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濱田青陵(はまだせいりょう)って誰ですのん!?(ミニ岸和田再発見第8弾)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2015年8月4日掲載

 濱田青陵(1881年~1938年)、岸和田市でも知っている人は知っている、知らない人は全く知らない人物です。でも実は、図書館にある岸和田羊羹、いや、『岸和田要鑑』(*禁帯出)という岸和田市制記念誌を見てください。ここには当時の市長よりも前に濱田耕作先生が紹介されています。大正時代にはそれくらいの著名人だったことがわかります。

濱田耕作肖像

濱田耕作肖像 濱田邦夫氏提供

 これを書いている私(山岡)は、考古学を志して?大学へ行きました。そこでまず恩師の伊達宗泰先生から濱田耕作先生について教わりました。1回生の時に「考古学概論A」で最初のテキストに使われるのが、濱田先生の代表的著書『通論考古学』なのです。考古学概論Aの基礎テキストはこれのほかに「騎馬民族征服王朝説」で有名な江上波夫先生の『考古学ゼミナール』があり、基本はこちらを使って進めます。『騎馬民族国家』(中公新書1967年改版1991年、中公文庫1984年)しかし学問の基本理念に関しては、濱田耕作先生の唱えた「考古学は過去人類の物質的遺物(に拠り人類の過去)を研究する学」というのが基本となります。

 ですから濱田先生は「日本近代考古学の父」と呼ばれています。ちなみに日本考古学の母は誰だか知りません(笑)。強いて言えば大森貝塚を発見したエドワード・S・モースかなぁ?おっさんだけど。近藤義郎・佐原真編訳『大森貝塚』(岩波文庫1983年)

 では、濱田先生が日本近代考古学の父なら、日本考古学の元祖はだれでしょうか?それはみなさんご存じ「水戸光圀」水戸の御老侯さまと言われています。水戸のご老侯さまは、水戸藩領湯津上村にある那須国造碑(なすこくぞうひ)について、佐々宗淳(ささむねきよ:佐々木介三郎=あの「介さん!懲らしめてやりなさい!」のモデルですね)に命じて碑の修繕、鞘堂の建設を行いました。加えて、碑の近くにある古墳(上侍塚・下侍塚)を那須国造の墓と推定し、発掘調査を行いました。古墳からの出土品は絵師に描き取らせたのち、松板の箱に入れて元のように古墳内におさめ、墳丘もきれいに整備しています。これが日本における初めての学術的発掘調査といわれています。鈴木暎一『徳川光圀』(吉川弘文館 2006年) 

 ここまでさも訳知りに考古学について書いてきていますが、実は私、岸和田市に就職するまで大学の恩師の語っていた濱田耕作先生が岸和田藩士の出であり、岸和田と深い縁のある方だとは知りませんでした。お恥ずかしい話、就職してはじめて「濱田耕作」が「濱田青陵」と同一人物であることに気が付きました。「青陵」は雅号なのですね。後に恩師に話して大笑いされた記憶があります。

 濱田家は岸和田藩の上級藩士で、耕作は濱田家の長男として生まれました。屋敷は現在の蛸地蔵駅海側付近にあったようです。耕作は大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)に入学しますが、教師に反発したため放校処分となり、その後東京府に渡り旧制早稲田中学校に転校します。さらに、第三高等学校を経て東京帝国大学で美術史を専攻し、卒業後、ヨーロッパに留学して西洋美術史と考古学の研究を続けました。濱田の最初の著書が考古学ではなく『希臘紀行』(1918年)、『南欧游記』(1919年)なのは西洋美術史と考古学の研究という、非常に学際的な感覚の持ち主だったからなのです。

 帰国後は京都帝国大学考古学研究室の初代教授に就任し、後に京都帝国大学総長にまでなりました。濱田先生の没後も『通論考古学』は日本考古学の基本的教科書として長く親しまれ、日本考古学の最初の書として今も読まれています。