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岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(2)乙御前は嘆く(田治米)

印刷用ページを表示する 2009年3月3日掲載

―久米田池の主(ぬし)になった娘―

 おちこちに匂(にお)うほの白い龍胆(りんどう)の花びらが、薄闇(うすやみ)の中にとけ込もうとしていた。
 「終わった・・・・・・でも」
と、乙売(おとめ)はつぶやいた。
 「伊那麻呂(いなまろ)は、もういない・・・・・・もう2度とは会えぬ・・・・・・」
 それからあとは、激しいおえつになった。久米田池の堤(つつみ)である。
 隆池院(りゅうちいん)の山門前から岡山の丘陵(きゅうりょう)まで、ながながとつづくこの堤の完成とともに、久米田池開発工事は14年の歳月を経(へ)て、今日ようやく終わりをつげた。
 勧進(かんじん)僧行基(ぎょうき)を中心に、山直(やまたへ)郷・八木(やぎ)郷・掃守(かにもり)郷ほかの里人(さとびと)たちが汗と脂(あぶら)に、いや時には血にさえまみれて立ち働いた、難行苦行(なんぎょうくぎょう)の大工事だった。

 伊那麻呂は、掃守(かにもり)郷・兵主(ひょうず)の社(やしろ)から差し出された年若い労役夫(ろうえきふ)の一人である。
 役夫たちのまかない仕度(じたく)や、湯茶の接待に骨身を惜しまぬろうたけた乙売(おとめ)の姿を見たその日から、
 ―美(うま)し、女子(おなご)―
 伊那麻呂は、その胸をときめかし、乙売(おとめ)もまた
 ―美(うま)し、男の子(おのこ)―
 日にやけた男々しい彼の裸形(らぎょう)に目をやって、その頬を染めた。
 だが・・・・・・彼女は田治米(たじめ)の里長(さとおさ)の娘。裕福な生い立ちなのに比べて伊那の家は貧しく、奴(やっこ)にもひとしい神人(じにん)の伜(せがれ)だったから、この恋ははかばかしゅうは進まず、ともに燃え、人目をさけて愛(いと)しみ合う仲のままに日は過ぎた。
 水田300町歩をうるおそうとする壮大な構想のもとに拓(ひら)かれたこの池は、掘(くっ)さくよりむしろ堤を築いて水を堰(せ)きとめる閉塞(へいそく)工事が主体だった。
 労役夫たちは、雨の日も風の日も蟻のように群れて巨木を運び、石を曳(ひ)き、土を盛りつづけた。
 「痛ましや・・・・・・去年(こぞ)の秋」
 乙売(おとめ)は、おえつしながら血にまみれた愛しい男の面ざしを思い浮かべた。
 蝉(せみ)の音(ね)のかしましい昼さがりのことだった。突如(とつじょ)巨木の1本が崩(くず)れ落ち、数人の役夫が圧(お)しひしがれて死んだのだ。
 伊那麻呂も腹を打たれてもだえ苦しみ、駆けつけた彼女の目の前で、
 「乙売・・・・・・乙売・・・・・・」
 臨終(いまわ)の際(きわ)まで、ひたすらその名を呼びつづけた。

乙御前は嘆くの挿絵


 「永(なが)の年月苦労をかけた。乙売(おとめ)よ、そなたに何ぞ褒美(ほうび)をとらそう」
 行基(ぎょうき)はその温顔をほころばせたが、乙売(おとめ)の目は険(けわ)しか
った。工事のはじめ13歳だった彼女は、未婚のまますでに27歳の齢(よわい)を算(か
ぞ)えている。こわばった口をようやく開いて、渇(かわ)いた声を出した。
 「離れともなや、この池と・・・・・・ 別れともなや伊那麻呂と・・・・・・」
乙売(おとめ)の顔は蒼白(そうはく)となり、熱い息を吐(は)いたかと見る間に、
たちまち蛇身(だしん)となって池の中へ身を躍(おど)らせた。落慶(らっけい)法要で老若男女(ろうにゃくなんにょ)の群集する天平10年(738年)戊寅(つちのえとら)初秋、夕刻のことだった。

 その後乙売(おとめ)は久米田池の守護神となり、乙御前(おとごぜ)と尊称された。
 和泉の大宮・兵主(ひょうず)神社の境内に今なお蛇淵(じゃぶち)が現存し、久米田池の主が歳時を選んで忍び来るという伝承だけが、ひそやかに語り継がれている。

「広報きしわだ」掲載


※ この「岸和田のむかし話」は市制70周年を記念して平成4年11月に刊行された本をWeb化したもので、岸和田に伝わる昔話や、発刊時に創作された話を収録しています。
あくまでも昔話ですので、必ずしも史実に基づいているものではありません。

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