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牛滝山・大威徳寺

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2013年12月10日掲載

牛滝 画像 牛滝画像 2牛滝画像3

『和泉名所図会』

 牛滝山は、古くから紅葉の名所として知られ、この山を山号とする大威徳寺周辺では、さまざまな秋の色彩が訪れた人の目を楽しませてくれます。紅葉が見頃を迎える11月には「牛滝山もみじまつり」が開催され、和菓子、だんじりグッズなど、岸和田らしさ溢れる物を扱う出店が並び。美しい紅葉の下、大勢の観光客で賑わいます。また、大威徳寺境内一帯は府の名勝にも指定され、重要文化財に指定されている多宝塔の朱色と調和し、秋の情緒をいっそう感じることができます。近年は、平成11年5月に新たに開業した牛滝温泉いよやかの郷(さと)が年間を通して人気をあつめています。その自然豊かな牛滝山と歴史ある大威徳寺を探ってみましょう。

紅葉の名所としての牛滝山 ……どれくらい知られていたのでしょうか?

江戸時代から広く紅葉の名所として知られていた牛滝山ですが、秋里籬島(あきざとりとう)著、竹原春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)絵のコンビで寛政八年(1796年)に出版された『和泉名所図会(いずみめいしょずえ)』には、「牛滝丹楓見(うしたきたんふうけん)」と題して楽しい紅葉見物の様子が描かれています。

牛滝丹楓見 画像

名所図会というジャンルは、安永9年(1780)刊の秋里籬島著・竹原春朝斎画の『都名所図会(みやこめいしょずえ)』が最初と言われています。文章だけでなく挿絵を多用し浮世絵の影響もあって、俯瞰図(ふかんず)風の写生画が用いられています。名所図会の挿絵は、地理的説明だけでなく、鑑賞にも堪えるものでした。全国の名所図会が出版されていますので、図書館で一度目にされると興味深い内容に出会えるでしょう。

 今と違って、簡単に旅できる時代ではなく、一般人は社寺への参詣を名目に旅をしました。平安末から鎌倉時代は特に熊野詣が盛んで、室町時代以降、伊勢参りや西国三十三所、四国のお遍路などが盛んになりました。さらに街道が整備され、旅が盛んになるにつれ、「名所図会」は大いに人気を集め、続々と各地で制作されました。同じように、文化4年(1807年)頃からの旅行ブームに伴い、名所絵(風景画)も盛んに制作されるようになります。

葛飾北斎が『富嶽三十六景』を手がけ、それが元で歌川広重によって『東海道五十三次』が刊行され、これが大いに評判となり、以降各地の名所絵がシリーズ化されています。

名所絵のシリーズも数多く出版されていますが、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて出版された二代広重の描いた『諸国名所百景』に、和泉国を代表して牛滝山「泉州牛滝丹楓(たんふう)」が採り上げられています。しかし、全国85枚にも及ぶ絵を描くために現地へ足を運ぶことはできず、色々な資料を参考に描かれたようです。当然、「和泉名所図会」も参考になったことでしょう。「和泉名所図会」と「泉州牛滝丹楓」を比べてみてもおもしろいですね。

※『和泉名所図会』 活字翻刻 堀口康生/校訂 昭和51 柳原書店

※『岸和田市立郷土資料館名品集』平成12 岸和田市立郷土資料館※「泉州牛滝丹楓」収録

 また、元禄13年(1700)に著された『泉州志(せんしゅうし)』に牛滝縁起が掲載されていますが、その中に「楓樹一山を擁して最も奇絶の壮観也、騒人墨客到らずはあるべからず」と書かれているのをみれば、この頃は既に紅葉の名所であったことが伺えます。

 文化10年(1813)11月には、近畿圏の名物、物産などを網羅した『五畿内産物図会(ごきないさんぶつずえ)』が出版され、牛滝の紅葉も絵入りで収録されています。『五畿内産物図会』は、大阪の書林塩屋平助らが四軒で合梓した五冊本で、巻二が和泉編。巻頭に「和泉國見耶希裳乃(いずみのくにみやげもの)」の扉をつけ、各地の特産品を図示し、併せて当代の人々の詩歌を掲げたもの。編者は大原東野(おおはらとうや)原画は地元の絵師を登用していることも特徴です。

五畿内産物図会 画像

五畿内産物図会 和泉之部 

『和泉國見耶希裳乃』 ※収録右図の内容

牛瀑山頭、碧空に秀づ/飛泉百丈、

白雲の中/曲看す旦夕、

双峰の色/錦繍染め成す青女工

泉南、華陽 道恒

染くかし紅葉をやがてさそふかなうし滝の山のこがらし 

サカイ 齋

牛滝紅葉 佐野木綿 大津島

 名所でもあった牛滝の紅葉と和泉(佐野)木綿の絵に、牛滝の秋と初冬をうたった歌を掲載したもので、大津島とあるのは宇多大津(泉大津市)の名産品であった大津縞だと考えられます。

 他にも松村(上松・下松)のあみ笠、岸和田のひしこ、海鰻(アナゴ)、などが掲載されています。今では消えてしまった物産も多く往時の産業を知る好資料です。

 『大阪年中行事資料 第一集』(出口神暁編 和泉文化研究会)に収録された大阪市内の年中行事や風物をまとめた資料「大阪繁花年中行事(大阪繁花風土記所載)」(大正12年 木村助次郎刊)には、10月の項目に以下のように記載されています。

当月所々紅葉

 其の方大抵、八丁目寺町宝樹寺、寺中の庭なれど頗る見事なり。此外寺々の庭に少し宛は有ど当寺に及ばず。扨近まはりには伊丹の北浮光坊には通天をうつす。または箕面山吉祥院或は生駒山の宝山寺にはもみぢ数株あれど人是をしらず。名だたるもみぢは泉州牛滝山、堺より六里、諸山一面の紅葉絵にかくともおよばぬ程の事也。

 また、『夫婦善哉(めおとぜんざい)』で有名な織田作之助が書いた「アド・バルーン」(昭和21年)にも以下のような文章があり、昭和の初め頃にも牛滝の紅葉は広く知られていたことがわかります。

 とうとう俺を背負うて、親父のとこイ連れて行きよった。ところが、親父はすぐまた俺を和泉の山滝村イ預けよった。山滝村いうたら、岸和田の奥の紅葉の名所で、滝もあって、景色のええとこやったが、こんどは自分の方から飛びだしたった。ところが、それが病みつきになってしもて、それからというもんは、どこイ預けられても、いつも自分から飛び……

 『和泉名所図会』には見事な紅葉を次のように記しています。

和泉名所図会 画像和泉名所図会 画像

 此山の丹楓(もみじ)は、高雄通天にも劣ずして、谷の低きも峯の高きも、紅ならざるはなし。其くれなゐの中より、三ッの瀧、だんだんにおちて、牛石さしはさみて水の音つよく、霜に染めたる紅葉、此牛の背に散かさなりて、錦の褥を着せたるが如し。あるは溪(たにがわ)の早き瀬に流ながれ、あるは巖の肩に舞止まるもあり。散かたには、坊舎の書院厨まて、みな、紅にて、人の顔も赤き面を被きたるが如し。楚岸、呉江もこれにはまさらじとぞおもふなるべし。

大威徳寺と信仰の山々……どんな歴史を持ったお寺だったのでしょうか?

牛滝山大威徳寺 画像

  牛瀧の莊にあり。いにしへは石藏五山といふ。坊舎四十宇あり。本坊方は真言宗。穀屋方は天台宗。それ当山は、役の優婆塞、開創し玉ひ、その後、弘法大師、惠亮和尚も、経歴して中興し玉ふ。いにしへは石藏五山となづく。転法輪の嶺あり。こゝに、高坐石ありて、是これ、佛の猊の坐也といふ。初め役の行者こゝに来って第二の瀧の上に修錬し、不動尊を彫刻して、これ安置す。今の明王堂なり。(中略)一山に楓多し。秋の末には、紅錦を布くが如し。麓より峯まで、紅葉ならぬ所はなし。坊中の書院に映じて、衣類、諸器まで、紅を灌ぐが如し。最も奇絶の壮観也。騒人墨客、こゝに到ずんばあるべからず。

 このように寺の由来を述べています。この寺を開いたのが役の優婆塞(えんのうばそく)つまり役行者(えんのぎょうじゃ)だというのです。飛鳥時代から奈良時代の修験道の開祖とされている人物です。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者と呼ばれるようになりました。修験道とは山中に修行の場を求めて山を巡るもので、牛滝山に関わるものとしては、友が島から和泉山脈を経て大和川の亀の瀬(大阪・奈良府県境付近)に至る葛城修験があります。山中に28の行場・祈祷所を定め、それぞれに法華経の写経を埋納した経塚を設け、葛城二十八宿と名付けられ、鎌倉時代頃に成立したと考えられています。その第九経塚が和泉葛城山頂にある峯の龍王、そして第十経塚が牛滝山大威徳寺、第十一経塚が和泉市父鬼の経塚山七輿寺跡となっています。

『葛嶺雑記(かつれいざっき)』(昭和54年 摂河泉文庫発行)には、牛滝山大威徳寺について「本堂大威徳明王、大師堂等 真言宗滝本坊支配、其余護摩堂・不動尊・神変大士・二重塔の大日如来等は天台宗穀屋坊支配、惣門の中に経石あり。妙 法師品第十之地」と記されています。

しかし、惣門の中にあるとされる経石の所在が特定できなかったようで、『岸和田の文化財2』(昭和41年 岸和田市文化財保護専門委員編 岸和田市教育委員会)に次のような記載があります。

地図 画像

 先年、京都聖護院の修験道山伏が、この葛嶺28宿の金剛界道場を中興せんとして回峰したのであるが、牛滝山はこの経を納めた場所が不明の為に即ち総門内にあるという旧記にもとづいて仮の場所を設けて修法したとのことである。

 私はこの話しを過日犬鳴山の東条管長より聞いて、何としてもこの経塚を発見したいと、5月27日牛滝山に吉川住職を訪ねたが、同氏も一向に知らない。それで総門内のそれらしい場所を調査していただくことを依頼して帰った。外の28宿は皆それぞれ経石を立てて祀っているらしい、現に写真を見せてもらったが、牛滝はいつの頃かこの大切な魂とも言うべき納経所を失った事は残念な事であり、又1つ開山役の行者に対して申訳がないと思う。而し古文化財関係の私が私1人でこれをさがしもとめてもなかなかむつかしい問題であって、同寺保存の元禄の絵図にも、経塚らしいものは見出せないのである。もし皆さんの中で、古老から或いは家の言い伝えかに、こんな話を聞いた人があったならば、市の社会教育課までご通知願いたいと思うのである。(三田記)

 名所図会にもあるように、大威徳寺の本尊は大威徳明王ですが、これは密教特有の明王で、五大明王のなかでも西方の守護者とされています。その姿は、神の使いである水牛に乗り、6つの顔は六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)をくまなく見渡す役目を表現したものです。6つの腕は、矛や長剣等の武器を把持して法を守護し、6本の足は六波羅蜜(布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を怠らず歩み続ける決意を表していると言われます。仏像の中でも異彩を放つ姿です。牛に乗っているところからか、牛滝という名前に関わるのか、牛にまつわって『重要文化財 大威徳寺多宝塔修理工事報告書』(昭和50年)にこんな記述があります。

 本堂には大威徳明王又の名を牛滝明王を安置し祭礼は三月二十五日、八月二十五日に行われ、もとは地元はもとより大坂、河内方面より牛を引き連れて牛市、牛滝参りでにぎわい、草相撲なども行われ参道には出店が並び連なったと言われるが、現在では農機具の発達により農牛も姿を消し寺も寂れ行くままの状態である。

  つまり牛についての信仰を集め、祭礼には多くの人々で賑わった時代もあったようです。この信仰に関連して各地で祭られた牛神について『岸和田の土と草と人3』(小垣廣次著 昭和59年刊)に次のような記載があります。

牛神様とは……農耕の大事な担い手であった牛

 牛は古来、農耕に大きな力を尽くしてくれた動物です。それだけにこのうえもなく、農民に親しまれ、家族の一員として愛されていました。人々は自分の子供と同じように、ふだんから牛が元気に育ってくれることを願って、牛の安泰を見守ってくれる神様として、牛神を祭ったといわれています。市内でもたくさんの牛神という小字名が残っています。多くは村外れの岡の上でした。そこに牛神と刻んだ石碑の立っているところもあれば、祠はなくて、小丘や大木の根元付近が牛神の祭場になっています。

 【各地の牛神まつりの伝承】

 祭りの日は8月7日(もとは旧暦の7月7日)で、この日を牛の盆とか、牛の節句という地方もあるようです。この日、祭場に、泥で牛型をつくったり、野菜で牛型を造って祭神としたようです。そして牛神講・牛神座という組織で、大人が中心となって、祭りを催す村もあったようですが、概ね子供の手に委ねられていました。

 各地の牛神祭りをのべてみることにします。和泉市の例をみても、昭和35年には約1,000戸で1,072頭の役用牛が飼育されていたのが45年には5戸で16頭に激減しています。このように農耕が機械化され牛がいなくなり行事も廃れていきました。

(畑)

 七日盆に区長の家で、ご飯・酒・野菜を供えて祭る。朝、川で牛をきれいに洗って、午後祭場につれていって参る。夕方牛神さんのご飯を貰ってきて牛に食べさせる。牛神さんのご飯を食べさせたら牛が病気をしないという。

(積川)

 8月7日、年寄り衆10人がまいる。この日は白飯と煮しめの弁当をもっていった。若衆や子供は大池で泳ぎ、牛は牛滝川で禊ぎをした。

(塔原)

 牛を飼っている家の人は、朝、牛を川で洗って、牛神さんにまいった。麦飯の握り飯に糠をふって牛神に供え、それを各家が一ケずつ貰って帰り、人間は食べるまねをして、牛に食べさせた。

(牛滝)

 牛滝にも、牛神があり、8月7日に祭ったという。その場所は二の滝付近にあったといわれています。

牛神 画像

 また、牛滝の大威徳寺は役の行者の開創と伝えられ、有名な役の行者の二十八宿の第十宿に比定され、寺は天台宗の寺として今に至っています。境内にある多宝塔は国指定の重要文化財に指定されています。そして、この寺は昔から牛の寺として信仰され、会式は3月25日・8月25日と年2回あって、牛が農家で飼育されている頃は、牛は背中にユタンを掛けてもらい、角には紅白の角巻を、首には首たすきと、美しく着飾られて飼い主に引かれて参ったといわれています。飼い主は寺でお札をいただき、この札は牛小屋にはり、牛の無病息災を祈念したといわれています。当日は、出店もたくさん出て賑わったといわれています。

 また、牛滝周辺には、「西国三十三箇所」の巡礼道があります。古く平安時代から始まったとされる三十三箇所の巡礼も、江戸中期になって巡礼道も整備され、『西国三十三所名所図会』も出版(1853年)されるなど、物見遊山的要素も加わって大勢の巡礼者で賑わったようです。第三番粉河寺から第四番槙尾山施福寺への巡礼道がすぐ近くにあり、桧原越として巡礼の難所として知られていました。

しかし今では、和泉葛城山系にはハイキングコースが整備され、季節には多くのハイカーが登り、林道も整備されて和泉葛城山頂まで簡単に登れるようになりました。

※参考『和泉の古道=日記・紀行より見る=』辻川季三郎著 昭和62年 大栄出版刊

和泉葛城山とブナ林……すぐそばに国の天然記念物が!なぜ天然記念物?

 葛城山は、奈良時代に役小角(役行者)が開いたとされる葛城修験道場として信仰を集めてきた。伝説によれば、享保年間(1716~1736)、岸和田藩主岡部氏が狩に来山した時に、白鹿を射殺すると、たちまち雷が鳴り豪雨となった。そこで、藩主は巨石で社殿を造り、葛城一言主命・八大龍王をまつって山を鎮めたと言われている。以来、社は五ヶ荘(塔原、相川、河合、蕎原、木積)の郷社とされ特に雨の神として信仰された。7月18日、8月25日、9月22日には、祭礼が行われている。(『和泉葛城山ブナ林保護増殖調査報告書』より)

 和泉葛城山の山頂には、八大龍王を祀る祠と葛城神社があります。葛城神社と背中合わせに和歌山側には「八大龍王」の額を掲げた鳥居があり、石祠があります。

 和泉地方はいわゆる瀬戸内式気候型を示して、日本でも雨の少ない地域に属しています。夏季の稲作生育期において降水量が少なく、用水難に苦しむことがたびたびです。この地方の河川についてみると、山地から流出する河川は、いずれも短小であり、かつ下方浸蝕が著しく、深谷をなすものが多いため灌漑用水としての利用に恵まれません。

 この地方の灌漑用水不足を補うため、早くから溜池の築造がおこなわれました。多くの溜め池が前山に続く丘陵・台地の浸蝕谷を堰止めてつくった溜池で、地形の巧みな利用によってつくられています。

地図で岸和田を見てみると、溜池が一列に並び谷筋を利用して造られていることがよくわかります。岸和田では久米田池が最も有名で、大小数多くの溜め池が点在していますが、農地の減少や都市化の流れの中で年々減少の傾向にあります。

 昔は、雨に恵まれない時に、葛城山の八大龍王社の神事など雨乞いが各地で行われましたが、近年ほとんどの地域で途絶えてしまっています。

塔原町では昭和30年に「葛城踊り」が地域の人々の手で復活。平成5年には、大阪府無形民俗文化財に指定されました。現在でも子どもが少なくなったため少し形態を変えながら地域の人々の努力で継承されています。

 この葛城山頂の大阪側斜面に広がっているのが国の天然記念物である「ブナ林」です。『牛滝・葛城の自然』       

(岸和田市自然教材園指導資料2 岸和田市教育研究所)にその概要がまとめられています。            

葛城踊り 写真葛城踊り (岸和田市HPより)

国の天然記念物のブナ林

ブナ 画像

 大阪府下には、国の天然記念物がいくつがあるが、森林の指定は岸和田市にある、和泉葛城山のブナ林が唯一のものである。正確に言うと、葛城山頂の北側即ち大阪府側の斜面にあって、岸和田市と貝塚市にまたがっている。

 大阪府のように古くから開けた地域で、人里に近い和泉山脈はすでに人手の入った森ばかりであるのに、ここだけが、このような天然林が残ったのはどうしてだろうか。

 国の天然記念物に指定されたブナ林の区域は、山頂にある石の宝殿の神聖な社地として大切に守られてきたからである。すなわち、山頂は、古くは修験道、葛城の峰二十八宿の第九の行場として、また、江戸時代には、八大龍王社として、岡部藩からも手厚く保護されていた。そしてその社地は、五ケ荘(塔原・相川・河合・蕎原・木積)の人たちが守り、雨乞いの神として、現在に至っている。天然記念物に指定されたのは1923年(大正12年)で「史跡名勝天然記念物保存法」にもとづいて指定されたものである。当時、東北大学教授で後に生態学会の初代会長になった吉井義次氏は、この調査報告でつぎのように述べている。即ち、「ブナ林ノ面積ハ八町一段八畝十五歩 目通三尺以上ノモノ約1800本トセラレ 而モ多クハ目通五六尺乃至七八尺ノモノニシテ 其ノ一丈以上ニ達ルモノ亦多シ」とある。目通りとは木の太さを幹の周囲の長さで示すもので、1m強のものが1800本あったという記録である。そして指定する理由として、

(1) ブナ分布上の南限地内に近い地にあって、純林を構成することは、森林植物分布上重要である。

(2) 和泉山脈では連山すでに人手が入った林ばかりであるのに、ここだけにブナの天然林がある。

以上の二点をあげている。

 しかし、巻末には昭和57~59年の山滝中学校科学部の調査報告も掲載されていて、周囲91cm以上のブナの本数が1921年に1800本とされたものが176本に激減し、道路の開通や乾燥などの環境の変化にブナ林の絶滅を危惧する言葉で結ばれています。現在も岸和田市と貝塚市が連繋して保存に取り組んでいます。昭和63年2月には「和泉葛城山ブナ林シンポジウム」が開催され、その記録集が岸和田市教育委員会から発行されています。 

 また、平成7年発行の、『きしわだ自然シリーズ第1集 和泉葛城山のブナ林』(きしわだ自然資料館刊)も岸和田の自然、ブナ林の保護問題などについて考える好資料です。                     

牛滝山周辺の化石……昔は海の底だった

 和泉葛城山系では、和泉層群といわれる地層から多くの貝の化石を産出します。つまり海の底だったということです。和泉層群は、中央構造線の北側にそって細長く分布している中生代白亜紀後期の地層です。松山市の南西から東へ、徳島県と香川県の県境にある讃岐山脈、淡路島南部の諭鶴羽山地を通り、大阪府と和歌山県の県境の和泉山脈に至るまで、最大15kmの幅で東西300kmにもわたって続いています。特に泥岩が発達する地層からはアンモナイトや二枚貝、巻貝などの化石が多く産出し、昔からよく知られた化石産地になっています。貝塚市蕎原-岸和田市塔原付近、泉佐野市稲倉池付近、泉南市新家汗ノ谷付近などが知られています。

牛滝に温泉!?……以前にも牛滝に温泉の計画が

 最初に紹介した「いよやかの郷」の温泉は地下1650mの7千万年以上前の白亜紀の地層から湧きだしているそうです。近隣には、犬鳴山温泉、奥水間温泉の他にも近年は日帰り温泉が随所に生まれています。実は、牛滝にも以前「温泉を」という話があったようです。

 『岸和田の土と草と人』(昭和60年 小垣広次著)にそんな話が載っています。内畑町西堂のはずれに「昔木山」という地名があります。ここで採れた炭化した木(亜炭)は、戦時中の燃料不足の折りに、細かく砕いて豆炭のような燃料をつくっていたようです。その昔木山の麓の川原に二酸化炭素の湧いている淵があり、これを使って「湯の町」を建設しようという話があったそうです。それは実現しませんでしたが、牛滝山に「市民憩の家」が計画された頃にも、炭酸泉を沸かして入浴可能な憩いの家を誘致しようという動きもあったようです。近くの和泉市南面利町にも炭酸泉が多量に湧出していて、江戸時代から温泉宿があったらしく、嘉永6年(1853)暁鐘成(あかつき かねなり)が著わした『西国三十三所名所図会』に、次のような記述があります。

 「南面利(なめり)の湯(南面利村にあり。巡礼街道の傍(かたはら)に農家一軒ありて、ここに入湯の室を補理(しつら)ふ。この湯はこれより一丁ばかり向かふの山に、いにしへより鳥の地獄といひつたふる池あり。平生(つね)に下より泡吹き出でて止む事なし。(中略)『和泉名所図会』にも鳥の地獄と書けり。しかるを今年より八箇年ばかり以前、究理(きゅうり)の者ありて、この水をくみて湯とし、病者(びょうしゃ)をすすめて入浴せしむるに、かならず功験(こうげん)ありて快気するもの多し。

西国三十三所名所図会 画像西国三十三所名所図会

 また、『岸和田の文化財2』(岸和田市文化財保護専門委員編 岸和田市教育委員会)に、牛滝の四十八滝と題して行者が修行をし

 牛滝にも滝はたくさんある。滝の数を48とは何処から唱えはじめたものかは知らないが、100滝とはいわず、48とした遠慮がちな言い方が人の心をとらえたのであろう。

 牛滝も細かく数えていけば48は超えるかも知れない。今まで、3、4の滝の名があったが、大方は、無名のままだったので先年残りの滝に名がつけられた。牛滝へいって一度に見る滝が増え、今まで眠っていた観光資源が開発されてこの上もないよいことだと思う。牛滝山は、府の顕彰名勝地に指定されていたが、いよいよこれで名実共に備わったことになった。

 もう数年前にもなるが、洪水が出て川が荒らされたことがあった。牛滝の辺も相当ひどく荒らされた。しかし、周囲の崖崩れは別として、川筋の荒らされた所は、不思議に滝のない所が多かったようである。滝のある所、殊に滝の重立った所は案外に被害が少なくてすんだ。滝には、こんな水勢を緩和するという大事な働きがあるものである。48滝は、それ自身景勝でありながら、又自分を守っていくということになる。

 滝の出来方をここに詳しく書くことは出来ないが、牛滝の48滝の成因はと言うと、岩脈が河の流れを横切っている為にできた滝で、「岩脈断流瀑」と呼ばれている。 (昭和34.1 鈴木記)

 名高い紅葉や温泉を楽しみに、牛滝山を訪れてみてはいかがですか。