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岸和田の幕末・維新もおもしろい~大河ドラマ「八重の桜」と岸和田(その2)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2013年2月2日掲載

岸和田藩 岡部家の「家訓」

【くまた】 NHKの大河ドラマ『八重の桜』が始まったね。八重さんもお兄さんの山本覚馬も、かっこいいね。会津藩の「家訓」や「日新館童子訓」も紹介されていた。おもしろいね。ところで、岸和田藩にも「家訓」のようなものがあったのかな。

《図書館》 いくつかあるらしいけど、9代藩主岡部長慎(ながちか)が、隠居した翌年(1834)にまとめた5ヵ条の「岡部氏家訓」を『評伝 岡部長職』(小川原正道著 慶應義塾大学出版会)でも詳しく紹介しているよ。その第一に掲げられたのは、「文道を篤く心掛くべき事」。「君主は民を治め、民は身を修めるために、学問に取り組まねばならない」と学問の重要性を強調している。

第二は「武事を常に備うべき事」。しかし、「矢を好みて止まざれば、百戦百勝すとも必ず国家を滅ぼすものなり」「決して己より兵を挙ぐるにはあらず」としている。

第三は「諌を納れ用ゆべきこと」。「名君たる者、家臣の諌言(かんげん)に耳を傾けねばならない」という意味らしい。意外な気もするけど、近世の武士道では自立した個人が重視されたらしいよ。「相当のリスクを負っても、主の間違いを正そうとするのが家臣の自立なら、自らの智を過信せずプライドを傷つけられても耳を傾けるのが、君主の自立」とされたようだ。確かに、問題があっても上に言えない部下、下の意見を聞かない君主では、組織はダメになるからね。

第四は「倹約を守ること」、第五は「色や酒におぼれないこと」という意味の内容だ。

岡部長慎 画像

岡部長慎(ながちか)画像 土生町泉光寺

【くまた】 なるほど…。現在にも通じる内容だね。長慎は長職(ながもと)のおじいさんに当たるから、後継ぎの孫にも期待を込めて語りつくしただろうね。長慎は、相馬九方を三顧の礼で迎え入れ、私財も投入して藩校講習館をつくったんだね。会津藩には「日新館」という立派な藩校があったらしいけど、岸和田藩も教育には力を入れていたの?

《図書館》 会津の「日新館」は、藩の総力をあげ4年がかりで1803年につくられた。総面積は約7,200坪、建物面積も約4,000坪もあった。『新島八重 おんなの戦い』(福本武久著 角川書店)には、「藩士の子弟は全員入学が原則、入学金や授業料は免除され、日本最初の給食も行われていた。…幕末、五大藩校のひとつにあげられ、たとえば頼三樹三郎、吉田松陰、佐久間象山など他藩の藩士たちも武者修行や見学にやってきている」と書いている。

一方、岸和田藩が藩校講習館を設置したのは1851年だから、他藩と較べてもかなり遅い。でも、長慎は教育に力を入れ、名君の誉れが高かったようだよ。藩校は、地位や身分の別なく入学を許可し、横一線で競争させたらしい。

【くまた】 幕末の頃は、各藩が競って教育に取り組んで多くの優秀な人材を輩出しているね。混迷する時代こそ「人材が最大の財産」ということかな。

《図書館》 くまた君は、いいことを言うねえ。「まちづくりの基盤になるのは人づくり」だと言う人も多いよ。激動・混迷する時代には、なおさら人材の育成や発掘が重要だ。そのためにも、幅広く地域の教育力を培うことが大切なんだ。

【くまた】 その中で図書館も大切な役割を担っていると思うよ。さらに充実させて貢献できるようにがんばってね。協力するから。

《図書館》 そう言われると、嬉しいけど少し耳が痛いな。話題を変えよう。会津戦争や新島襄のことも話さないとね。

江戸城は「無血開城」だったけど、なぜ会津戦争になったの

【くまた】 話をそらされた気がするけど、まあいいか…。会津戦争ってすさまじい戦いだったんだね。江戸城総攻撃は、西郷隆盛と勝海舟の会談で中止されて無血開城になったからホッとしたのに、なぜ会津戦争をしなければならなかったのかな。

《図書館》 長州藩や倒幕派にとっては、京都守護職として尊攘派をとりしまった松平容保と会津藩は許しがたい存在だった。また、秘かに大阪城を抜け出して江戸に戻った徳川慶喜に対して、幕府の内部でも反発があり、新政府軍と戦うべきだと言う声も強かったようだよ。京都で幕府を支えてきた会津藩も同じことだ。

『新島八重の維新』(安藤優一郎著 青春出版社)には、「慶喜に対する痛烈な批判が幕府内に満ちたのは当然である。特に上方で置き去りにされた形の会津藩士たちの怒りは凄まじかった。慶喜の行動は、前線で戦う将兵を見捨てた敵前逃亡とそしられても仕方がない」と書いている。

【くまた】 八重さんの弟の三郎は、鳥羽伏見の戦いで重傷を負い江戸で亡くなったんだよね。その仇を討ちたいという気持ちもわかるけど…。

《図書館》 江戸に戻った慶喜は、朝廷に対する恭順の意を表明し、会津藩も江戸から去らせた。新政府は、仙台藩や米沢藩に会津討伐の命を出している。両藩は出兵するけど、同時に会津藩に対しては恭順を勧めていた。幕府と会津藩の調停工作もしていたんだね。

また、東北諸藩に呼びかけ列藩会議を開き、会津藩に対する寛大な処置を求める嘆願書を、新政府の奥羽鎮撫総督府に提出している。しかし、総督府の参謀・世良修蔵(せらしゅうぞう)の主張により嘆願書が却下される。列藩会議を主導していた仙台藩はこれに強く反発し、世良を暗殺してしまった。ついに政府との全面対決に至るわけだ。

仙台・米沢・盛岡・山形・福島・二本松などの諸藩は奥羽列藩同盟を結成し、そこに長岡藩をはじめとする越後の諸藩も加わり、奥羽越列藩同盟に発展するんだ。会津藩はこの列藩同盟をバックに、新政府との徹底抗戦の道を突き進むことになる…。

【くまた】 へー、すごいことになったね。まるで「東軍」対「西軍」の戦争だね。

会津へ向かった新選組に、岸和田出身の隊士がいた

《図書館》 慶喜の恭順方針に反発する徳川家の家臣たちは、上野の寛永寺に集結し「彰義隊」を結成した。決戦場となる会津へ向かう兵士たちもいたらしい。会津藩の配下として活躍した新選組は、江戸に逃げ戻った後、「甲陽鎮撫隊」と改名し甲府城へ向かう。甲斐国の鎮撫を命じられた訳だが、大敗する。近藤勇は江戸板橋で処刑され、土方歳三(ひじかたとしぞう)らは、宇都宮城攻防戦を経て会津へ向かうんだ。

新選組130人余は、関東から奥州への入り口に当たる白河に入った。土方は負傷したため、斉藤一(さいとうはじめ)が指揮を取った。1868年4月11日の江戸城無血開城は、このような緊迫した状況の中で行われたんだ。

そして、4月末から白河城攻防戦が始まった。この攻防戦の最中に江戸でも戦争が起きる。彰義隊の戦いだ。これらの戦いは新政府軍の勝利に終わり、奥羽越列藩同盟の拠点は次々に落とされる。8月23日には新政府軍の先方隊が会津城下になだれ込んできた。八重は、弟三郎の形見である着物と袴を身に着けて男装し、スペンサー銃を担いで鶴ヶ城に入る。約1ヵ月間に及ぶ籠城戦が始まる…。

ところで、会津に向かった新選組の中には、松本喜次郎という岸和田出身の隊士が参戦し戦死したらしいよ。

【くまた】 へー、岸和田からも新選組の隊士になった人がいたの?

《図書館》 昨年『新島八重』(みさきりゅうま著 新人物往来社)という本が発行された。「筆者が所属している同志社泉州クラブで、大河ドラマ『八重の桜』の主人公・新島八重らが何度も『だんじりの町・岸和田』に通ったという情報を入手した方がおられ、同窓意識を刺激するような企画ができないかと考えたことが執筆のきっかけ」らしい。その本の中で、「福島県郡山市の正福寺の言い伝えによると、松本は寺の墓地に瀕死の重傷を負って倒れており、住職の介抱のかいもなく亡くなります。墓石に『新選組士』と刻まれており、生き残った隊士らも松本を隊士として『会津にて戦死』と記録していることから、近藤の死を知った松本自身が新選組隊士として会津で死ぬ覚悟を決めたと推察されます」と書いてあるよ。松本喜次郎は、池田屋事件の時も参加したようだ。

著者は、岡部長職が新島襄に宛てた手紙のことや、新島襄・八重夫妻と岸和田の山岡家の人々との深いつながりのことも紹介してくれているよ。

【くまた】 そりゃうれしいな。この「岸和田再発見」の企画ともばっちり合うね。じゃあ「明治維新後の岸和田藩」の話にしようよ。会津戦争のことは、大河ドラマを見ればわかるから。

版籍奉還と廃藩置県で、岸和田藩はなくなり岸和田県に

《図書館》 明治維新後の岡部長職の足跡については、『評伝 岡部長職』に詳しく書かれているから、この本を中心に見てみよう。長職が藩主になってからすぐに版籍奉還があり、長職は岸和田知藩事になった。その2年後には「廃藩置県の詔」が発せられ、東京へ行くことになる。

【くまた】 版籍奉還、廃藩置県ってどういうことかな?

《図書館》 江戸時代には、藩主が領地と領民を支配していたよね。王政復古によって幕府は消滅したが、藩は残っていた。そこで、政府は全国の諸大名に命じて、版(領地)と籍(領民)を天皇に返上させた。でも、政府は発足後間もなかったので、まず倒幕の原動力となった薩長土肥4藩が明治2年1月20日に奉還し、各藩がそれに続く形をとった。また、統治の継続性も考慮して、藩主はそのまま知藩事として藩政に当たることになった。6月に長職は新たに知藩事に任命された。そして、旧藩主や上層の公家は華族、武士は士族、農工商民などを平民としたんだ。

しかし、そのままでは中央集権の実効は上がらないので、全国の藩を廃して県を置き、統一国家を樹立しようとしたのが廃藩置県だ。その断行に当たって、すべての知藩事をやめさせて東京に住まわせた。岸和田藩に廃藩置県の一報が伝えられたのは明治4年7月22日。長職は8月8日に東京へ発った。

【くまた】 藩主になってすぐに藩がなくなるなんて、あっけないなあ。突然解雇を言い渡されたことになるね。まだ若いのに、東京に行って生活するのも大変だね。

《図書館》 確かに各藩主にとっては大変なことだ。もちろん、不満や反発はかなりあった。藩主を慕う群集が城下に集まり暴動のようになった藩もあるけど、全体としては大きな混乱もなく進められたらしい。

長職も、若くして東京へ行くのは大変だけど、江戸生まれ江戸育ちだからね。岸和田に入ったのは9歳のときだ。『評伝 岡部長職』には、「彼は3年間の岸和田生活を経て12歳で江戸へ帰り、幕末の混乱期は江戸、京都、そして岸和田を忙しく往復する生活を送ることになる」と書いている。また、『江戸300藩最後の藩主』(八幡和郎著 光文社)には、「参勤交代が制度化された後は、大名の正室と嗣子(しし)は江戸に住まさせることになった。…領国で生まれても嗣子になったとたんに江戸に引っ越すことになったから、江戸育ちの割合はもっと大きかった」と書いている。江戸時代は、ほとんどの大名が「江戸生まれ江戸育ち」だったらしいよ。

※ 嗣子(しし)…家督を相続させる子。あとつぎ。

藩校「講習館」を充実した内容に整備

【くまた】 なるほど…。藩主は家族そろって暮らすことはほとんどなかったのか。でも、長職が知藩事として過ごしたのは3年だけだね。その間にどんなことがあったのかな。

《図書館》 いろんなことがあったよ。幕末に家督相続に絡んだ岸和田騒動があっただろ。その時は義党派の主張が認められて岡部結城や相馬九方が拘引されたという話をしたね。しかし、後に義党派の不正が明るみになって釈放され、逆に降屋宗兵衛たちが処罰された。長職は、自らの監督不行届きとして太政官に進退伺いも出した。結局は「おかまいなし」となったけど…。

【くまた】 そりゃ大変だ。早くわかっていれば、長職は藩主にならなかったかも?

《図書館》 よくわからないけど、その可能性もあるかな…。でも、長職は新しい時代に向けてがんばったようだよ。その一つが、藩校「講習館」の整備強化だ。内容もかなり充実したものだったらしい。『評伝 岡部長職』には、「どのようにして教師や教材を集めたのかわからないが、この時期としては、驚くべき充実した科目構成といわなければならない。使用言語もオランダ語ではなく、英語が選択されていた。…教科書を見ても、ウエブスターのスペリングやバーリーの万国史などは、のちに長職が学ぶことになる慶應義塾と同じもので、いわば東京の英学塾で用いられていた最先端の教材が使用されていたことがわかる」と書かれている。

長職は、東京へ行ってからも学問をめざした。明治4年に英学修行願を東京府へ出し、明治7年には慶應義塾に入った。福沢諭吉の評判も良かったらしい。その頃、新政府は華族に留学を奨励していた。そこで、アメリカへの留学を志すことになるんだ。

新島襄のすばらしい人たちとの出会い

【くまた】 アメリカに行って新島襄のことを知るんだね。でも、新島襄ってどんな人かな。

《図書館》 本名は、新島七五三太(しめた)というんだ。やっと男の子が産まれたので、おじいさんが「しめた」と叫んだことから命名したという逸話もある。蘭学や英学を学び、幕府の海軍伝習所で数学、航海術も学んでいる。聖書に触れると共に『ロビンソンクルーソー』の日本語訳版も読み、海外への夢を膨らませていたらしい。

そして、箱館に行く機会があったので、1864年6月にアメリカの商船ベルリン号に密かに乗り込んだ。もちろん、国禁を犯す密航だ。でも、渡米したいという決意に感動した船長セヴリーの義侠心により、幸運にも密航できた。上海でアメリカに向かう船に乗り換えることになるが、その船長テイラーにも気に入られ、ジョーと呼ばれて可愛がられた。以後、ジョーという名で通し、帰国後は新島襄としたらしい。インド洋を回ってアフリカの喜望峰を経由し、1年半もかけてアメリカのボストンに到着したそうだよ。

【くまた】 1年半もかかったのか。だけど、その間に英会話もかなり上達しただろうなあ。それにしてもラッキーな出会いだね。青年新島襄の熱い思いが船長の心を動かしたと思うけど…。

《図書館》 それだけじゃないんだ。テイラー船長は、船主のハーディに襄を紹介してくれた。

ハーディ夫妻は熱心なクリスチャンだった。新島襄の「キリスト教のことをもっと深く知りたい」という熱い思いに感動し、物心両面から支援してくれる。襄は、ハーディの母校であるフィリップス高校に、卒業後はアーモスト大学に入学し理学士の称号を得る。そして、アンドーバー神学校で学んで宣教師の資格も得た。本当にすばらしい人たちとの出会いがあった。

それらの経過については、『地上の星』(真下五一著 現代社)という小説に詳しく描かれているよ。

アンドーバー神学校 画像

アンドーバー神学校  同志社社史資料室提供

【くまた】 へー、自分の子どものように世話をしてくれたんだね。

《図書館》 その間に、日本は大きく変わった。襄は、明治4年5月26日付で外務省から米国留学免許状を交付された。密航の罪が解かれ、日本政府から留学生として公認されたんだ。そして、翌5年には、日本から条約改正交渉のための使節団が渡米してくる。岩倉具視(ともみ)を全権とし、大久保利通・木戸孝允(たかよし)・伊藤博文など政府首脳の面々が欧米諸国に派遣されたんだ。襄は、その使節団の通訳を依頼され、アメリカだけでなくイギリス、フランス、ドイツといった西欧諸国の視察にも同行した。

【くまた】 岩倉具視や木戸孝允と同行したんだ。すごいなあ。だったら、政府の偉いお役人になっても不思議はないよね。

《図書館》 そういう話もあったけど、断ったらしい。アメリカの伝道協会からは、アメリカに帰化しないかと口説かれたが、これも拒否している。日本にキリスト教主義の学校をつくる決意を固め、明治7年11月に帰国した。『新島八重 おんなの戦い』には、「自然科学を学ぶうちに、西洋文明の背後にはキリスト教の精神があると悟った。…そうして、いつしか軍艦や商船をつくるよりも、人間をつくることのほうが大切だと思うようになってゆくのである。ピューリタンの精神とデモクラシーの精神がアメリカを築いたにちがいない。新世界アメリカの息吹を日本の若い世代につたえよう。そんな思いに駆られて、およそ10年ぶりに日本に帰ってくるのである」と書いている。その翌年の明治8年11月26日に、岡部長職を乗せたハワード号は横浜を出港し、サンフランシスコへ向かった。

岡部長職と新島襄の偶然の出会い

【くまた】 ほとんど行き違いだね。だけど、長職はどうして新島襄のことを知ったのかな?

《図書館》 長職の母冬青(とうせい)のお兄さんである鳥居忠文(壬生藩最後の藩主)は、司法省からの派遣でニューヨークに留学していた。長職にアメリカ留学を勧めたのもお母さんのようだよ。ニューヨークでは、長職の叔父に当たる鳥居があれこれ世話を焼いてくれたそうだ。

『評伝 岡部長職』には、「長職と新島の接点となったのは、ハーディだったようである。…ちなみに、ハーディと長職を結びつけたのは鳥居だったのではないかと思われる。鳥居はアンドーヴァー・フィリップス・アカデミーとアーモスト大学で学んでおり、新島の後輩に当たっていた」と書いてあるよ。

【くまた】 多分そうだろうね。きっとハーディは、長職に新島襄のことを誇らしげにいろいろと話したんだろうね。「あなたも新島襄を見習いなさい」と言ったかもしれないね。長職も、その話を聞いて感動したことが想像できるよ。それにしても、いろんな偶然が積み重なっているんだなあ。

新島襄と覚馬や八重との出会いも、偶然の積み重ね?

《図書館》 偶然な出会いの積み重ねということでは、新島襄と八重の出会いも同じだ。八重の兄覚馬が生きていなければ2人の出会いはない。覚馬は、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕われた。その頃には眼の病はかなり進んでいた。しかし、会津と薩摩はかつて同盟関係にあり、知人も多かった。監禁されたとはいえ丁重に扱われ、囚人としては破格の扱いを受けていた。薩摩藩に捕えられたことは八重の家族にも伝わっていた。当然、処刑されたと思っていた兄が生きていたという知らせを受けて、八重たちは故郷を捨て京都へ向かう。父と弟を失い、夫とも離別し、失意のどん底だった八重にとっては、一筋の光明だったかもしれないね。

【くまた】 薩摩藩の人たちとの親しい付き合いがなかったら、覚馬は処刑されていたかも知れないね。また、眼が悪くなかったら、最前線で戦って戦死していたかも知れないな。

《図書館》 また、覚馬は学問にも優れていたんだ。幽閉中に「新生日本」のイメージを『管見』という意見書にまとめ上げた。口述筆記でね。「欧米の現実に眼をむけ、そこから新しい国家のありかたを説いた提言書というべきもので、23項目にわたっている。…とくに注目すべきは『権ヲ分ツ』という思想である。天皇制のもとでいわゆる三権分立を説いているのだが、当時『権ヲ分ツ』べし、とストレートに言っていたのは覚馬のほかには見当たらないのである」(『新島八重 おんなの戦い』)ということだ。それが京都府に注目され、明治3年に維新京都の「都市おこしプランナー」として迎えられた。

【くまた】 じゃあ、新島襄はどのようにして覚馬と出会ったの?

《図書館》 次の文章を読んでごらん。「明治7年(1874)11月26日に日本に帰ってきた新島襄は、翌年の明治8年(1875)1月22日に大阪にくだって、宣教医ゴードンのもとに投宿し、ただちに行動を開始している。おりから参議の木戸孝允が来阪中だった。岩倉全権大使の通訳をつとめた関係で、副使だった木戸と新島襄はすでに顔見知りだった。新島は木戸と会って、大阪で学校が設立できるよう知事の渡辺昇への仲介をもとめ、木戸の快諾もえられた。けれども渡辺知事は外国人宣教師のかかわる学校には難色をしめしたため、大阪開設の計画はあえなくついえてしまった」(『新島八重 おんなの戦い』)。その後、木戸の紹介状を持って京都に行く…。

【くまた】 残念だなあ。大阪にできていれば、岸和田とはもっと親密な関係になったと思うけどなあ…。だけど、それでは襄と八重さんとの出会いはなかったかな?……。

《図書館》 襄は、京都府の大参事である槇村正直と面談し、そこで覚馬を紹介されるんだ。「偶然にも、襄が寄宿する宣教師ゴードンから『天道遡源』を既に贈られていた覚馬は、キリスト教の教えに大いなる感銘を受ける。聖書にも眼を通していた。度重なる偶然に、襄は神に感謝しないではいられなかった」(『新島八重の維新』)という訳だ。『天道遡源(てんどうそげん)』とは、米人宣教師マーチンが自らキリスト教の教義を中国語に著した書物だ。

覚馬は、新島襄と意気投合し、京都で学校を創立するように熱心に勧め、全面的に協力するようになる。襄は、覚馬の家に同居し、共に創立準備の活動に奔走するんだ。覚馬との出会いがなければ、「襄の夢」の実現はもっと困難を極めただろうね。

【くまた】 そして、八重さんと出会ったということだね。ということは、お兄さんの影響で八重さんもキリスト教を学んでいたのかな?

《図書館》 そうらしいよ。八重もゴードンから聖書を学んでいた。襄が覚馬の家に同居するようになる前後からは、襄からも聖書を学んでいる。新しいものに惹かれ、西洋文明の入り口でもある聖書に強い関心を持ったことは、充分想像できるね。

でも、キリスト教は明治維新後も禁止されていたんだよ。諸外国からの抗議で、明治6年に解禁されたばかりだ。そして、京都は仏教勢力が強いから、なお大変だったらしい。キリスト教主義の学校創立に対する反対論は強く、仏教徒による反対運動も強まった。そこで、学校内では聖書を教えないという条件で、明治8年11月29日に同志社英学校が創設された。襄と八重が結婚したのは、その翌年。京都で初のキリスト教式の結婚式だ。

【くまた】 結婚に至るいきさつは、何度もテレビで紹介されているね。「亭主が東を向けと命令すれば、3年でも東を向いているような東洋風の夫人はごめんです」という襄の結婚観や、「彼女は決して美人ではありません。私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。私にはそれで充分です」という八重への評価などは、現代からみても進歩的な男性だと思うなあ。大河ドラマの八重さんは外見も美人だけどね…。ところで、明治8年11月と言えば、長職がアメリカに向けて出発した時だったかな…。

《図書館》 長職が出発したのは26日だから、その3日後に同志社が設立されたことになるね。長職はサンフランシスコに到着した後、ニューヨークに向かう。この後、グラウ婦人からの個人教授を経て明治12年(1879)にイエール大学に入学する。この間にキリスト教の洗礼を受け、明治11年5月に、新島襄へ英文で「岸和田の人々にキリスト教を伝道してほしい」という手紙を送ったんだ。

新島襄・八重夫妻と、岸和田の山岡家との家族ぐるみのつき合いが…

【くまた】 それは「大正・昭和時代の岸和田」(その1)にも書いてあったね。確か「山岡尹方(ただかた)という人に連絡してほしい」ということも書いてあった。

《図書館》 よく覚えているね。新島襄は、明治11年7月20日に岸和田に到着し、約1週間にわたって講和説教を行ったんだ。『新島八重』には「12月には八重夫人を伴い再び岸和田に足を運んでおられ、翌年3月にも夫婦で伝道をしておられます」と書いている。また、『評伝 岡部長職』には、「新島が帰ったあと、8月4日に山崎為徳が岸和田に派遣され、徳富猪一郎(蘇峰)、健次郎(蘆花)兄弟など6人の学生もやってきて、約1ヵ月滞在した。いわゆる「岸和田キャンプ」といわれる修養と伝道の日々であった。以後、岸和田でのキリスト教伝道は、山崎、下村孝太郎らの努力で徐々に浸透し、明治18年9月の岸和田教会設立へと結実していった」と書いている。これらを見ると、かなり力を入れて伝道活動をしていたことがわかるね。

そして、長職が信頼した山岡尹方は、岸和田伝道の核となった。「自身・甥・息子・娘は同志社に入学するだけでなく、甥・息子は牧師として各地を転々とすることになります。自宅は同志社に伝道拠点として使わせるだけでなく、岸和田教会設立に際して土地・建物を提供します」(『新島八重』)という惚れ込みようだ。こうして、山岡家の人々は、新島襄・八重夫妻との家族ぐるみのつき合いを長く続けることになった。また、新島襄が岸和田に来る時、ユーカリの苗を持参し、山岡家の庭に植え付けたらしいよ。これらの経過は『新島襄と山岡家の人々』(岸和田市立郷土資料館)や『岸和田教会百年史』にも詳しく書かれている。

旧岸和田教会礼拝堂 画像

旧岸和田教会礼拝堂 明治~昭和初期 山岡家提供

 【くまた】 その植木は、現在もあるの?

《図書館》 『評伝 岡部長職』には、「山岡尹方の孫信夫が旧制岸和田中学の生徒だったとき、その若木を校庭の庭に植え、その子孫がいまも府立岸和田高校の校庭で大きな枝を広げている。山岡家のユーカリは昭和9年(1934)の室戸台風で根本から倒れてしまうが、その幹を材料として十字架が作られ、長く岸和田教会の講壇に飾られた」と書いている。

【くまた】 山岡尹方って、確か岸和田煉瓦(株)の初代社長になった人だね。その長男の邦三郎が春さんと結婚し、その山岡春が女性運動で活躍したんだよね。

《図書館》 さすが、くまた君。ちゃんと勉強してきたね。岸和田煉瓦(株)(以下、岸煉)の社章は十字架で、すべての製品に十字架の刻印が押されている。『新島襄と山岡家の人々』の中の「岸煉の経営と、尹方のプロテスタント信仰は密接な関連が認められる。…寺田甚与茂が経営する岸和田紡績では、大正~昭和初期、大規模な労働争議が起こるなど労使の対立関係が顕著に見られたが、岸煉ではそのような形跡は認められない」という指摘も興味深いね。

また、邦三郎は同じキリスト教系列の築地大学校(現・明治学院大学)に入学し、明治14年に同志社に転校している。尹方も明治14年に同志社に籍を置いているから、親子いっしょに通ったこともあったと思うよ。卒業後は群馬を皮切りに会津・高松等へ牧師として派遣される。「群馬といえば新島先生の出自は安中藩、会津といえば八重夫人の故郷…会津へは明治19年9月より3年6ヵ月間、赴任していました。結婚も会津赴任中にします」「春は筑後国柳川藩の下級藩士の家に生まれ、大阪に出て梅花女学校(現・梅花学園)に入り在学中に受洗、卒業後は仙台教会へ招かれたデフォレスト牧師に付き従って補助をしていました。会津赴任中の邦三郎が説法へ仙台に赴き、春が司会をしたのが最初の出会い」(『新島八重』)だったらしい。

山岡夫妻 画像

山岡尹方・佐居夫妻 山岡家提供

【くまた】 こうして考えると、岸和田と会津とは結構つながりがあるんだな。新選組の松本喜次郎は、会津戦争に行って戦死したらしいし…。『八重の桜』を見ながら、改めて「東北との絆」のことも考えないといけないな。

八重72歳の時に、岸和田で講演したテーマは「白虎隊」

《図書館》 実は、八重が72歳の大正6年(1917)にも、山岡家からの依頼で泉南女学校(現在の和泉高校)で講演している。そのときのテーマは「白虎隊」だったらしい。『新島八重』には「女学校の校友誌『岸乃姫松』には『白虎隊ニ関スル講和アリ』と記されています。八重夫人の武勇伝が注目されがちですが、若き八重婦人が遭遇した弟のような十代の少年兵20名が自刃した飯盛山の悲劇こそが、歴史の生き証人としてどうしても伝えなければならなかった史実であったのです」と書いている。

【くまた】 会津戦争・白虎隊の悲劇から約50年たった頃だね。何となく広島・長崎の被爆者が、生き証人として被爆体験を語っている姿とだぶってくるなあ。「白虎隊の悲劇をいつまでも忘れないでほしい」と訴えたのかなあ。現在で言えば、「東北大震災のこと、福島の原発事故のことを忘れないで」「風化させないでほしい」ということになるのかな…。

《図書館》 東北を大河ドラマの舞台にした背景には、東北復興への熱い声援が込められていると思うよ。『八重の桜』を見ながら、そんなことも考え話し合える機会をつくりたいね。

※ 写真は、『新島襄と山岡家の人々』、『岸和田藩の歴史』(岸和田市立郷土資料館発行)に掲載されているものを転載。