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岸和田城いまむかし

印刷用ページを表示する 2009年3月3日掲載

 建武元年(1334)楠正成の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりになったといわれています。

 その後、信濃氏、細川氏、三好氏、松浦氏、中村氏、小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640)岡部宣勝が入城、以来13代続き明治を迎えました。
 大正11年11月1日、大阪市、堺市に次いで府下で3番目に市制を施行し、今日に至っています。

ちきり城の名の由来は

 岸和田城の別称は「猪伏山(いぶせやま)ちきり城」。「ちきり」とは、機(はた)のたて糸をまく器具で、本丸と二の丸を重ねた形が「ちきり」に似ているところから由来するといわれています。
 また、ちきり城は「千亀利城」「蟄亀利城」とも書かれます。
 現在の天守閣は、工事費2264万円を費やして、内部を図書館として活用する目的で昭和29年11月に竣工しました。外観は三層の天守閣と二層の小天守閣となっています。
 天守閣の高さは、石垣の高さ約5メートル、石垣上部から鯱(しゃち)を含めた高さが約22メートルです。
 昔の絵図に、五層の時の天守閣の高さは、石垣上部から18間(約32.4メートル)と記されているものがあります。

紀州藩のお目付役

 岡部宣勝(のぶかつ)が、岸和田城に入城したのは、紀州の徳川頼宣(よりのぶ)に異心があるとして、そのおさえのためだったといわれています。
 ある時、江戸城で、二人が出会った際、頼宣に「君が和泉に居(お)られるのは、我らのおさえのためだと聞き及んでいるが・・・」と問われたので、宣勝は「大身(たいしん)のあなたをおさえるなど、とんでもないことです。せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことでしょう」と答えたという。
 足の裏についた飯粒は、気持ちが悪いものです。宣勝は、岸和田藩を飯粒にたとえながらも、小藩の意地を通したものでしょう。これを聞いた頼宣は、唖然(あぜん)としたと伝えられています。

鯱(しゃち)にも「阿形」と「うん形」

 岸和田城の天守にそびえる鯱(しゃち)は、山門の仁王や神社の社殿前に置かれている狛(こま)犬と同様に、口を開けた「阿(あ)形」と、口を閉じた「うん形」の一対です。「阿形」は南側の鯱で、高さ約1.7メートル、「うん形」は北側約1.6メートルです。

二の丸から西は海の中

 山名氏が家臣の信濃氏を岸和田に入れたころ、城は今の二の丸のところでした。当時、二の丸は、海につき出た小高い丘で近くまで潮が差し入っていました。
 「古今重宝記」には、松平康重時代に「其以前ハ二之丸石垣迄汐(しお)差入リ芦原ノ所、段々ト海退ニ付、当時ノ伝馬口ヨリ坂口御門迄新郭出来、町家等建候由、夫(それ)迄ハ南大手ヨリ東大手ヘ往環之所、当時ノ通リ往来ニ相成候」と書かれています。
 このように、元和9年には紀州街道が整備され、また、堺口門、内町門、伝馬口門が造られ、城の表玄関は北大手門(今の市役所別館の入口付近)とされました。
 その後、さらに海岸線が退き、岸和田浜町も整備されていきました。

めずらしい犬走り石垣

 五風荘と岸和田高校側の本丸の石垣の下に、さらに、犬走り石垣といわれる周堤帯があります。これは、正保の城絵図にすでに描かれています。
 軍事的な意味から考えると、本丸への敵の侵略に拠点を与えるということから矛盾した造りで、他の城では、ほとんど見られないものです。
 では、なぜ造られたのでしょうか。それは、上部の石垣が壊れ易いので、補強するために造られたものと考えられています。

戦時には寺を陣屋に

 城の周辺には多くの寺があります。東に光摂庵(こうしょうあん)、十輪寺、西に天性(てんしょう)寺、梅渓(ばいけい)寺、高天(たかま)寺、光明寺、心蓮(しんれん)寺、北に正覚(しょうかく)寺、観蔵(かんぞう)院、薬師院、本徳寺、本昌寺、円教寺、妙法寺、西方(さいほう)寺、浄円寺などです。 また、下野町の紀州街道沿いの山手側、春木川べりに岸和田墓地と加守墓地があります。
 このように、城の周辺に寺院を多く配置しているのは、軍事的な意図があるようです。いざ戦いのときには、寺を陣屋にしたり、また、墓石を盾の代用にと考えていたのでしょう。