な山で、手入れも行き届いていたようです。

摩湯山古墳 前方部から後円部を望む

摩湯山古墳 前方部から後円部を望む

摩湯山古墳北側から前方部、後円部を望んだ写真です。撮影年代は不詳ですが、昭和30年代前半であると考えられます。手前側の道が未舗装であり、かつ下の写真と比較して道路端にコンクリート製ガードが設置されていない状況から推測しても、下の写真より古い時期に撮影されたと判断できます。写真左手前の3本の木は樋の取水口です。現在も同じ場所に鉄製ハンドルが付いた取水口があります。

摩湯山古墳 墳丘展開写真 (重ね合わせ接合していません)

展開写真1展開写真2展開写真3

展開写真を意図して撮影された写真です。墳丘の全容がよくわかる写真です。上の写真と違い、道路の端にコンクリート製のガードが設置されています。しかし道路は未舗装ですので、上の写真からあまり時期を経ずに撮影されたと考えられます。この道路は昭和34年12月に府道として供用が開始されますので、その直後の写真ではないかと推定しています。道路の舗装は昭和38年か、42年の拡幅に伴うようです。

摩湯山古墳 後円部側方向からの撮影

摩湯山古墳 後円部側からの写真

摩湯山古墳東側のハウガラ池東端から西側を望んだ写真です。奥に前方部、陸橋土手を渡った墳丘手前側に「史蹟摩湯山古墳」の石製標柱が見えます。現在は樹木が生い茂り、外からはこの標柱は見えません。

摩湯山古墳 後円部墳頂の写真

摩湯山古墳墳頂部写真

古墳の後円部の中心からやや西側にある八大竜王社です。和泉砂岩製の祠が祀られています。この祠は現在でもあり、時折お供え物がたむけられています。市の行った周辺の聞きとり調査では、かつては夏にこの八大竜王社で真言を唱え雨乞いをしていたようです。

摩湯山古墳 墳丘表面写真(地点不明)

摩湯山古墳 墳丘表面

写真ネガの表題に「摩湯山古墳」と書いてあります。正確な場所はわかりませんがフラットな場所のように見えます。表面には葺石の転落石と思われる礫が散らばっています。

摩湯山古墳 航空写真(昭和47年頃?)

摩湯山古墳 航空写真

摩湯山古墳の航空写真です。この写真は岸和田市史第1巻にも掲載されています。周辺、特に写真奥の東ケ丘住宅地の開発状況や住宅の建ち並び状況から、市に提出されている建築許可申請書や昭和46年測量の市街地図などで確認したところ、昭和47年頃の写真であると考えられます。不確かですが写真右側の馬子塚古墳の墳丘が現状と違い、四角錘(上段が残る?)に見えます。ページ冒頭の写真も同時期に撮影された航空写真だと考えられます。

馬子塚古墳の遠望(昭和30年代前半頃)

馬子塚古墳遠望

撮影時期は不詳ですが、写真奥の東山丘陵の状態が開発を受けた様相が見られないため、おそらく昭和30年代前半に撮影されたものと考えられます。馬子塚古墳の様子が写されていますが、上の写真とは異なり、写真からは墳頂部がフラットになっているように見え、すでに削平を受けたようにも見えます。

馬子塚古墳での土採りの様子?(昭和33年?)

馬子塚古墳土取りの様子?

写真の位置関係から馬子塚古墳(当時は遺跡としても古墳としても認識されていませんでした)での土採りの様子を写したものと考えられます。奥の林が摩湯山古墳前方部です。何度かにわたって土採りが行われたらしく、長池の堤の補修にあたって、馬子塚から土が採られ、そのときに埋葬施設主体部と銅鏡などの遺物が発見されました。右手前と左手奥に土を搬出するトロッコレールがはしります。

イナリ古墳 

イナリ古墳

摩湯山古墳の北側の摩湯の集落内にある古墳です。従来、摩湯山古墳の陪塚(ばいちょう)とされてきました。名前の由来であるお稲荷さんが現状でも墳丘上に祀られています。周囲を住宅に取り囲まれており、墳丘自体もかなりの削平を受けていると考えられます。いくつかの埴輪片が採取されています。撮影時期は不明ですが同じネガ群の他の写真の中に写りこんでいる車などを見ると昭和40年代の撮影かも知れません。

淡路神社(旧拝殿)

摩湯 淡路神社(旧社殿)

摩湯町の摩湯山古墳横にある淡路神社の旧社殿(拝殿)です。先に紹介した昭和17年の合併に伴う上申書に添付された写真です。

淡路神社拝殿の建て替え

淡路神社 建て替え中

淡路神社の拝殿の建築中の写真です。昭和30年代の建て替え時の写真だと考えられます。

淡路神社 建て替え

同じく淡路神社の建て替え中の写真です。淡路神社の社殿の所在地は、以前、埴輪片が採取されたと伝えられています。現状でも社殿裏地はやや高まりになっています。左手に建て替え中の拝殿が見えますが、人物群の奥の林がやや高まりになっているのがおわかりでしょうか。このあたりも古墳の名残の可能性があります。

東山丘陵周辺航空写真(昭和30年代前半)

東山丘陵航空写真

大規模な住宅開発が行われる前の東山丘陵周辺の写真です。摩湯山古墳の後円部の際が造成されています。この開発状況から昭和30年から33年頃の航空写真と考えられます。摩湯山古墳東側(写真中央から右にかけての丘陵部)の東ケ丘の宅地開発は昭和34年頃からはじまります。


紹介した写真は、郷土文化室が保管する摩湯山古墳関係の写真のうちの一部です。このほかにも同様のカット、周辺の造成工事、摩湯山古墳墳丘内部の様子など非常に貴重な写真があります。詳細、この他の写真についてはお問い合わせください。また、郷土文化室の許諾なしにこれらの写真を転載することはおやめください。

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