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沢庵宗彭(たくあんそうほう)と岸和田 (ミニ岸和田再発見第15弾)

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2015年8月4日掲載

 沢庵と聞いて思い浮かぶのは大根の漬け物、沢庵漬けでしょうか。沢庵和尚が考案したとか諸説様々ですが、沢庵宗彭が創建した東海寺(東京都品川区)では禅師の名を呼び捨てにはできず、沢庵ではなく「百本」と呼ぶそうです。沢庵は、室町幕府が事実上滅亡した1573年に但馬国(たじまのくに、豊岡市周辺)出石に生まれ、戦乱の織豊時代(しょくほうじだい)を生きました。出石は秀吉に攻められて陥落したため、父は浪人。10才で出家、出石の宗鏡寺(すきょうじ)から京都の大徳寺に移り、その後、堺の南宗寺に入ります。慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世しますが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻ります。江戸幕府が成立すると、寺院諸法度(じいんしょはっと)により寺社への締め付けが厳しくなり、大徳寺の住持職を幕府が決め、天皇から賜る紫衣(しえ)の着用を幕府が認めた者に限ることなどが定められたため反対運動を展開して出羽国(でわのくに、秋田県・山形県)へ流罪となります。俗にいう紫衣事件です。赦された後は家光の帰依(きえ)を受け、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の下屋敷に寓居したのが縁で、剣禅一味(剣禅一如)の境地を説きます。そして、家光が建立した東海寺に初代住職として入ります。

 一方、その頃の岸和田は、天正13年(1585年)、秀吉方の小出秀政(こいでひでまさ)が岸和田城主となります。関ヶ原の戦いにおいて秀政と長男吉政(よしまさ)は西軍方につき、敗軍の将となりますが、次男の秀家が東軍で活躍したため改易を免れます。吉政の長男・吉英(よしひさ)は、慶長9年(1604年)に父が和泉国岸和田藩に移った後、出石藩6万石を領しますが、慶長18年(1613年)、父が死去すると家督を継ぎ、岸和田に三代藩主として移ります。そして7年後には再び出石藩に戻ります。

 出石出身で既知の間柄であり、堺に居た沢庵が支援を受けるために吉英を尋ねて岸和田を度々訪れています。滞在したのは今の岸城神社の境内にあったと言われる日光寺(日光教寺)です。若くして大徳寺の住持となった沢庵の名声を知って大勢の来客があったようで、これを避けるために天下村の極楽寺に移ったと沢庵の弟子が記録した「沢庵和尚紀年録」に記されています。天下村は有真香村(あまかむら)で「天下」「阿間河」「阿理莫」等と表記されています。

沢庵和尚紀年録沢庵和尚紀年録

「沢庵和尚紀年録」元和元年(1615)沢庵43才

 また同じ「紀年録」にはこんな下りも記されています。「師名刹を見ること塵埃のごとく、声色を視ること泡幻のごとし、ある時は泉南の天下邑に在って幽邃深靖を愛し、ある時は・・・」幽邃深靖(ゆうすいしんせい)とは、景色などが奥深く静かで安らかなさまを表したようで、いかにも岸和田城周辺の煩わしさから逃れるのに最適な地だったようです。極楽寺は、近くの上の池や津田川が堀の役割を果たした城郭寺院で根来寺との攻防がこの周辺でもありました。和尚の供養塔と思われる石碑が境内に建てられています。  

 沢庵書「夢語(ゆめがたり)」      

 沢庵書「夢語(ゆめがたり)」