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「現代俳句に大きな足跡を残した鈴木六林男」(ミニ岸和田再発見第24弾)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2016年6月6日掲載

 鈴木六林男は、大正8年(1919)9月28日、大阪府泉北郡山滝村大字内畑1321番地(現在の岸和田市内畑町)に父貞祐、母む禰の二男として生まれた。本名次郎。父の友人で地元の大久保作次郎(のち芸術院会員)の影響で、幼少より絵画に興味をもつようになったが、山滝尋常小学校に在学中、父の事業の都合で両親と中学生の兄は泉大津に移住した。

 六林男は二人の弟と内畑に残り、小学校を終えるまで祖母に育てられた。小学校卒業後、両親の許から通っていた堺市立堺商業学校では、文学書を濫読し、俳句を校友会雑誌に発表するまでになり、友人のすすめで俳句結社へ出句し、句会へ出席するようになった。長じて20歳では、友人と語らい自らの結社誌「螺線」を創刊するに至った。同時に「京大俳句」「自鳴鐘」にも投句するなど俳句熱大いにあがったが、世は戦時ムード。21歳で陸軍に入隊。以後、中国大陸、フィリピンと転戦することとなった。六林男は、数ある戦場の中でも地獄といわれたバターン・コレヒドール要塞戦の生き残りで、十数片の機関銃弾の破片が腕に食い込んだままだったという。

 - 「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」「射たれたりおれに視られておれの骨」六林男と聞けば、俳人なら誰でも思い浮かべるこれらの戦争に対する怒りの句は、紙も鉛筆もない状況で、頭に刻み込んで持ち帰られたものです。

短冊「遺品あり岩波文庫『「阿部一族』」

 「このような生い立ちや経験を背景に、六林男は生涯、戦争や社会的不条理に対する怒りや額に汗して生きるものにそそぐ人間愛などをテーマに、俳句を作り俳論を展開していきますが、そのことが晩年、飯田蛇笏賞の受賞や現代俳句大賞の受賞となり、俳句界で高くその功績が評価されました。また、六林男は、師である西東三鬼の名誉回復の訴えでも奔走したり、現代俳句協会副会長などの要職や大学教授をつとめ後進の指導に当たるなどの社会的な貢献にも目を見張るものがあります。俳句に興味がある方もない方も、氏の現代俳句に残した大きな足跡を知ってほしいと思います。

鈴木六林男の句碑(内畑町) 大威徳寺 句碑写真

句碑(内畑町)           句碑(牛瀧山大威徳寺)「瀧壺を出でずに遊ぶ水のあり」