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「貝原益軒(かいばらえきけん)の『南遊紀行』」(ミニ岸和田再発見第28弾)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2016年12月1日掲載

 益軒(1630~1714)は、江戸前期から中期の儒学者、博物学者、庶民教育家です。教科書にも登場するので、ご存じだと思います。よく知られているのは、大衆健康書ともいえる『養生訓(ようじょうくん)』や、子女の教育法を説いた『和俗童子訓(わぞくどうじくん)』でしょうか。

 彼は、寛永(かんえい)7年11月、福岡藩祐筆(ゆうひつ)の子として生まれ、3代藩主光之(みつゆき)の時に約10年間京都に藩費遊学します。そこで各方面の学者と交わり、研鑽を重ねます。

 帰藩後、『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』を完成します。博物学では、江戸期本草書中もっとも体系的な『大和本草(やまとほんぞう)』をはじめ、『花譜』等、生涯に60部270余巻に及ぶ著書を残しました。

 その彼が多くの紀行文を残したことはあまり知られていません。松尾芭蕉と同時代に紀行文を書いていますが、点数・量とも遙かに多く、芭蕉と違って生存中に多くが出版され、何度も再版されています。博物学者として地誌的な観点で書かれた正確な描写が特徴といえます。

 今回紹介する『南遊紀行』は、84歳の時に『諸州巡覧記(しょうしゅうじゅんらんき)』と名づけて発刊したものですが、旅行は24年前の元禄2年(1689)、益軒60歳の時です。2月10日(旧暦)、京都を発ち、河内に入り天野山金剛寺から南面利、福瀬、国分、納花を経て岸和田に入ります。

(以下原文)

  • 新在家村 天野より三里。是より岸和田へ一里あり。の南に、久米田池とて大池有り。其形隅あり。東西八町。南北三四町有。水深し。水門有。此辺の田地を潤す。

    池の北の方のつつみを通る。池の西に、

  • 久米田寺有。其内隆池院に、行基自記の縁起あり。後宇多院の御時の太政官府有。大塔ノ宮令旨、楠正成の添状有。後高倉院の院宣、南朝正平年中の編旨四通あり、義貞、尊氏、直義、師直、師泰、仁木、細川、楠正儀、将軍義満等之文書あり。其外姓名不文明文書多し。此辺泉南郡に属せり。此寺に諸堂多し。大寺なり。行基の堂あり。里人の云、此寺行基里開祖たり。池も行基創(はじめ)てほると云。池の北に、久米田村あり。池の西二町許に、塚あり。橘ノ諸兄公の墓なりと云。不審(いぶかし)。諸兄公は井手の里にて斃じ給ひ、彼里につかあり。是は里人諸兄公を慕ひて後につきし仮の墓なるべし。かようの仮のつか他所に多し。里人の説に、久米田の池をほる時、諸兄公奉行たり。故に此の墓ありと云。是より岸の和田にゆく。
  • 岸和田は、岡部美濃守殿居城也。町長く、富家多し。此所海辺にて、且紀州より大坂への海道なる故にうり物多し、岸和田を南に出で、三四町に、
  • 貝塚あり。町長し。民屋多くは瓦ぶき也。

『南遊紀事』行程図

 鶴原、佐野を経て安松、樫井から信達で宿泊。14日に信達を出て淡輪、深日を経て加太から和歌山に入り、高野山を抜け、吉野山で折り返し、河内を通り、2月23日に京都の宿舎に戻るという強行軍でした。目的地でもあった吉野の地を訪れて20日の早朝から満開の桜を眺め、再び眼にすることは難しいと思うと「久しくやすらひて去りがたし」と書いています。