風物百選 48 熊野古道
染色 松谷多可
晴れた一日、市内平野を南北に通る熊野古道を、往時をしのんでたどってみた。
熊野へ向かう旅人が、岸和田を通過する時間帯に、地図を手に大津川から出発した。荒れ地はどこも建売住宅の建築中で、枯れ草や木くずを踏みながら進むと、すぐ架橋のない川に突き当たり、途方に暮れた。土手をさかのぼり、一三号線(府道大阪和泉泉南線)に出て川の対岸に沿って下る。気がつくと、毎日牛乳の工場内をうろうろしている。古道の両側に一つの会社ができてしまったのだろう。
現在の二六号線開通に伴って道路が碁盤状に走り、新しい住宅が建ったので、目指すあぜ道がない。それでも行ける所まで行ってみた。野草の小道がうれしかった。
池田王子跡がどうしてもわからない。離れた位置から望んでみても、小高い所が見当たらない。歌舞など奉納された舞台は、ついにその跡さえ見つけられなかった。
牛滝街道と阪和線の接点から、溝にふたをした小道を行き、再び一三号線へ出、作才辺りから斜めに山手の道筋をたどる。蛇行する道は古く、その昔に熊野もうでの行列が通ったことを感じさせてくれた。昔はどんな町並みだったのであろうか。今はあちらこちらから、乾いた機織りの音が聞こえる。
塔原岸城線を横切り大きな池に突き当たる。堤に上がろうとして「左粉河」の文字が刻まれた古い道標を見つける。すすきの陰で一休みしながら、古代人もこの辺りで小休止したのではないかと思う。街道も家並みも当時をしのばせるものは少ないが、ここでの小休止の情景がはっきりと浮かんできたのであった。それは、白装束よりもっとみやびやかな華やいだ行列であった。
峠越えを朝にすれば、帰りの泊まりは岸和田辺りになることに気づき、白河上皇が幾日かをこの地にとどまられたのに納得して腰を上げた私は、土生神社参けいの後、次の目的地浅宇川王子へ向かったのである。
文 川尻成子
資料
平安時代から鎌倉時代にかけての400年間、末法思想により盛行した、熊野もうでの道である。土生町道の池堤には、道標があり、池の堤を固めるため、旅人を通したことがうかがえる。
この「岸和田風物百選」は、岸和田市の市制60周年記念事業の一つとして昭和58年(1983年)に制作されました。
そのため、内容が古くなっている部分もありますが、交通手段を除いて、原本に忠実に再現しています。これは、実際に現地を訪れた際に、この間の時の移り変わりを感じていただければとの考えからです。
