岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(7)麻福田麿の恋(稲葉)
和泉(いずみ)がまだ河内から分かれなかった1,200年ほど前、稲葉(いなば)の里に、長者(ちょうじゃ)が住んでいた。その広い屋敷に、ひとりの美しい娘がいた。長者は、それはそれは可愛がり、欲しいというものはすぐに買ってやり、いろいろな習い事をさせるなど、大事に大事に育て外に出すことはなかった。娘は特に琴が大好きで、朝夕牛滝川のせせらぎにあわせて弾(ひ)くその音色(ねいろ)は、人々をうっとりさせた。村の若者達は、その美しさを噂(うわさ)するが、誰も姿を見たことはない。
長者の屋敷の近くに、貧しい親子が住んでいた。子どもは麻福田麿(まふくだまろ)といい、若者達と同じように、長者の娘の弾く琴の音に魅(み)せられて、美しい娘を思い浮かべようとするが、それは無駄なことである。
「何とかして、美しいその娘を一目みたいものだ」
といろいろ試(こころ)みたが、広い屋敷でなかなか願いはかなわなかった。
その日も、美しい琴の調べにひかれて長い塀(へい)に沿って歩くうちに、今まで来たことのなかった、大きな樹が塀にそってたっている所に来ていた。麻福田麿は辺(あた)りを見回し、思い切ってその樹にのぼった。
広い座敷の中に娘が一人、手元を見ながら一心に琴を弾いている。
―なんという美しさだろう。こんな娘(ひと)がこの世にいるだろうか―
麻福田麿は吸いよせられるように娘を見つめた。
その日から、麻福田麿は口もきかず、壁(かべ)に向いたまま食事もせず、母親が話しかけても返事はない。その内とうとう病の床(とこ)についてしまった。それを心配した母親まで寝込むようになった。
友達も心配して見舞いにやって来た。隣の部屋に寝ていた母親が、
「息子がこんなになったわけを聞いてほしい」
と頼んだ。友達がいろいろ話しかけ聞いてみたが、麻福田麿は応(こた)える元気もない。しかし入れかわり立ちかわり話すうちに、あの娘のことだとわかった。
―息子がどんなに思っても、こればかりは―
と、母親は諦(あきら)めさせるほかなかった。
いつしかそのことを耳にした長者の娘は、
―私のためにその親子が死ぬようなことになっては大罪である。何とか元気を取り戻してほしい―
と心を痛め、
「周りの者から貴男(あなた)のことを聞きました。早く元気になって下さい」
と使いをやった。これを聞いた親子はたちまち元気になり、床をあげて出歩(である)けるようになると、娘はまた
「秘密のことは文(ふみ)に書かねば相手に解(わか)りません。貴男(あなた)は筆を使えるようになり、私に想(おも)いを伝えてください」
と励ましの言葉を伝えた。なるほどと思った麻福田麿は、近くの能筆家(のうひつか)に通(かよ)って一生懸命に学んだ。その甲斐(かい)あって、1年もすると頼まれた手紙を書けるまでになった。
すると、また使の者が来て、
「私に近付くには、お坊さんになるのが一番です。どうかお坊さんになって下さい。」
と伝えた。なるほどと納得(なっとく)して僧の修行を続けると、
「例えお坊さんになっても、高僧(こうそう)でなければ誰も呼びますまい。一層の修行を―」
との伝言(でんごん)があった。
「都に出て立派な僧になり、早く呼ばれるようにならなければ、あの人に申し訳がない。よし、都へ行くことにしよう」
この決心を知った長者の娘は余りにも哀(あわ)れに思い、自(みずか)ら藤袴(ふじばかま)を織(お)って届けさせた。麻福田麿は感激して都へ出た。
日夜修行に励み立派な僧を目指して数年経(へ)た頃、風のたよりで娘の訃報(ふほう)を耳にした。
―ああ、なんということだ。立派な僧になった私を見てほしかったのに……
しかし、あの人の励ましがあって今日の私があるのだ。こんなに早く亡(な)くなったのは悲しいが、お弔(とむら)いをし、立派になることでお応(こた)えしよう―
麻福田麿はいっそう勉学(べんがく)に励み、やがて都に知らぬ者もない高僧になった。その名も智光法師(ちこうほうし)と称(しょう)し、多くの人の崇敬(すうけい)を集めた。

※ この「岸和田のむかし話」は市制70周年を記念して平成4年11月に刊行された本をWeb化したもので、岸和田に伝わる昔話や、発刊時に創作された話を収録しています。
あくまでも昔話ですので、必ずしも史実に基づいているものではありません。
